浮気ポケット
葉桜
第1話
一人暮らしのワンルームマンション。できるだけ生活感を排した部屋。その隅に唯一置いた小さなダイニングテーブルに着いて、食後のコーヒーに口をつける。ブラックの苦味を楽しみながら向かいに座る男を見れば、コーヒーにミルクと砂糖を入れているところだった。相変わらずの甘党だなと思いつつ、まだ中身の入ったカップをテーブルに置く。コトンと音が響いて、ようやく会話がないことに気がついた。何か話題はあっただろうか。少し頭を巡らせて、まだあれを聞いていないことを思い出す。
「今日は何が入ってるの、それ」
そう言いながら指差したのは、男が羽織っているジャケットのポケット。会うたびに違うものが入っている、可笑しなポケット。
「今日はタバコ。ガラムのヌサンタラ・メンソール」
そう言って取り出されたのは、白地に緑色のパッケージ。見覚えがない。
「前に持ってたのと違う」
「違う銘柄だからね」
苦笑しながらタバコをポケットに戻した男の手は、そのままさらりと私の頭を撫でた。ふわりと香ってきたのは洗剤の匂い。タバコの香りはしなかった。
「前のはもういいの?」
「あれはもう飽きた」
「浮気症」
呆れたように言ってやれば、困ったように笑う男。自覚はあるのか。何よりだ。
宥めるようにもう一度撫でられる。ムカつくので払い落としてやった。それでも男は笑っている。気に入らないし、気に食わない。
うつむきながら、ぽつりと溢す。
「六日以上続いたことないでしょう」
毎週会うたびにポケットの中身は変わっていく。タバコ、デジカメ、ガム、櫛、チョコレート、懐中時計、エトセトラ、エトセトラ。本当に、浮気症だ。
六日以上続いたことないでしょう。その問いもまた、微笑み一つで流される。そう思っていたのに男が笑う気配はしなかった。ちらりと見上げれば、かち合う視線。腹が立つほどに真っ直ぐな目だった。
この男は、根が真っ直ぐなのだ。タチの悪いことに。
「いや。一つだけ、続いてる」
そう言って掲げた腕には、無骨な黒い腕時計が巻いてあった。時刻は21時。
「そろそろ帰るね」
腕時計を見ながら立ち上がる男。そっと私に近づいてきて、口付けされる。私は目を閉じなかった。
毎週金曜の19時にやって来る男は、一緒に夕飯を食べて、談笑して。最後に一つキスを落として、ここから去る。
「また来週末に」
そう言い残して、タバコを吸わない男は出て行った。
一人残された部屋で溜め息をつく。手首に巻いた腕時計は21時5分を指していた。そのまま暫し、ぼうっと時計をながめ続ける。無骨な黒い腕時計は律儀なほど正確に時を刻み続けていた。
そうだ、浮気症だ。あのポケットの中身はこのあと会う女への差し入れや贈り物で、ポケットの中身が毎週変わるのは相手が毎週違っているから。浮気をしても一週間も保たないなんて、怒りを通り越して呆れてくる。すぐ次の相手を見つけてくることには腹が立つが。
そもそも女遊びの激しいタイプではなかったはずなのに、どういった心境の変化なのだろうか。学生時代から私ひとりに構い続け、半年前までは女の影なんて一切見えなかったのに。安心しきっていた過去の自分を殴りたい。
何の気なしにマグカップを手に取り、そのままゴクリと中身を飲み下す。冷めていた。まるで私たちの関係みたいね、なんて。馬鹿なことを考えた自分が嫌で、テーブルに突っ伏す。
「なんでまだ付き合ってるんだろう」
そんな言葉を吐き出してしまうくらいには堪えていた。余裕があるかのように取り繕うことにも、気にしていないと自分に嘘を吐くことにも。
疲弊しているとき、この何もない殺風景な部屋が妙に気にさわる。気にさわるというより、気が滅入ると言った方が正しいかもしれない。この無機質な部屋は、住民を温かく迎えるということを知らないのだ。
そこまで考えて、また溜め息。完全なる八つ当たりだ。部屋は悪くない。自分で片付けているのだから、気に入らないなら物を出せば良いだけだ。物を持っていないわけでもないのだから。
