「 恋 」~田舎娘とまつろわぬ貴公子……と、憂鬱な侍女~
『戦神作戦』……貴族令息たちを戦場に送ることで、自国軍の士気高揚をめざした作戦。国の英雄として謳われる「戦神」の伝説にちなみ、占星術によって選ばれた令嬢たちが、令息たちの婚約者にあてがわれた。
語り部いわく、「いいなずけの待つ家に、兵士は必ず帰るだろう」
【登場人物】
・エイダリュシカ……地方大荘園領主のひとり娘。二十一歳。由緒ある侯爵家の出だが、実家がへき地のため、社交界とは無縁に育つ。たいへん背が高い。
・ティムシャール……元属国王家の第二王子。十八歳。三年前に母国が主国に併合。現在は主国貴族として、侯爵の地位にある。
・ダフネ……宮廷侍女。十七歳。戦神作戦の期間のみ、エイダリュシカの専属侍女に任命される。任命理由は「宮廷侍女で一番背が高い」。
胴はクマ、顔はまるで細口の花瓶だ。前に向かってとがっていて、口のあるらしい尖端は小指の先ほどもない。
頭と同じで四肢が白く、垂れる稲穂のような毛の長い尾と胴が黒い。
「ティシャ様ティシャ様! カベハイコアリクイですよ! かわいいですね!」
「珍種かな。エイダは物知りだね」
美しく波打つ明るい色の赤毛が、檻の前ではしきりに揺れている。隣りの黒髪のほうが、後ろでまとめているぶん頭を小さく見せていた。背もそちらのほうが低く、嫌になるくらい華奢だ。はしゃぐ声さえ聞こえなければ、どちらが花嫁か間違えそうになる。
「えへへ、荘園ではときどき見かけてました。王都ではめずらしいのですか?」
「動物自体がね。この子も故郷でつかまって、ここまで無理やり連れてこられたんだよ」
「なぬ!? それはかわいそうです。なんとかおうちに帰してあげられないでしょうか?」
「おすすめしないね。売ってる人はきっとどこから来たか知らないだろうし、少しでも間違った場所で放されたら、それこそこの子にもいい迷惑だ。ここへ来てしまった時点で、誰かに飼われるしかないんだよ」
「むむう。せめてよいご主人様と出会えればいいのですが」
「ダフネ! ダフネはどなたかご存じありませんか? よいご主人様になれそうな方」
急に振り向いた
その隣で同じように振り向いた彼が笑っている。
わたしと同じ色の肌でほほえむその彼を見返して、ただ呆然と立ちつくす。休みをいただいた午後、今日はもう
わたしは、なにをしているのだろう……。
**********
午後の市場は落ちつきこそすれ、まだ朝方の活気が残っている。織り物と焼き物の市が同時に出ていて、人出もまばらとは言いがたい。
そんな中をあちらへこちらへと駆けまわるエイダ様は、まるで水鳥たちの降り場にまぎれる
「だーふねっ」
躍る赤毛を広場の片隅から目で追っていれば、軽薄にはずんだ声がわきでする。正直答えるのが面倒なので、無言のまま視線だけ差し向けておいた。
「うわ。なにその、『気安く声をかけられる身分か』、みたいな顔」
「そんな顔していません。あなた様は、気安く声をかけられる身分ですし」
つとめて平静な調子で、心外であるとだけ言って示しておく。よしんば無礼な顔をしていたとしても不本意のこと。元々男の子のようだとよく言われていた顔だ。
「ならいいけど。心配したんだよ。ぼーっとしてるし、気分でも悪いのかなって」
反対に、日に焼けた女の子のような顔をした彼は、その人好きのする目を上目に使って首をすくめている。うそをつくことなど知らないような青い瞳。気分といえば、さっきからたいへんよろしくない。
