亀を壊す

猫目少将

7月12日 マレスを巻いた男

 目の前に、貝殻で作ったマスコットが鎮座していた。大小の貝殻で造形されていて、高さ十五センチくらいか。擬人化された亀とおぼしき形で、こちらを向いて敬礼している。土産用の粗雑な作りで、描かれた目すら左右非対称。だから、皮肉な瞳で万物を侮蔑するかのごとく見える。


 俺は、疲れ切った頭を上げた。バーの作り付け棚が壁一面に広がっているが、酒瓶はちらほら置かれているだけで、うら寂しい。棚の前に大きな操舵輪が飾られている。漂着物らしく、フナクイムシに食われぼろぼろで、みすぼらしい。酒瓶が少ないのを隠す意図だろうが、やっつけ仕事にも程がある。


 俺の前には、日本銘柄の缶ビールが置かれている。といっても、ここは日本ではない。ミクロネシア連邦チューク州ウエノ島、ブルーヘイブンホテル。グアム空港での深夜八時間にも及ぶ凶悪なトランジットを経て、ようやく辿り着いた。こうして一杯やっつけてから寝るつもりだ。


 俺がケツを落ち着けたのは、カウンターの隅。とにかく疲れていて、バーテンと余計な会話をしたくなかったからだ。


 しかしそれは取り越し苦労だった。二十席ほどのバーはそれなりに客が入っていて、たったひとりで店を切り盛りする年配のバーテンは大忙し。チューク人の彼は、シンジ・アイザキという日本人を俺が知らないとわかると、興味を失ったようだ。次から次へとカクテルを作る作業に戻っている。


 バーの扉を開けて、ひとりの男が入ってきた。大柄な白人で胸板は厚いが、腹もそれなりに出つつある。中年だ。どうやら常連らしく、勝手に冷蔵庫を開けてクアーズを取り出し、俺の隣に座った。


 その男のことが、少し気になった。弁当箱並にバカでかいマレスのダイコンを左腕に巻いている。随分旧い型だが、ダイビングコンピューターを身に着けている以上、俺と同じダイバーということだ。


 疲れているとはいえ、海の話ならいつでも歓迎する。俺の左腕にあるのはシチズンの超小型タイプ。スキューバをやらない奴には普通のデジタル腕時計に見えるだろうが、立派なダイコンだ。男もそれを目にしたようで、目礼してきた。


「もう潜ったのか」


 訊いてきた。


「まだだ。今日着いたばかりで。グアムでのクレイジーなトランジットで、俺は死にかけている」


 男は大声で笑い出した。


「そりゃ気の毒なこった。あそこは一晩中、放送してるからな」

「そうさ。手荷物に気をつけろとかなんとか。そんなの一時間に一度でいいじゃないか。五分おきに大音量ってのは、どういうことかと。刑務所放送かよ」

「ステューピッドだ」

「エアコンだって、嫌がらせとしか思えないほど寒すぎる。灯りは煌々としてるし、横になれるソファーはほとんどない。一晩中眠れなかった」

「グアムはラウンジに入らないとダメさ。お前はどこから来た」


 日本人だと聞いて、男は瞳を逸らした。黙ったまま、うら寂れた酒棚に視線を置いている。


「……まあ、ここトラックの海で癒やされろ」


 投げるように呟いた。


 ミクロネシア連邦は、戦前戦中の日本統治時代、戦後の国連信託統治を経て一九八〇年代に独立した。その際ここは、歴史的な呼称であったトラック諸島から、現地語ベースのチューク州へと名称が変わった。ただトラックという呼び名は、現地でもまだよく使われている。


