「 家 」~脚萎え少女と鬼~

『戦神作戦』……貴族令息たちを戦場に送ることで、自国軍の士気高揚をめざした作戦。国の英雄として謳われる「戦神」の伝説にちなみ、占星術によって選ばれた令嬢たちが、令息たちの婚約者にあてがわれた。語り部いわく、「いいなずけの待つ家に、兵士は必ず帰るだろう」



【登場人物】

・シクシアーシャ……男爵家のひとり娘。十五歳。幼少期の病のため歩行がままならなくなり、車椅子を常用している。屋敷から出ない生活をしていた。


・ダーヴェル……古参伯爵家の次男。十七歳。王宮にてすでに要職の補佐にあるほどの秀才。つい先日、本家筋の侯爵が敵国の内通者と発覚し、連帯的に責任を取らされるかたちで戦神作戦に志願した。







「こちらが旦那様のお部屋です」


 そう言って開け放たれた扉の向こう、窓を背にして執務机と革張りの椅子が並んでいる。

 そこに誰も待ちかまえていなかったことに、車輪を送りながら思わず胸をなでおろしてしまった。いないとわかっていたから来たはずなのに。


「本当は自分がいないときは入るなって言われてるんですけど、未来の奥様なら特別ですよね。お掃除もさせてもらえないので、埃っぽくないといいんですが」


 少年のような顔を不満そうにふくらませ、ナンナは壁のでっぱりモールディングを指でなぞる。持ちあげた指先から塵が落ちる気配はなかったが、彼女は形のいい唇をますますとがらせていた。


「寝室は廊下を挟んでお向かいです。そちらも扉は開けておきますけど、本当におひとりで大丈夫ですか?」


 気を使ってくれるナンナの目が、わたくしではなく座っているものを見おろしているのがわかる。のロズには外で待つよう言いつけていた。


「あ、はい。ナンナさんは、お仕事に戻ってください」

「ですか? 承知しました。厨房におりますので、なにかあればお呼びくださいませ」


 口調は軽くも丁寧にお辞儀をして、ナンナは廊下を戻っていった。短く切り詰めていても金の髪は目に残る。頬に触れている自分の黒髪を感じる。


 大きな机と椅子以外は、ほとんどなにもないような部屋だった。花瓶も、それを置けるような用箪笥キャビネットもない。壁一面の作りつけの書棚は父の書斎を思い出しかけたけれど、収まっているのは、本というより書類と呼ぶほうがふさわしそうな背表紙ばかりだ。

 机の上にも、インク壺さえ置かれていない。まるで次の持ち主を待っているだけで、いまは誰にも使われていない部屋のようだった。当然、空の椅子に座っている誰かが思い浮かぶこともない。


 向かいの寝室のほうは、より寒々しかった。シーツが敷かれてはいても、ベッドはただそこにあるだけ。寝て起きる以外にすることのない部屋。入り口から眺めただけで、すぐに書斎へ引き返した。


 椅子のそばまで行って、冷たい執務机に手を這わせる。鏡のように磨かれた木の肌に、うっすらと指のあとが残る。


 なにもない。ここには。


 勇気を振りしぼって飛びこめば、なにかがわかるような気がしていた。少しでも近づければ、あの人にも体温があることを確かめられると思っていた。

 でも、ここにあの人はいない。いるのかもしれないけれど、わたくしには感じられない。


 この私邸でただひとりの住み込み女中メイドだというナンナを思う。雇い主であるあの人のことを、「チョーシ乗り」だとか「甲斐性かいしょうなし」だとか、出会うなりあけすけに呼んでいた。わたくしと歳が同じだと知ると、祭りの日にはしゃぐ子供のように喜んでいた。おない年の奥様のお世話をするのがあこがれだったと。


 あの人のおそば仕えで、あんなにも明るくいられて、彼女は家事もひとりで切り盛りしている。おない年だと言っても、わたくしにはお手伝いも……。




 ――おれは言いわけをする人間が嫌いだ。




「ッ……!」


 よみがえってくる。初めてお目にかかれたとき、向けられた刺すように冷たいまなざしと言葉。


 いつもそこにあるひじ掛けを、すがりつくようにつかんでしまう。目を落とせば、自分が乗っているものと乗っているしかない萎えた脚とが目に映って、つづく言葉も思いだしてしまう。




 ――おまえ自身の口で答えろ。

 ――子は産めるのか?