実際、彼に貰ったぬいぐるみも、一緒に撮った写真を飾っていたフォトスタンドも、すべてクローゼットの中のダンボール箱にしまい込まれている。出そうと思えばすぐ出てくる場所だが、わざわざ箱を開ける気にもなれず、今日まで放置してきた。そもそも半年前に引っ越しをした際に、普段は使わないと判断したものたちだ。今さら出す必要はない。ないが……。
立ち上がって、クローゼットの戸を開ける。食器と書かれたダンボール箱を出し、衣類と書かれたダンボール箱を脇によけ、目当てのダンボール箱を引きずり出す。ガムテープを剥がすと、彼に貰ったものたちが顔を出した。白猫の置物、黒猫のぬいぐるみ、派手な膝掛けにフリルのクッション、手ぶくろとマフラーのセットが三つ、大きな壁掛け時計、望遠鏡、家でプラネタリウムが見られるというおもちゃ、かき氷機、たこ焼き器、そしてフォトスタンド。見事なまでに統一性がない。
彼が何を思って、これらをプレゼントしてきたのかは知らない。けれど、私のために一生懸命選んでくれたことは知っている。だから片付けてはいても、捨てようとは思わない。
ふと、最後にプレゼントされた黒猫のぬいぐるみが目にとまった。引っ越しをする少し前に贈られたものだ。これを渡してきたときの、緊張しきった彼の顔が脳裏に浮かぶ。そういえば、なんでそんな顔をしていたのだろう。
手に取って観察してみると、背中にファスナーが付いていることに気が付いた。どうやら中に物が入るようになっているらしい。ファスナーを下ろして手を入れてみると、小さくて冷たいものが指に当たった。
「これは……」
中に入っていたのは、銀色の指輪だった。透明な石、おそらくダイヤモンドの嵌まった指輪は、明らかに宝飾店で買われたものだ。内側には文字まで彫られている。
From K to A.
それは彼と私のイニシャルだった。左手の薬指に嵌めてみると、すっぽりと収まる。そのまま手をかざすと、指輪は光を反射してキラキラと輝いた。
「……こんなにも」
こんなにも酷い女を、こんなにも待っていたというのか。普通なら何も言わずに見限るか、あるいは碌でなしと詰め寄るところだ。どちらに転ぼうとも文句は言えない。
ぽろり、と。温かな雫が、確かな質量をもって手の甲に落ちる。
馬鹿な男だ。もらった愛情にも気付かず、ただ不満を並べるだけの女に、それでも微笑みかけるなんて。もう何も望まないと言わんばかりの困り顔を思い出して、胸を押さえる。彼の心が勝手に離れただけだと思っていた。だから、望まれないのを彼のせいにしていたのに。
彼が望まなくなったのは、私が何も返さなかったからだ。
強引に目を擦って、箱の中身をあるべきところへ移していく。私に彼を憐れむ資格はない。こんな私が今からでも出来ることがあるとすれば、それは彼から与えられたモラトリアムが終わる前に、この関係にけじめをつけることだけだ。
あの指輪を発見してから一週間が経った。今日は彼が家に来る日だ。
左手に指輪を嵌めたまま、静かに彼を待つ。もっと緊張するかと思ったが、不思議なほど落ち着いていた。でも案外そんなものなのかもしれない。だってもう、付き合い始めてから5年、出会ってからは8年も経つのだ。彼のことならよくわかっている。大方、最後の勇気を振り絞れないまま気付いて貰えなかったことにいじけて、寂しさを紛らわすために浮気に走って、引き返せなくなったといったところだろう。自分で自分の首を絞めているようなものだ。さぞ苦しかったに違いない。
「本当にバカ」
そう呟いたのと同時に、ドアのロックが解除される。彼に渡した合鍵だ。
礼儀正しく「お邪魔します」と言って入ってきた男に歩み寄り、左手をかざす。
「これ、ありがとう」
男は目を見開くと、次の瞬間には泣きそうな顔でくしゃりと笑った。
浮気ポケット 葉桜 @hazakura07
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