「……はぁ」
「え、なに?」
「いえ、別に」
小首をかしげている黒髪から顔をそむける。別に、なんだっただろう、本当に。もう忘れた。
「わたくしのことはお気になさらず。あなた様こそ、よろしいのですか? エイダ様をおひとりになさって」
「ああ。目の届くところにいるように、とは言ってあるからね」
子供か、とは言わないでおく。
実際、あらゆる出店の前で目を白黒させてはしゃぐあの姿は無邪気そのものだ。あれと戦勝祈念の晩餐会にいた、行き遅れと田舎育ちを愚弄されながら完璧な所作でいなしてみせた人物と、本当に同じかと疑いたくなる。
「そう申されましても、まずなぜこのような下町へおいでに? おしのびとはいえ、いささか浅薄ではございませんか」
「エイダが来たいって言ったからね。ぼくもこういうところは嫌いじゃないし」
「……おやさしいことで」
人を言いわけにしたのをとがめたいのをこらえ、また新しい溜め息を相づちに隠して吐いておく。曲がりなりにも王都の市だ。地方の街などと比べても格が違うのだから、エイダ様のお気持ちはよくわかる。
ただ、その彼女を連れてきたほうは、本当におやさしいのなら、連れてこられたほうのそばにいてあげればいい。自分などの隣りにおらず。
「ダフネこそ、街へなにしに?」
「普通に用事です。せっかくのお休みですので、まとめていろいろと。あと、実家への仕送りも」
「えらいね」
仕送りも用事ではないか、と自分に言いたくなる。なぜ付け足したのか、よくわからない。
「心配といえば、もうひとつあってさ」
「……なにか?」
「どうして眼鏡? エイダは訊かなかったけど」
尋ねられると、目を合わせてしまう自分が嫌だった。普段はない薄い
「これは変装用の
「変装?」
「はい。あなた様のようなおしのび中の方に見つかってしまうと、お休みにもかかわらず、こき使われてしまうかもしれないので」
「ああ、なるほど。ダフネは目だつもんね」
おふたりほどでは、と言いかけたものを飲みこむ。
彼も彼で落ちついた装いではあるが、あくまで〝母国風〟だ。袖口や襟に独特の刺繍をあしらった、前とじのローブのようなもの。肌の色や、頬の隣りで白く染めた髪のふさと合わせて、道行く人々を否応なく振り返らせる。移民系や旧属国系の体の特徴だけなら、そこまでめずらしいわけではない。
「わたくしなどは、それほどでも」
「そんなにきれいな髪してるのに?」
肩にかかる髪を、手のような感触で、風がなでていった。奥歯の浮くような心地悪さに、人のいないほうを向く。
「……いま、とても切りたい気分です」
「もったいないなあ」
「さしあげましょうか? 首に巻くにはいい長さかと」
「ちょっと趣味じゃないかな」
いい考えだね、と言われていたら、どうするつもりだったか。
つまらない考えが浮かんできて、振りきるようにふたたび市場へ目をやる。と、織り物の出店で布を当てられているエイダ様と目が合った。
とても上機嫌で手を振ってこられる。急に背すじを伸ばしたので、その肩に生地をかけようと必死につま先立ちをしていた女性が隣りでひっくり返っていた。
「……やはり心配です。行ってついていてさしあげ――」
木かげを出ようとして、つんのめった。横合いから走ってきた子供とぶつかったのだとすぐに気がつく。