「う……」


 痛い。胸の奥が、いばらを埋めこまれたように。


 罰なのだろうか。これが、やさしい父母とともにただ老いていくしかない自分を疎んで、身の丈以上の縁を望んで戦神作戦に志願した、わたくしへの。ダーヴェル様の家柄といまの危ういお立場を思えば、彼の苦境へ遠まわしにつけ込んでいるのと変わりないのだから。おのれで彼を選んだのではないにせよ。


 シエラが言っていた。他人ひとに自分の幸せを決めさせるなと。


 令嬢たちの中で、誰よりも温かく、慈母の輝きをまとっていた彼女。にもかかわらず、身分を捨てるほどの恋に狂い、燃え盛る復讐の火に身を投げた、激しい人。

 いまここにあの人がいないのも、彼女のためだ。彼女の起こした混乱を収めるため、王の気遣いも反故ほごにして王宮で立ちまわっている。たったひとりの女性が放った火のために、誰もかれもが水をかぶったようにうろたえて。


 わかっている。わたくしは、彼女とは違う。

 溺れるような恋もなければ、捨てるに惜しまれるほどの家もない。国策にでも乗らなければ、彼女やエイダたちとさえ出会えなかった心細い身だ。王室ともゆかりのある、若くりりしいあの人のような殿方とのご縁をいただけたことを、心から喜ばしく思っている。いつだって、目の前に訪れた人を愛し、添い遂げたいと願っていた。

 その気持ちにうそはない。うそではない、けれど……。


 椅子のうしろの出窓を見やる。質素なレースを透かしてあさぎ色の空が見える。

 張りだした窓枠には、車椅子からでは身を乗り出しても届かない。生まれてこの方、一度もこの手で窓を開けたことはなかった。風も通さずかたくなに閉ざされた窓を、いまもただ座って眺めている。


 この気持ちにうそはない――けれど、わたくしからも問いたいのです。


 言いわけが嫌いなあなたは、ご自分にどんな言いわけをして、わたくしを迎えてくださるのですか――と。


 ――不意に、そのカーテンと向こうの景色とのあいだに、影があることに気づいた。

 出窓の内側の下のところに、なにかある。そこまでなら触れたことのある薄い布をつかんで、そっとひらいてみる。


 それは、鉢のようだった。

 平たく底の浅い、手水鉢フィンガーボウルのような陶製の器だ。中には土が盛られ、その上には〝木〟が生えていた。


 木……そう、木だ。人の手のひらほどの小さな木。あまり見たことのない種類で、幹が左右にねじくれている。ふしぎな形だが、枝の広がりと青々と茂る葉は力強く、堂々と育ちきった大樹を遠目に見ているかのよう。


 めずらしい趣味ではあるけれど、父から聞いたことがある。これは、盆栽ボンサイというものだ。


 なぜ、こんなものがこの部屋に? ナンナが置いたのだろうか。それにしては味がありすぎるというか、渋すぎる。だいいち彼女はこの部屋の掃除もさせてもらえないと言っていた。なら……ダーヴェル様が、ご自分で?


 見つけた、と思った。


 思わず、鉢を包むように手を伸ばす。見つけた。ここにあった。

 あの人のにおい。あの人の体温。あの人の確かな横顔が。


 萎えた膝にひ弱な力をこめる。身を乗りだせるだけ乗りだして、つかまえようとする。

 見つけた。ちゃんとあったんだ。触れられる場所に。この手の届く限りに。


 どうか、どうかお願いです。叶うなら、どうか。

 わたくしを拒まないで!


「ありぇっ? 旦那様! もうお戻りですかっ?」

「通りかかりだ。あの女はどこだ?」


 声を聞いた途端、頭の中が真っ白になった。

 どんどん近づいてくる足音に意味もなく聞き耳を立ててしまう。開いたままの扉の前まで気配が来た瞬間、ようやくはっとして振り向けば、明るい菜の花色の目と鉢合わせる。


 王国でもめずらしい緑がかった茶の髪と、銀で縁取られた細い眼鏡。女性と見まがうような白くたおやかなかんばせをその裏に秘めながら、雄々しく吊りあがった眉だけが、全身に巡るいらだちをあらわにしていて。


「なにをしている?」

「あ……いえ、あの、すぐに……」


 なにか言おうとした、そのはずみで引きもどした手が、窓の前の鉢のふちにあたる。


 あっ、と声をあげかけるよりも早く、体が鉢を追っていた。車椅子がぐらりとかしぐほど身をかがめて、踏ん張れない足では自由もきかずに、床の上へ投げだされ――


 反射的に目を閉じたわたくしの体を、なにかが受け止めた。


「え……?」


 目をあける。目の前に、眼鏡で秘されたりりしいお顔がある。


 その顔はわたくしには向けられておらず、空いた手でつかまえた小さな大樹を一心に見おろしていた。張りつめていた口もとが、細く息を吐きだす。


「まったく。どうしてこんな」


 木は土ごと、鉢から引き抜けてしまっていた。けれど、枝が折れるようなことはなかったようだ。鉢は割れてしまっていたが、彼はその上に丁寧に木を置くと、口を使って手袋をはずした。


 片腕で受け止めていたわたくしを、両手を使って抱き直して、車椅子の上に戻してくれる。あれだけ探した彼の匂いと体温がすぐそばにあったのに、わたくしは凍えたように息を止めていて、彼が離れるまでなにも感じられずにいた。


「なぜここにいる?」


 鉢を持ちあげて机に置きながら、彼が問う。また息が止まりそうになる。


「車椅子を乗せられる特注の馬車と、おまえの専属のあのデカい下男が家の前で待っていた。あれでは誰がここに来ているのか丸わかりだ」


 彼は自分の椅子に腰をおろす。土で汚れたもう片方の手袋も外しながら、視線は射かけるようにこちらを向く。


「戦神作戦、参加条項第十八、『婚約者の成人、あるいは出兵より先んじて、男女の契りを結ぶことなかれ』。王命に等しい国策における条項違反は厳罰ものだ。婚約者同士ともに過ごすよう王から勧められているこの時期に、ひとり暮らしの伯爵子息の私邸に令嬢が忍びこんだとあっては、疑いをかけられても否定しようがない。自家の女中メイドでは証人になれないからな」

