「 夢 」~癒し姫と壊れた王子~
『戦神作戦』……貴族令息たちを戦場に送ることで、自国軍の士気高揚をめざした作戦。国の英雄として謳われる「戦神」の伝説にちなみ、占星術によって選ばれた令嬢たちが、令息たちの婚約者にあてがわれた。
語り部いわく、「いいなずけの待つ家に、兵士は必ず帰るだろう」
【登場人物】
・ニールコーラル……公爵家三女。十二歳。王家の
・フィリップ……王家外戚にあたる侯爵家の嫡男。二十五歳。猛烈な情緒の不安定さから、あらゆる縁談を破談にしてきた。顔の右半分に火傷の痕がある。
あの大柄すぎる図体でどうやって書架の迷路をくぐってきたかはわからないが、静かに文字を追っていたところを見つかってしまった。また例の乳母かご尊父の侯爵殿にでもそそのかされたのだろう。茶の誘いを断ると例によって泣きわめいて手に負えなくなったので、渋々付き合ってやることにした。このわしに一歩も歩かせないのが条件だ。
王宮の中庭にある温室は植物園になっている。侍女たちに椅子とテーブルを持ってこさせれば、しゃれた茶会には申し分ない。盛られている菓子はわしの好物ばかりだった。これまた入れ知恵か。
当の
ばぐ ばぐ もぎゅ もぎゅ
用がなければ話しかけてはこない。まあそのほうが幸いだ。わしも侍女に顔を拭かせたあとは、ときどき茶で喉を湿らせるほかは、読みかけの医学書をひたすら読み進めていく。
懸念していたよりは静かな午後だ。先日の華々しい破談騒ぎから王宮内は飽くことなくてんやわんやで、どこへ行っても人の声がして敵わない。気晴らしをしようにも、エイダたちは勧められるまま各々の
ばぐ ばぐ もぎゅ もぎゅ
……さっきから思っていたが、なんとまあ汚らしい食べ方よ。
口というより顔面に焼き菓子をこすりつけるようにして、半分ほどは口に入ってすらおらん。うしろに控えている侍女たちが顔をしかめるはずもないが、しつけのなっていない犬を見せつけているようでなにやらいたたまれない。いいや、犬だとして、飼い主ではないこのわしの感知するところではあるまいて。さて、どこまで読み進めたか……。
ばぐ ばぐ もぎゅ もぎゅ
がつ がつ じゃぐ じゃぐ
「……」
……気づかないふりをしていたが、この婿殿、口を開けたまま
ものを噛んでいる人間の口など見れば見るほど醜いし、見なければ見ないで音が耳の穴にこびりついてくるとあっては、結局また目が行く。いかに作法嫌いのわしといえど許せぬものはある。周りが静かなだけ余計に始末が悪い。しかしながらどやしつけたところで、またかんしゃくを起こされるだけのこと。いいや、そもそもなぜわしが婿殿をしつけ直してやらねばならぬのか。手もとの書物に集中しておればよいのだ。さて、ここはなんの項目だったか……。
ばぐ もぎゅ ばぐ もぎゅ
がつ じゃぐ がつ じゃぐ
ばぐ がつ もぎゅ じゃぐ
「……………………フィリップ殿」
「もぎゅ?」
もぎゅではない、畜生め。
「ごくん。なんだい、ニコ?」
ニコとわしを呼ぶことを許しているのは戦神新婦専用宮で同室のエイダやベルメたちだけだ。
すねを蹴りに行きたくなるのをこらえ、むりくり持ちあげた口角をどうにか向ける。
「甘味の早食いが危険であると聞いたことは?」
「……危険?」
向かって左の青い目と紅茶色の右の目が同時に見ひらかれる。左右で色が違うとそこにふたりいるように思うことがあるから不思議なものだ。
「そうじゃ。甘いものには人間の活力となるものがよく含まれておる。それは血によって全身を巡るのじゃが、血が運べる量には限界があるのじゃ。ここまではよいかの?」
「血が甘いものを運ぶの?」
「そう思っていただいてかまわん」
あまりピンと来てはいなさそうだが、無垢に受け入れているような顔をされる。細かいところをうるさくしていては伝わるまい。
「甘いものを食せば食しただけ、血は愚直にすべて運ぼうとする。しかし、人間の体にはそれを憂いて、無理はするな、休め、と号令をかける機能もあるのじゃ。働きすぎは体に毒じゃからの」
「どこにあるの? ニコにもある?」
「へそより少し上のあたりじゃ。殿にもあるぞ」