反射的に抱きとめようとしたが身をよじって逃げられ、「気ぃつけろ、デカ女!」となじられた。謝るより早く、「誰がデカ女ですか」と口をついて出そうになるが、それよりもっと早く、隣りにいた彼が子供の行く手をふさいで、はがい締めにした。
「少年! 慣れてるな?」
「あ! このッ、離せ! 冥府の民のくせに!」
「離すよ。きみがお姉さんの財布を返したら、ね?」
興奮して赤らみかけていた少年の顔が急に青くなる。彼が耳もとでささやいた途端にだ。
財布と聞いて、こちらもハッとする。腰のポーチに手をやると、ふたが開いていた。
「ちくしょう! 覚えてろよッ、オンナ男!」
「オンナ男はひどいなあ」
悪態を置き去りに駆けていく少年を見送って、彼がぼやていた。いましがた『冥府の民』と、見かけのこと以上の侮辱を受けたはずだが、そちらは気にならないらしい。
「はい、財布。やっぱりぼーっとしてるね、今日のダフネは」
「これは、とんだお手数を……」
差しだされた巾着を取ろうとして、思わず手が止まる。思いなおし、不自然でないように手のひらを上に向けて差しだすと、彼はそこへ財布を置いた。
「……どうせ、たいした額は入っていませんでしたから」
「あげちゃえばよかったっていうの?」
「いえ。ありがとうございます……」
心配する側がやられていては世話がない。そう鼻白んで強がっているように見せて、触れそうになった指先の怖れをはぐらかした。
「ところで、本当にほとんどからっぽだったけど、ダフネ金欠?」
「豪遊したみたいに言わないでください。必要なぶんしか持ち歩かないだけです。今日はもう用事は済ませましたし」
「賢明だね。じゃあおごってあげるよ」
「は?」
こちらが目を剥くより早く、彼は木かげから飛びだしていた。人波の入り口で軽快に身をひるがえし、「のど渇かない?」と尋ねてくる。
「なにかもらってくるよ。エイダを呼びに行くついでにね」
「いえ、それぐらいは、自分で――」
「いいから。ダフネもおしのびでしょ?」
白い歯を見せて笑い、そのまま離れていく。そのほがらかな笑顔が目に残って、呼びとめる機も逃がしてしまう。たったいま、スリの子供を捕まえたときの、ひどく冷たいおもざしは、むかしのままに見えたというのに。
*******
剥いた皮から果肉のふさをむしり、口へ運ぶ。軽い弾力のあるふさを舌の上でつぶせば、甘酸っぱい果汁とふしぎな清涼感がにじみわたる。広場の隅のベンチに腰をおろし、黙々と味わう。
西部特産の果実だ。南部生まれのエイダ様は初めて食べたと言い、ひとしきり感激してみせたあと、食べかけのそれを片手に持ったまま、また市場めぐりに旅だっていった。名士たちに襟を正させた、あの華麗なる作法はどこへやら。いまは
「元気だなあ、エイダは」
隣りに座る彼も、同じように婚約者を目で追っていたらしい。わたしは「そうですね」と、いまは落ちついた心地であいづちを打てた。
「落ちこんでおられないようで、よかったです」
「シエラのことだね?」
「はい。一番親しくされていたそうですので」
シエラ。
燃える想いをひた隠して戦神作戦に加わりながら、同じ婚約令嬢たちに向ける態度は思いやりに満ちていた。我々侍女たちの目にも誰より大人びて見えて、令嬢たちの多くも大なり小なり心の支えにしていたようだった。
「あなた様のほうは、問題ございませんか? 新郎側のトリエール卿、ご交遊があられたのでしょう?」
「ラスのこと? さあ、どうしてるかな」
「おや。ご友人では?」
「そうだよ?
