グラス・フィクション

いいの すけこ

フィクションの作り方

 浅い眠りの中で、繰り返し聞こえる。

 短い間隔で何度も鳴り響く音は、雨音が地面を叩く音にも似ていた。

 かちゃ、かちゃ、たあん、と。何かを打ち付けるような音が続く。

 モールス符号の暗号通信って、こんなリズムだっけかなんて思う。でも違う。

 かちゃかちゃ、かたかた、たん。

 リズミカルに響いていた音が、不意に止まった。

 耳を澄ませていたら、ゆっくりと打音は再開した。けれどすぐにまた止まって、迷うように、探るようにかちゃかちゃと、不規則な音。

「うー……」

 完全に音が止んで、小さなうめき声がした。

 俺はソファから身を起して、小さく丸まった背に話しかける。


「行き詰った?」

「あ、あなた。ごめん、起こしちゃった?」

 振り向いた妻の髪は、頭右半分ぐしゃぐしゃになっていた。きっと執筆に行き詰った苛立ちから、頭をかき回したのだろう。

「いや、もう起きかけてた」

 立ち上がって、彼女が作業をしていたダイニングテーブルへと向かった。妻の乱れた髪を撫でて労わる。ゆるく巻いた髪の指通りは、柔らかで心地いい。そんなことを口にすれば『子どもや動物を愛でているんじゃないんだから』って、機嫌を損ねるだろう。恥ずかしそうに顔を背ける仕草も、可愛いものだから構わないけど。


「今度は何を書いてるの」

「子ども向けの冒険小説」

 妻の職業は小説家だ。

 自室に籠ることもあれば、リビングにノートパソコンを持ち出してきて執筆に励むこともある。俺の眠りが浅いのは習性で、妻が作業をしていたからではない。彼女が物語を紡ぐ音を聞きながらのんびりするのは、嫌いじゃなかった。

「どんなお話?」

「主人公は怪盗でね。義賊って言うのかな、正義の怪盗なの。探偵や警察を華麗に躱したり、追い詰められたりしながら曰くのある品をいただいて。悪徳国家の秘密に触れることにもなって、国家のエージェント相手に戦ったりするの。もうどっかんどっかん、派手にバトるんだから」

「それは面白そう」

 心からそう思って、俺は笑う。

 なんて荒唐無稽で、無茶な物語。怪盗なんて現実には存在しないと言っていいし、探偵と追いかけっこもしないだろう。悪徳国家は存在するけれど、その戦いは概ね水面下で行われる。血を見ることになったら、爽快アクションでは済まない冷徹で残酷な惨状が待っている。

 それでも現実はともかく、彼女の書く物語はとてつもなく面白いに決まっているから。だから俺は、心底笑うのだった。


「でもちょっとね、キャラクター造形に悩んじゃって」

「キャラクター?」

「天才キャラが出てくるんだけどさ」

 妻は頭に手を伸ばしかけた。けれど肩越しにモニターを覗き込んでいる俺の顔にぶつけそうになって、ゆっくりと手を下ろす。

「怪盗を追い詰める、天才少年探偵。初めて書くキャラクターだから、うまく想像できなくって。挿絵作家さんが毎回かっこいい絵を描いてくださることだし、ヴィジュアルもこだわりたいんだけど」

 俺は文芸はさっぱりだった。仕事のための資料や書籍はいくらでも読むが、物語といえば妻の作品か、せいぜい彼女が推した作品くらいしか読まない。妻が時折、執筆の悩みをぶつけてきても、聞いてやることしかできなかった。それでいいのだと、彼女も言うけれど。


「編集さんはさ、眼鏡でもかけておけばって言うんだよね」

「眼鏡」

 妻の隣に座り直して、俺は首をひねる。

「天才だから?」

「そういうこと。眼鏡があると、頭良さげに見えるからだってさ」

 実際、頭のいいキャラだけどと妻は言う。

 確かに、知的なキャラに眼鏡はつきものな気がする。

「でも、本当にそれでいいのって、思うんだよね。頭が良いから眼鏡をかけている、なんて偏見だよ。ド偏見もいいところ」

「キャラクターのテンプレというか、記号としては、それくらいわかりやすくても良いんじゃないかな。子ども向けなんだし」

「それよ。子ども向けなんだからって、手を抜くことをしたくはないの」

 子どものために、わかりやすい物語を書いても。どんなにはちゃめちゃで、ありえない物語を書いていても。面白さのために、現実には起こりえないことを書いても、嘘をついても。