 それからしばらく、ふたり黙ってビールを飲んでいた。俺がもう一缶バーテンに頼むと、男もまた追加を取ってくる。


「この亀、俺が持ち込んだんだ」


 マスコットの頭を、男は撫でてみせた。


「へえ……」


 興味がなかったのでスルーしたが、なぜか食い下がってきた。


「こいつキュートじゃないだろ。怖い感じで」

「そうだな」

「だから気に入った」


 同意を求めるかのように凝視され、少し困惑した。とりあえず頷いてみる。


「そういや昔、グリーンタートルで面白いことがあったよ」


 思い出したので、口火を切った。奇妙な経験だったので、ダイバーに話すといつでも受けるからだ。


「フレンチポリネシアで潜ったときの話だ。そのときはアイランドホッピングをして、三島回った」

「ランギロアとファカラバか」

「そう。あとボラボラと」

「そいつは豪勢だ。でも鮫ならともかく、あそこで亀なんてどうでもいいだろ」

「ああ。でも不思議な体験をした。ボラボラの珊瑚ポイントで潜ったときなんだが――」


 ダイバーに出会うと、海亀はおおむねゆっくりと逃げてゆく。人に慣れている個体だと、逃げはせず無視を決め込むだけの場合もある。いずれにしろ好意を見せることはまずない。しかしそのときの奴は俺に興味を持ったらしく、近寄ってきた。


 六十センチくらいのアオウミガメ。子亀だったのだが、周囲をくるくる回ったあげく、胸に顔を突っ込んできた。試しに手を出してみたら、甘咬みしてくる。


「お前、亀に手を咬ませたのか。クレイジーな奴だな」


 男は目を剥いてみせた。海亀の顎力は強い。餌だと思われれば、指など簡単に食い千切られるだろう。


「大丈夫。ほら、指はある」


 手を開いて見せつけた。怖くて指はさすがに出せず、握った拳を差し出したのだ。子亀は、猫のように優しく甘咬みしてきた。あの感触は忘れられない。


「よほどまずく見えたんだろ」


 男は大きく伸びをした。あくびをしているから、眠いのだろう。


「そりゃ、一生ものの体験だなあ……」


 そのまま、上を向いてしばらくなにか考えている様子だった。ぽつりと言う。


「お前、トラックではやっぱり人造物レックダイブをするのか」

「いや、俺は沈船は潜らない。キミシマ環礁狙いだ」

「クオープか。いいところだ。……ところでトラックに来て、なんで沈船を狙わない。世界的に有名な奴ばかりだろ。新しい映画はよく知らんので俺は観たことがないが、タイタニックって映画では、フジカワマルがロケに使われたとか聞いたぞ。ヘイアンマルとかだと、謎も多くて魅力的だし」

「嫌なんだ。チュークの沈船は、ほとんど日本の船じゃないか。戦時中の。米軍の不法行為で引揚民間人を乗せた船や赤十字マークを掲げた病院船まで沈められ、多くの死者が出た。親父や爺様婆様の世代が死んでいった船だぞ。沈船なんて、海亀の屍体と同じさ。悲惨で哀れだ。死に満ちた墓場で、なんで遊ばなけりゃならない。沈めた側の米国人が潜って喜ぶポイントだろう」

「そうか……」


 実際、チュークでは日本兵や民間人が一万人以上も殺された。日本人数万人の場所でだ。


 男はまた黙った。おそらく米国人なのだろう。俺はそう推察した。ビール一缶飲み終わる頃、彼は口を開いた。


「ひとつ聴いてほしい話がある。お前が日本人だから教えるネタだ」


 勝者の説教などごめんこうむる。休養に来ているのだ。


 俺の顔が知らずに歪んでいたのだろう。男は苦笑いした。


「違う違う。ダイビングの話さ。ボラボラの亀を教えてくれたからな。俺も亀のネタを持ってるんだ」


 握った右手の親指と小指を上下に振ってみせた。ダイバーの水中シグナルで、海亀の意味だ。


「亀……。チュークのか」

「ああ」


 男は話し始めた。


「ここトラックに、仲のいいガイドが住んでたんだ米国人の。だから俺は、休暇になるとよくここまで飛んで、沈船に潜った。知ってるとは思うが、俺達アメリカンはレックダイブが大好きだからな」

「わかってる。あちこちの海で、その話は聞くから」

「そのときも、毎日沈船を巡ったよ。でもさすがに一週間も続けると飽きるじゃないか。たまにはってことで、珊瑚の根で潜ったのさ。……ここからは、一緒に潜ったそのガイドから、後で聞いた話さ」


 そこで男はひと息ついた。意味ありげに俺を見る。


「俺達が根に着くと、ガイドはオサガメを見つけたそうだ」

「オサガメ……アカウミガメとかの見間違いじゃないのか」

「いや、オサガメだったらしい。七フィート近い巨大な体躯で、背中には七本のキールが見えたというからな」

「凄いじゃないか。潜水中に見た奴なんていないぞ」


 なぜか男は、顔を少し歪めてみせた。


「そいつは、珊瑚の上で休んでいたらしいよ」


 オサガメは外洋性で、しかも絶滅危惧種だ。水中で出会うことは、まずあり得ない。イルカやカジキよりも、はるかにレアだ。あちこちの海で潜ってきたが、遭遇した話など、聞いた試しがない。