彼は平時と変わらない調子でそう言い放つ。「そういう意味では心配かなあ」などと、ずれたところで取りつくろうところまで含め、いまさら呆れもしない。
けれど、次に聞いた声はほんのかすかに冷えた感触がして、不意の耳もとの
「でも、結局は彼らも自業自得かもしれない。ラスに嫁がせようとしていたのは、恋人とおなかの赤ん坊を同時に奪われ、一年余りも引きこもっていたところを、無理やり引きだされてきた娘だった。いかにその父親がかしこく立ちまわっていたからと言って、嫁ぎ先のトリエール家までそれを知らなかったとは思えないからね」
責任問題だ、と彼は言っていた。シエラが除籍となった子爵家はもちろん、嫁ぎ先の
「ラス自身は完全なとばっちりだと思うけどね。彼ってそういうの、教えてもらえなさそうだし」
彼がまたにこやかに言うのを聞けば、思いだしてしまう。
麦穂色の髪の、美しい青年。誰よりも快活に笑い、令嬢たちの視線を釘づけにしていた。その隣りには、慈しみ深くほほえむひとりの女性が寄り添っている。
あの移民の血を示す白銀の髪を、青年は心から受け入れていた。たくましい腕に軽々と抱えあげられたあの女性は、とても幸せそうに見えた。
「先ほどから、いささか不謹慎ですね。よろしいのですか? そのような物言いでばかり。わたくしめがどこぞの人前で漏らしてしまうかもしれませんのに」
「ダフネはしないよ、そんなこと」
「そうでしょうか? 買いかぶりはおそれいりますが、わたくしめは――」
「今日、エイダについてこなかったでしょ?」
やけに調子よく話すので、少し釘を刺してやるつもりだった。どこを刺しかえされたのか、すぐには判然としない。きっとはったりだ。そう考えられても、顔を見られないよううつむいてしまう。
「それは、用事が……それに、エイダ様専属の侍女と言っても、臨時に過ぎませんし」
「それで遠慮したの? てっきり怖いんだと思ってた」
「怖い?」
「あのことは誰にも話してない――だから、安心して?」
喉もとがほてっている。いつの間にか脇の下が、冷たく湿っている。
おぞ気がしたように身ぶるいしそうになるのをこらえ、奥歯をかみしめた。熱く噴きだしそうな鼻息を閉じこめて、いら立ちだけを声にする。
「安心するもなにも、当たり前のことです。あのようなこと……」
あのこと……思いだしてしまう。
汗が背を伝う感覚。火のような吐息。
すべて振り払うようにかぶりを振り、「だいいち、知られて困るのはあなたのほうじゃ――」とたまらず語気を荒げ、にらむために顔を振り向けたとき、やわらかいものを口に押し当てられた。
強く押され、唇をひらかされる。弾力のある固さが舌先に触れる。甘い味がする。
同時に、耳のうしろに体温を感じて、かき分けられた髪のひとつひとつをしびれが伝った。
やがて手があったはずの場所を、涼やかな風が流れていく。口先にだけ、まだ感触が残っている。
その感触に縫いとめられたわたしを、面白おかしそうに見返しながら、彼は取りあげた黒いふちの眼鏡を、自分の顔にかけていた。
「はい、交換。ダフネの口止め料は、こっちね?」
口の中で果肉がつぶれる。酸味を含む甘みが、舌の上に広がっていく。
思わず口を押さえ、こぼしそうになった果肉を押しこんで、噛まずに飲んだ。それでも舌の上をなでていかれた感覚は、しこりのように残される。
その違和感まで見透かされている気がして、笑う彼をにらみ返せもせず、また顔をそむけてしまう。ずっと知っていたはずなのに、いまさらのように思い知らされていた。
この男は
「返してください……眼鏡」
「なくても大丈夫だよ。ぼくらといっしょなんだし」
「誤解を招くようなことをなさらないでほしいと、申しあげているんです。エイダ様は、あなた様に――」
「誤解ってなぁに、ダフネ?」
「ッッッッ!?」