「……」


 言いかえすつもりのない逃げ道をふさがれていく。わかっていてしたことだ。それでもあなたに、少しでも近づきたかったから。



 ――おれは言いわけをする人間が嫌いだ。



「……申しわけ、ございません……すぐに、出ていきますので……」


 かろうじて吐ける息を頼みに言葉を絞りだして、車椅子を旋回させる。あの人の触れたところに土はついていなかった。手袋をはずされる気づかいが、いまは無性にさみしい。


「待て」


 車輪を送りかけたところで、不意に呼び止められた。振り返ると彼は、いらだつ以上に不審がるような、ますます厳しい顔をしていた。


「二度も尋ねているのに、なぜ答えない? なにをしにここへ来たのかと訊いているんだ。まさか、答えられないようなことではあるまい」



 ――医者や執事のでなく、おまえの口で答えろ。

 ――子は産めるのか?



 まただ。またよみがえってくる。

 この胸をつらぬいて、地の底に縫いとめる冷たい声。いばらで心臓を引きずりだされるように、足だけでなく手からも血の気が引いて、のどを絞めつけられる。


 痛い。痛くて、怖い。


 ようやくわかってきた。近づけば怖くなくなるなんて、都合のいい絵空事だ。ついさっきあの人の腕の中にいたはずなのに、思いだせるのは冷たさばかりで。


 きしむ胸に、こぶしを押しあてる。目も開けていられず、うわずりそうになる声を必死でこらえて、断末魔のように吐きだした。


「……あなたの……おうちを、見たくて……ッ」


 それっきりだ。


 声がしないことに気がついて、目を開けた。


 おそるおそる顔をあげると、あの人は細いあごにこぶしを当てて、考えこむしぐさをしていた。わたくしの顔にではなく、車輪のあいだに挟まる膝のあたりに目をやりながら。


「家、か……確かにな。住むことになるのだから、事前の確認は必要……いや、問題があるなら都度改修? いっそ引っ越しても……」

「あの、そうではなくッ」


 聞こえてきたつぶやきに、思わず声をあげてしまった。自分はなにをしているのかと、頭のうしろが急速に冷えていく。けれど、興味深げな黄色い目がこちらを向けば、逸る鼓動はのどから言葉を押しだしていた。


「あな、たの……ダーヴェル様のことが、知りたくて……! いつも、どのように、暮らしていらっしゃるのか、と……」

「!?」


 途中でうつむきながらも言いきったとき、息を呑むような気配がした。

 もう一度顔をあげたときには、困ったように視線を逃がし、居心地悪そうにしている横顔がそこにあった。


「どのようにって、別に……ふつうの暮らしだ」


 心もとなく答える声に、いばらがほどけていくのを感じた。

 いまならあのそばまで行って、白い頬に触れられるだろう。急に、本当に突然、そんなことを思った。


「……それだけか?」

「……はい」

「……そうか」


 出ていけともなにも言わず、彼はそこに座っている。机のふちに落ちた彼の視線は、そこにひとすじだけついた指のあとをなぞっている。そんな気がした。


「お茶が入りましたぁ!」


 花が咲いたような声とともに、ナンナが茶器の乗った盆を持って飛びこんできた。

 途端に彼の眉が吊りあがり、落ちかけていた肩に張りが戻る。


「茶などせん。いま帰らせる」

「ええぇぇーっ!?」


 ナンナの悲鳴で窓が割れそうにきしんだ。


「いいじゃないですか、せっかくなんですから! ケチ! 甲斐性ナシ!」

「いいわけあるか。元はといえばおまえが――」


 茶器を揺らさずに器用に食ってかかるナンナと、慣れた様子でそれをいなす彼。


 ふつう。あの人のふつう。


 やがて彼はうんざりしたようにそっぽを向くと、「とにかく出ていけ。彼女を玄関まで送れ」とそば仕えのメイドに命じて、それきりなにも答えなくなった。

 ナンナも無駄だとわかっているのか、溜め息だけは遠慮なくついて、「しょうがないですね。参りましょう、シア様」と言い残して先に出ていく。


 わたくしもいとまを告げようとして、その機先を制すように、机越しに控えめな声を聞いた。


「シクシアーシャ」


 みたび、頭をあげる。

 机のふちを見たままの、冷たい横顔がそこにある。


「二度とここへは。次は、おれとここへ。茶もそのあとだ」


 わかったら行け、と言いつけるのを最後に、まっすぐ垂れる長い髪でその横顔も隠れてしまった。

 いとまを告げて部屋を出るとき、軽く振り返ってみても、彼は動いてはいなかったけれど、見えないそのお顔をもう、前ほど怖いとは感じなくなっていた。




  「 家 ‐ シクシアーシャとダーヴェル 」了

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