教えてやると婿殿は自分のみぞおちのあたりを押して確かめはじめる。宮中用の上等な衣装が手についた菓子屑でべちょべちょになっていく。まあ痛くなければよい。
「ただし、この号令を出す場所があまりうるさくなりすぎると、今度は血が運ぶことを一斉にやめてしまうのじゃ。常にほどほどには運びつづけていなくては、人間の体は活力を失ってまいってしまう。めまいなどがして、倒れてしまうこともある」
「ケイトも甘いものを食べすぎたの?」
「あれはまた別じゃ。どちらかというと
令息との初顔合わせで失神した高慢娘を思いださせられて少し頬がゆるむ。戦神作戦への参加がいかな名誉であるか
「とにかく、血が働かなければ寝たきりになることや、心臓が止まってしまうこともある。医学士の中には、砂糖は毒であると公然と謳いあげている者もいるのう」
「毒!?」
すっとんきょうな声をあげた婿殿にややかんしゃくの気配を感じ、「食べすぎればの話じゃ」と急いで言い添える。気がゆるんで少し脅しすぎたか。
「じゃが、いまのフィリップ殿のような食され方をしていては、ご安心めされよとも言いがたい。そうじゃのう。まずはゆっくりと味わって食すこと。加えてわしなら、たびたび茶を飲むことを勧めるかのう」
「お茶を?」
「うむ。甘味と並べて出される茶は、単なる添え物ではない。茶葉には薬草として消化器に鎮静的な効用が……あーつまり、血が働きすぎるのを比較的おだやかに
テーブルの上を目で指してやると、婿殿もならって自分用の茶器に目を落とす。すっかり冷めているだろうその中の薄赤色の水面をじっと覗きこんでいる様は、深き井戸の底に怪物の姿でも探しているようだ。いろいろと手間はかかるが、無垢な者は操りやすい。成婚後もこのような調子でいなしてやればよいのだろう。よき妻になろうとして心折れた凡百の見合い相手とは違い、わしはわしの勉学さえ邪魔されなければよいのだから。
「すごい」
背を曲げたまま婿殿の顔だけあがる。上皮に変色のない右の
「ニコはすごい。お茶とお話ができるなんて!」
「んあぁ?」
あー、諌め、なだめる、か。ななめ上の取られ方ではあるが、しかし、サルのような食べ方さえやめてもらえるならなんでもよい。
「まあなに、この程度はお茶の子さいさいというやつじゃ。茶だけにの」
「お茶の子?」
「そこは拾わんでよい。すごいのうちに入らぬということじゃ」
「すごいよ、ニコは。みんなに自慢できる。公爵様も鼻が高いだろうね」
「……なんじゃと?」
いささか調子よく話していて、腹の底が温まっていた。それがたちまちに冷えていくのを感じる。
この婿殿、含みのある世辞を言えるような俗人ではない。傑物でもなくむしろ逆。おそらく誰ぞ近しい者に吹きこまれたままを、消化もせずにただ吐きだしている。――それは察しのつくところだが、聞き捨てならないものはある。
「フィリップ殿。このわしが、貴族どものくだらぬ集まりや晩餐の席でひけらかすために、医療の知を蓄えておるとでも?」
「?」
「ふん。意味がわからなくともよいが、これだけは覚えておけ。このわしが日夜、
「ニコのお母さん? 病気なの?」
「なんじゃ。知らんのか」
また気勢をそがれる。否、これは別のいら立ちだ。
悪気のない婿殿ひとりのためでなく、王宮に母上がまるでいない者のように扱われているとき、いつも感じさせられる、あの血を抜かれるような心地悪さ。
「母上は元々ひ弱でのう。主治医どもはもはや、寝室から出ることさえ難しいじゃろうなどと匙を投げておる。情けのないことよ。わしはそのようなふがいない医者どもに代わり、この手で母上の病を治すために勉学と研鑽を積んでいるのじゃ。俗人どもの着飾りじみたたしなみなどと、いっしょにしてくれるでない!」
話せば話すほど、言葉尻は抑えようもなく鋭くとがっていく。
後妻である母上の実子は自分だけだ。だからか姉上たちも、継母の病状はしかたないことと言って斜に構えている。すでに子は十分にある父上は母上を見放しこそしないが、床には一切近づかない。
わしだけだ。わしだけが母上の手をそばで握ってやれる。
あの陰気な寝室から母上を外に連れだせるとしたら、わしが努力を実らせたときなのだ。この生まれ持った才智も、そのために。
「治す……」