心臓が跳ねた。さっきの彼のたわむれ以上にだった。耳もとで愛らしい声がしたことに、吹き出た汗が残らず吹き飛んだ。
「エイダ様……?」振りかえると、豊かな赤毛と翡翠色の瞳が目にとまる。「いつから、そちらに……?」相手はしゃがみこんでいるのに目線がさほど低くない。その体の大きさで、どうして気づかれずに忍び寄れるのか。
「ダフネがティシャ様からあ~んしていただいてるところからですよぉ? もーおふたりがとってもなかよしでいるのを見て、エイダはきゅんきゅんしてしまいまして!」
顔を両手ではさんでふりふりと、しきりに頭を揺らしている彼女を見て、絶望と安堵を行ったり来たりする。しまりのない顔で恍惚とされているのを見る限り、なにも悪いようにはとらえていないらしかったが。
「はい、エイダもあーん」
彼も彼で取り乱した気配もなく、手もとに残っていた果肉を婚約者の顔の前に持っていく。婚約者は子犬のように喜んで口をあけ、もらうものをもらうと言葉にならない歓声をあげる。
こちらには、どっと疲れが押しよせてきた。はたして本当は、自分がおおげさなだけなのだろうか。いいや、そうでなくても、このふたりを同時に相手にしていたら心臓が持たない。これはいまわかった。
「エイダ様。お楽しそうなところ申しわけございませんが、わたくしはそろそろ」
「ええっ! ダフネ、行っちゃうんですか!?」
うっとり顔から一転、心から困りはてた顔をされる。彼女にそう熱心に惜しまれると、こちらにも名残惜しいものが湧いてきたが、「まだ日が高いよ。もう少しいれば?」と、一向に眼鏡を返さない隣りの男から勧められると、意地でもここを離れようと気持ちが固くなった。
「そうだ!」が、こちらが立つ前に、臨時の主人が手をたたく。
「ダフネにお土産をあげましょう!」
「へ? は?」
言うが早いか立ちあがると、こちらがぽかんとしているのも気にかけず、彼女は小走りに市場へ戻っていく。「えっ、エイダ様!? そのようなお気を使わずともッ……」ほとんど無意識のまま腰を浮かして呼びとめていたが、「少しだけ待っててくださいーッ」と大きく手を振って、彼女はより速く駆けていった。
「お土産だってさ。楽しみだね?」
「……はぁ」
あいまいに相づちを返しながら、へたりこむようにベンチに腰を戻す。帰る気力が失せた、というより、あの女性には下手に抵抗できないという感覚がいつもある。侯爵家令嬢という身分のこともあるが、それ以上になんとなく、悲しませたくはないという気がするのだった。
「あなた様は、追わなくてよろしいのですか? わたくしならもう、逃げはしませんので」
「さっきの話だけど」
できれば追いかけていって、少しひとりにさせてほしい。そう思って尋ねたのだが、彼はまったく関係のないことを口にして、わたしにふたたび身を固くさせた。
「たしかに、困るのはぼくのほうだね。きみは実家に帰されるくらいかな」
「急に、なにを……」
「ぼくは自分がシエラに当たらなくてよかったと思ってる。戦神作戦には、母国民族の代表のつもりで取り組んでいるからね」
彼を見る。きっとにらむように。
ほがらかさをひそめた顔で、彼はどこか遠くを見ていた。そのまなざしに、かつて彼がこの国へ迎えられたばかり頃の、冷たい面影を見そうになる。
「もちろん、エイダのことは気に入ってるよ。貴族のお嬢様にあんな子はそうそういないし、ぼくのめざすものにも理解を示してくれた。家柄も申しぶんないしね」
そう言って、彼はほがらかさを取り戻す。エイダ様。あの人が、彼を笑わせる。
なのに彼の目は、あの人を見ていない。彼の青い目は、いつであろうと、故国のことしか見ていない。
あのときも、そうだったのですか? わたしに情けをくださったのは、肌の色が同じだったから? それとも、移民のこの白い髪がものめずらしかったから?
