第2話 β1

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 坂道を上りながら、森川琴音は公園に顔をやった。

犬がフリスビーを追いかけてジャンプし、小高い丘の元へと走っている。

飼い主がエサを与えると、犬は朝陽をまき散らすように尻尾を振り回した。

丘の上へ視線を上げると、首を傾けた少年がベンチに座っている。

どこか遠いところを眺めているようだった。琴音は少年の目線の先を追った。太陽をバックにした時計塔がそびえ立っている。七時になりそうだった。丘から漂う磁力に抵抗するよう、琴音は学校へと急いだ。


 琴音が音楽室に入りコントラバスを取り出して調弦をしていると、鈴木里恵が近づいて来た。

「おはよう、琴音。今日、部長決めだね。もう決っているようなもんだけどさ!」

 首から掲げたソプラノ・サックスをさすりながら、鈴木里恵は朝練に来ている部員を見渡した。部員たちは目元を緩めながら、琴音に視線をやっているようだった。

「まだ分からないよ。多数決なんだし」

 琴音は弦を一本ずつ指で弾きながらつぶやいた。チューナーで合っていたはずの三弦が、変に感じられた。からまった針金を黒板でこすっているように聞える。琴音は目をつむって周囲の甲高い音を遮断し、全神経を三弦に集中させた。0と1で表せられない正確な音を、掴み取らなければならない、その最終判断を下せるのは自分の耳であり脳であって、それはつまり、わたし自身だ。楽器を手にして以来、琴音はそう信じて来た。

「でも、琴音しかいないってみんな思ってるもんね。三井部長は責任感まったくなくてグダグダだったしさ」

 鈴木里恵がそう言うと、二年生を中心とした女子部員は今の部長の悪口を言い始めた。音楽室は金属を擦るような女子の声で溢れてゆく。純粋な楽器の音は、教室の後ろで一人フルートの練習をする男子部員と、琴音が弾くコントラバスの三弦だけだった。

 顧問がやって来た。文化祭へ向けた曲の練習がすこしだけ行われる。琴音はまだ正確な音を掴みきれていなかった。奏でる一つ一つの音が、歪んで聞こえる。それは三弦だけではなく、四本の弦すべてが、空気に触れるのを拒否しているようだった。音が鳴るたびに、神経細胞がねじれて破裂してしまいそうな不快感が琴音を襲った。楽譜をめくることも眺めることもなく、音を身体に侵入させないよう意識しながら、琴音は両手だけを淡々と動かした。

 その日の授業はなにも頭に入ってこなかった。いつもなら簡単に解ける数式も、中学で習って何百回も見たはずの英単語も、琴音にとっては未知の記号にしか映らなかった。


 放課後、文化祭でのクラスの出し物を決めるホームルームで教壇に立った琴音は、説明を済ませると、手を挙げているクラスメイトを指名して意見や提案を述べさせた。ベタにお化け屋敷が良いと思います、いやそれは時間かかるよ、それこそ焼きそばでも焼いてれば良いんじゃん? いやヨーヨー釣りの方が楽だよ、だったら金魚すくいでも良いでしょ! もうひと回りもふた回りもしてるからこそあえてメイド喫茶やるのもありじゃん? だったら男子も女装してよね!

 ……なんの話をしているんだっけ? 切れかかった照明を眺めながら、琴音は思った。細長くて眩しすぎるこの照明、太陽より目がチカチカするな、ネオンみたいだったら良いのに。琴音は視線を落とした。真ん中あたりの席にいる男子の目と、その右後ろに座る女子の目が、混じるように映り込んだ。二人は琴音と目が合うと、熱く感じられる視線を一瞬放ったが、すぐに目を逸らした。二人の頬が赤く染まっているように、琴音には見えた。この二人の名前、なんだっけ? 副委員長の男子が黒板にチョークを走らせている合間に、琴音は教卓の中に手を入れ、気づかれないように出席簿を開いた。あ、そうそう、矢野くんと前田さんだ、もう半年近く同じクラスだけど、あんまり話してなかったんだよね。


 採決の結果、名曲喫茶をやることになった。適当にクラシックでも流して飲み物を出しておけば良い、という極力面倒くさいことはしたくないというこのクラスの性格が表れた結果に、異を唱えるものは少なかった。

 ホームルームが終わって音楽室に向かうまで、今まで考えもしなかった疑問が、琴音の心のなかでうずまいた。なんで委員長なんか、面倒くさいことやっているんだろう? 小学校の時も、中学校の時も、そして今も、変わらず同じことをやっている。わたし自身がやりたいなんて思ったこと、一度もないのに。でも、みんながわたしにやって欲しいと思ってわたしを選んだわけで、それを断るのは失礼だよね。だから今まで文句一つ言わずやって来たんだ……だけど、これはわたしのポジションじゃない気がする……いや、絶対に違う! 今朝のコントラバスの音みたいに、違うものなんだ。合っていない音を奏でるのは良くない、だって全部がおかしくなってしまうもんね――

 部長決めが行われる教室を通り越して、琴音は音楽室に入り、コントラバスを取り出した。クロスで念入りに拭き、チューナーを付け、精密機械を扱うように調弦してみる。正確な数値が表れた。音叉も使って、ペグを何回もまわした。