「ついてこいと俺達に合図して、ガイドは、ゆっくり亀に近づいていったのさ」


 指二本で、スローなフィンストロークを真似てみせた。


「そいつは逃げなかった。頭を上げ、彼のことを凝視していた」

「チャンスだな、近づく」

「そうさ。興奮をなんとか抑え、脅かして逃がさないよう、注意深く寄った。もう少しで細部まで視認できる位置まで進んだが、そいつはふと泳ぎ始めた。少し離れたところまで行って、また着底した」


 よくある話だ。魚も亀も、無駄なエネルギー消費は極力避けようとする。外敵が襲えそうもないと判断する距離を取ってから逃走を中断し、こちらを観察するのだ。


「彼は後を追った。振り返ったが、俺達は誰もついていかなかった。不思議だったってさ、みんなが手を振っていたから」

「なんで突っ込まなかったんだ。奇跡だぞ」

「……まあ最後まで聴けよ」


 わずかに残ったクアーズを飲み干して、また一缶取りに行った。口を着けて続ける。


「でも一生に一度もない機会だ。それに俺達ゲストは皆常連で、スキルが高いこともガイドは知っている。後ろを気にしながらも、彼はそいつを追ったんだ。進むとまた逃げる。離れてから止まり、またガイドを見つめたそうだよ」

「たしかに連中には、そういうところがある。それで人間の相手をするのが鬱陶しくなると、浮上して呼吸したりとか」

「そうだな……」


 またビールを口に運んだ。


「とにかく近づいた。また逃げる。何度かそんなことを繰り返し、それでもかなり寄れたらしい。筋ばった甲羅がよく見える程度には」

「あの甲羅は皮で覆われてるんだってな。見られるとは羨ましい」

「ガイドは振り返ったんだ。今度こそ俺達を呼ぼうと。でも誰も行かない。それどころか、まだみんな手を振っている。……海で手を振るのは救難信号さ」

「知ってる」

「そのときのことだ。透視度はそれまで百二十フィート以上と高かったが、潮目が変わって急に濁りが出てきた。下げ潮になったからさ」

「澄んだ水が外洋から入らなくなるからな」

「俺達からは、ガイドの姿は、もうおぼろに見えるだけだった。ダイビングトーチを点灯し、激しく横に振ったよ。それを見て彼は、亀を追うのを諦めた」


 ライトを横に振るのは、緊急事態のシグナルだ。


「いくらレア種遭遇とはいっても、ガイドであれば、ゲストの安全のほうがはるかに重要だ。彼が戻ってきたので、すぐ浮上したいと俺達は身振りで訴えた」

「それでダイビングを中止して上がったのか」

「そうさ。水面に出るとすぐ、俺達はマスクもレギュレーターも外して口々に叫んだ。最初は半信半疑だったガイドも、全員の真剣な顔を見て真っ青になった。ボートに戻って、すぐ陸に上がった。そしてその日はもちろん、そのツアーの間中、もう潜るのは止めたんだ」

「いったいなにがあったんだ」

「俺達はガイドから聞いた。オサガメを追ったってな。でも俺達には、違うものが見えていたんだ」


 瞳に恐怖が宿った。


「それはな、亀じゃなくて兵士だったんだ。もちろんダイバーじゃない。平装のままさ。水中に直立し手を振って、ガイドを招いていた」

「それって……」

「そう、日本兵。幽霊さ。水深六十フィートなのに青く染まらず、軍服の白色がはっきり見えていた。そいつはな、なにか話したそうな表情で、彼を見つめていたよ」

「日本兵……」

「だから俺達は、必死で呼び戻そうとしたんだ。もちろん助けになんか行けやしない。恐ろしすぎて」

「……まあ、そうだろうな」

「あのまま彼がついていったらと思うと、ぞっとするよ」


 吐き出すように言い切って、男はクアーズを一気にあおった。




●次話「7月13日 ホワイトラム」は本日20:19に公開、それで完結。ほぼ実話です。

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