知っている。そういう男だと。知っているのに、わたしは悲しくなってまた目を落とす。
まるで、そんなことを言わないでほしいと、願っているかのように。
「エイダ様は、あなたに恋をしてらっしゃいます」
祈るように、告げていた。
見ずとも、かすかに、驚く気配がした。もしかしたらはにかむような、めずらしい顔をしているのかもしれない。だとしたら、わたしはそれを見なくてもいい。そう思えたのに、
「……そう、なのかな? だとしたら光栄だね」
そんなふうに、取り乱さない様子で声を弾ませるから、余計に言いつのってしまう。
「エイダ様は、純真で、本当に気高いお方です。本来ならば、あなたのような――」
あなたのような――たとえどれだけ思いつめても、その先を言えはしないのに。
「……いえ。誰であろうと、恋する乙女を裏切る殿方は最低です。エイダ様はわたくしの一時の主人ではございますが、いまや大切な友人でもございますので」
「なるほど。それは心得ておかないとね。きみにも嫌われたくはないし」
唇をかみたい。この期に及んでなぜ「きみにも」なのだろう。
声をあげたくなくて、固く閉じたまぶたの裏に、シエラの顔が浮かんだ。
シエラ。シエラエイラ。彼女の気持ちは、わたしにはわからない。身分も違えば、世の感じ方も違う。
それでも、問いたくはなるのだ。彼女の中で、消える前の
「エイダ!? それは……」
「お待たせしました!」
彼が、今度こそ驚いた声をあげた。と同時に、はじけるような声がそこにかぶさって、わたしも目を見ひらいた。
目の前に、質素な色合いのドレスにコートを重ねた、背の高い女性が立っている。肩で息をしながら、上気した頬に満面の笑みを浮かべて、その腕には、顔の長い白黒の小動物を抱えていた。
「さ、先ほどの、コアリクイ……?」
「はい!」
「まさか、その子がお土産、ですか……?」
「はい!」
夕陽色の髪を揺さぶって、自信満々でうなずき倒される。なぜかアリクイ側も、革の
「エイダ、なぜそれをダフネに?」
いつも落ちついている彼も、さすがに戸惑った様子で婚約者に尋ねている。とてもめずらしいことに。
「ダフネは宮廷侍女でしょう? ですから、いつまでもはいっしょにいられません。けれど、もし本当にわたしの侍女だったなら、きっとどこまでもついてきてくれるって信じてます。これはその、信頼のあかしです!」
ほがらかに、堂々と、彼女はそう言いきった。
本当に彼女の侍女だったのなら……意味はわかる。意味はわかるが、理屈に全然ついていけない。たしか、その動物の最後まで責任を持てる飼い主を捜していたはずだ。ご自分の代わりだと思ってその子を飼ってと、そういうことだろうか。飼う? 飼うでいいのか?
「エイダ。でも、侍女の寮では無理かもしれない」
「えぇっ、そうなのですか!?」
難しい顔をした彼が、やんわりと苦言を呈する。途端にオロオロとうろたえだした婚約者に、部屋が狭いだとか、侍女頭が厳しいだとか、現実的な問題点をなみなみと語っていく。
その様子を見ていて、なんとなくいら立たしくなって、不意に心が決まった。立ちあがったわたしは、いまの主人の腕の中のものに、すかさず手を添えていた。
「いいでしょう。お引き受けします」
「ダフネ?」
戸惑う声がする。胸に火がともる。
受け取った小動物を肩に乗せると、存外に人に慣れた様子で頬にすり寄ってきた。首すじに当たるにこ毛が心地いい。
謝辞といとまを告げ、ようやくその場をあとにする。うしろから一度だけ呼びとめる声がして、振り向けば、男性ものけぞる長身のご令嬢が手を振っている。
「ダフネ! おしのびもまたっ、今度はふたりきりで行きましょうねー!」
答える代わりに、腰を曲げ、頭をさげて同意を示す。「ええ。必ず」と、聞こえない返事を口先でもてあそんで。
ふたたび背を向ける前、この目は愛しい主人ではなく、その隣りでほほえむ彼女の許婚を映していた。
その場所に、わたしはずっとはいられない。戦神作戦が終わるまでしか。
だからそれまではそばにいて、祈っておりましょう。
その男が、二度と帰ってきませんように。
「 恋 ‐ エイダリュシカとティムシャール…………と、ダフネ 」了
戦神たちの花嫁【読み切り版・貴族令嬢&令息“いいなずけ初デート”短編集】 ヨドミバチ @Yodom_8
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