 しかし、どうやっても琴音が納得できる音は響いて来なかった。

「琴音、大丈夫?」

 と、鈴木里恵が近寄る。

「今朝もそうだったけどさ、ずっとチューニングばっかやってるよね。でも、もう十分キレイな音になってるよ?」

 琴音は応答せず、首を傾けて調弦を続けた。聴覚を失ったベートーヴェンがやったように、歯を食いしばって響きを確かめようとした。水と油を溶け合わそうと、永遠にかき混ぜ続けている気分だった。

「……なんか、その姿さ」

 鈴木里恵は笑いながら言った。

「公園で見る、清瀬くんのこと連想しちゃうんだけど!」

 琴音は、目を開けた。鈴木里恵に顔をやると、腹を抱えて笑っている。ねえー、その清瀬くんって、だれのこと? スイーツ店の話でもするように女子部員たちが寄ってきた。チクチクとした痒みが琴音の背中を走る。溢れようとする言葉の波が、喉までやってくる。嘔吐を我慢する時のように、琴音はそれらを飲み込んだ。

「……あれ、琴音、どうしたの?」

 ひと笑いした鈴木里恵が、指で目尻を拭いながら訊いた。琴音は粘着力の強いガムテープを剥がすように鈴木里恵から視線を外し、コントラバスに目をやる。三弦をゆっくりと、だけど力強く弾いた。

 地鳴りのような音が、音楽室に激しく飛び散った。


「委員決めをするので、二年生は集合してくださーい」

 そんな声がして、鈴木里恵は琴音の肩に手を置いた。

「さ、行こっか、次期部長さん!」

「……行かない」琴音は鈴木里恵の手を払った。「わたし、帰る」

 コントラバスをケースに仕舞うと、琴音はスクールバッグを掴んで戸口へ向かった。部員たちの視線が、集中線のように琴音の背中にぶつかる。

「どうしたの? 変だよ、今日の琴音。いつもと違うじゃん!」

 逃げるボールを追いかけるように、鈴木里恵は琴音の背中に声をぶつける。深海のプランクトンみたく舞う埃をかき消しながら、二人は廊下を駆け抜けた。

 階段の前に立った時、琴音は振り返って叫ぶように言った。

「ついて来ないで! わたし部長なんかやらない。それに……部活も辞める」


 昇降口を出た琴音は、顔を上げた。時計塔と校舎は夕陽を浴びている。変な光景……。琴音は思った。時間感覚が麻痺するような、コンサートホールの舞台上みたいだな……

 運動系の部活が、特に力を入れるわけでもなくグラウンドで練習していた。それをフェンス越しから眺めるよう一周しながら、琴音は起伏のある道へと出た。揺らめく夕陽の光を、踏み潰すように歩く。風邪をひいて学校を休んだ日のような、浮遊感と背徳感が琴音を包んだ。


 気づけば、公園の芝生の上に琴音は立っていた。丘の上へと目をやる。朝と変わらない位置に、少年はいた。頂上に続く丸太で作られた階段を、琴音は上った。

 丘の上からは、街のすべてが見渡せた。唯一、障壁となるのは、琴音の通う南ヶ丘高校の時計塔だけだった。それを目の高さで見られる位置に、少年は座っている。琴音は少年の斜め向かいのベンチに座った。バームクーヘンを三つに切ったようなレンガ造りのベンチはすでに冷たくなっていて、自分の太ももが氷枕みたいにひんやりするのを琴音は感じた。

 灰色のスウェット姿の少年は目を閉じている。眠っている、というわけでは無いようで、頻繁に首を動かし続けていた。その動かし方は、気持ちの良い音楽を聴いているようでもあり、頭のなかでサイコロを永遠に転がし続けているようでもあった。琴音はその姿を見つめた。胸の内が熱くなって、涙が滲んで来そうだった。

 帰りを促すチャイムが、屋外拡声器から響いた。

 少年は目を開けた。そして膝元に置いてあったカメラを手に取り、琴音の方へ向けた。古いアナログカメラのようだった。琴音は、片目を力強そうにつむる少年と、カメラのレンズの双方を見た。どちらにも吸い込まれそうだった。少年はカメラを構えたまま、また顔を揺らし始めた。今度は身体も左右に動かしている。琴音は後ろを振り向いた。時計塔があった。そうか、あれか、あれを撮りたいんだな、わたし、邪魔だったんだ。琴音が左端に移動しようとした時、少年は立ち上がってシャッターを切った。閃光が走る。琴音はチカチカする光の残像を消そうとまばたきした。フラッシュは何度も焚かれた。琴音の視界は真っ白になっていった。

 カランとした乾いた音が聞こえる。少年は階段を下り出していた。

 ……ねえ、清瀬くん!


 そう、琴音が声を出そうとした時には、少年の後ろ姿は遠く、火のついたマッチ棒のようにおぼろげだった。


〈α2に続く〉

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ラムネ玉の夢〜ふたつの世界は交差するか? 真木早希 @sakimaki

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