もったりしたつぶやき声を聞いて、はっと我に返る。
声を荒げてしまえば、また婿殿のかんしゃくを招きかねない。それを思いだして振り向いたが、婿殿は半分の月のように白い顔で、陽ざしの透ける温室の
「ボクの母上も、お医者様は治せなかったんだ」
「フィリップ殿の?」
ぼやきだした婿殿をあやぶみながら、はてと首をかしげる。婿殿の
「それは、少々わしも無遠慮じゃったな。しかしまた、王宮にあがる医者のもぐりぞろいであることよ。差し出がましくなければじゃが、どのような病じゃったか教えていただけるかの? 母上のついでにはなるが、もしかすればフィリップ殿のお母上を王宮に呼び戻すことも――」
「なんでも治そうとする病気」
婿殿の顔がこちらを向いている。
シワのない顔。まるで磨いた石に目を描いたような。それもふたつの石を一度割って、半々ずつ合わせたような。
白い右に赤い瞳。黒ずんだ左に青い瞳。それもまた
「母上はね、本当になんでも治せたんだ」
婿殿が付け足すように言う。唾を飲んだのが聞こえなかったか、急に気にかかりだす。
「でも、うまく治せないと怒りだしてしまって、何日でも大声で叫びつづけるんだ。そのうちみんな、母上のほうが病気だって言いはじめて。病気を治すには、王都にいちゃいけないんだって」
割れたふたつの石。右は白いまま。左は一度火にくべられたように赤黒く。
抜ける空色の目をかこむその暗雲のような
「ねえ、ニコ」
「……なんじゃ?」
急に水を向けられ、ギクリとした。腹の底は冷えきっているのに、首の周りばかり湯をかけられたように熱い。
「ニコの病気は誰が治すの?」
「わしの……?」
ゆだる中から、ようやく頭が働きはじめてきた。
この婿殿に他意などない。浮かぶ疑問を浮かぶ端から口にしているに過ぎない。知りたくもないのになぜなぜと尋ねまわる子供と変わらない。
それを思いだしても、思わず顔はそむけてしまった。答えを間違えたくなかったから。
「……わしは、病気にはならん」
陳腐な答えだ。
出ないものをしぼりだしたにしても、あまりにもあんまりなものだ。しかしその陳腐さに、少しばかり風にあたったような心地でいる自分もいた。
「ニコは、病気にならないの?」
「そうじゃ。医者の不養生などという言葉があるがの、あれもヤブ医者がおのれの至らなさを隠すために広めた方便じゃ。真なる医の者はおのれの養生も決して欠かさぬ。よってわしは病気にはならん」
一度口火を切ってしまえばスラスラとよく出てくる。他意のない婿殿もまた見る間に目を輝かせ、石のようだった顔を綿の入った布人形のように景気よくふくらませていた。
「ニコはすごい! やっぱりすごい!」
「お、おう。そうじゃとも。わしはすごい。いつか本当になんでも治せる医者になるぞ。母上のことはもちろん、二番目にはフィリップ殿、おぬしの病も治してやろう。曲がりなりにも
「ありがとう、ニコ! それじゃニコが病気になったら、ボクが治すね!」
「いやいや? じゃから、わしは病気にならんと言っておるじゃろうに」
「……じゃあ、ボクは誰を治すの?」
鳥肌が立つ。まずそのことに驚く。
だが声色の変わり方には覚えがあった。毎度予期せぬところに限ってそれは来る。
「ボクは誰も治せない……治してほしい人はいない……」
「わぁぁぁぁ待てッ、泣くな! わかった! わしが寝込んだら治せッ。全力で治せ!」
わし五人分はありそうな体が小さな椅子の上でガタガタ振動しはじめる。そのてっぺんの遠い耳の奥までねじりこむつもりで腹に力をこめ、諌め、なだめていた。たちまちまた元のように、婿殿は顔を輝かせる。
「うんっ、任せてよ、ニコ! 安心して寝込んでね!」
「あぁ、いまにもそうしたい気分じゃ……」
いつしか胃がグルグルしているのを思い知って、深くため息をついた。エイダたちの前でも出さないような大声を出して喉も渇ききっている。侍女を呼んで茶をつがせようとしたが、うず高く盛られていた菓子がもはや残骸だけであるのを目にしてさらに気が
「 夢 ‐ ニールコーラルとフィリップ 」了
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