「何も考えないで書いたものを、作ったキャラクターを、子どもには届けたくないの。優秀な眼鏡キャラだって、もちろん魅力的だよ。それならそれで、ちゃんと考えたいんだ」

 熱っぽく信念を語る妻の横顔は頼もしく、美しい。

 触れようとして、真剣に作品に向き合う彼女の尊さに、手を引っ込める。


「ま、眼鏡をかけていれば天才だなんて言ったら。俺も今頃は、一流企業のエリートリーマンでしょうしね」

 その言葉に、妻はきょとんとして。

 それからそっと、俺の顔に触れた。

「ほんと。こんな傷だらけの眼鏡かけた、無精髭生やした、よれよれの人。天才だったら驚いちゃうわよ」

 妻の指先が、銀色のフレームをなぞった。眼鏡のつるからこめかみに向かって滑った指が、ぼさぼさの髪を生え際からすくように撫でる。細かな傷のついたレンズ越しに見る彼女は悪戯っぽく笑って、そのまま指先を俺の顎に添えた。

「出かける前には剃ってね」

「はいはい」

 妻は俺の顔から手を離す。

「だいたい、眼鏡だとキャラ被りするんだよねー」

「うん?」

「悪徳国家のエージェントがいるって言ったでしょ。そっちが眼鏡キャラだから」

「なんで」

「眼鏡で素顔を隠して……あ」

 何かに気づいたように妻は声を上げて、険しい顔でモニターに向かう。

「眼鏡を掛けたら顔が隠れるなんて、そんなの単純すぎる。それこそ手抜きかもしれない。見直すべき。ありがとう、あなた」

 再びキーボードを叩く妻の姿に、俺は静かにリビングを後にした。



「もう時間だから、出るよ」

 リビングに戻って声をかけると、妻はモニターを睨んでいた顔を上げた。時計と俺を見比べて、立ち上がる。

「もうそんな時間? 休日だってのに、夕方から接待ディナーなんてお疲れ様」

 ぱたぱたとスリッパを鳴らし駆け寄ってきた妻は、俺の頭からつま先までを眺めて満足げにうなずいた。

「髪もちゃんとしたし、髭も剃ったね。うん、いい男」

 休日スタイルのよれよれTシャツからスーツに着替え、髪も整えて無精髭もきっちり剃った。眼鏡はそのままだけど、ちゃんと磨いて。

「さっきは散々言ったけど。私、あなたの眼鏡姿、好きよ」

 妻は一瞬、手を宙に浮かせた。けれど綺麗に整えた髪や磨いた眼鏡に触れるのをためらったのか、そっと下ろそうとするので。

「行ってきます」

 その手を取って妻を引き寄せる。日課というわけではないけれど、今日の彼女は特に可愛かったので。

「……行ってらっしゃい」

 行ってきますのキスをして、幸せな我が家を後にする。



 



 端末に記された、符号の並びを目で追う。トンツーで表された暗号。下された指示を確認した。

 家が見えなくなってから、眼鏡を外す。

 なくても見える。視力矯正の手術はとっくに済んでいた。

 の際に、眼鏡は邪魔だ。眼鏡一つ分でも、身軽な方がいい。

 どっかんどっかん、派手にバトることはほとんどないけれど。それでも荒事には事欠かない。

 世界の水面下は駆け引きと、腹の探り合い出し抜き合い騙し合いで溢れていて。

 そしてちょっとしたボタンの掛け違いや、趣味の悪い人間の頭の悪いやり方で混沌に満ちていく。

 そういった厄介事、面倒事の調整をしたり片付けたりするのが、俺の仕事。

 妻に秘密の、国家諜報員本業である。

「エージェントなんてものは、素顔を隠すときはもっとうまくやるものだよ」

 眼鏡をかけたくらいで、素顔を隠すことなんてできはしない。化粧やラバーマスクでどうにかなるなんて、そんなのはフィクションだ。

 それなのになぜ、普段は眼鏡をかけているかといえば。

「奥さんの、好みなんだもの」

 銀色の眼鏡は、日常へと帰るスイッチのようなものだ。妻に、世間に隠し事をし続ける毎日でも、俺の大事な、かけがえのない日常。

 俺の素顔は嘘だらけだけど。

 愛する人が好きだと言ってくれた姿こそを、真実にしようと思うので。

「行きますか」

 ジャケットの内側、隠しているのは小型の武器。商売道具のそれよりも、もっと丁寧に、大事に。妻がケースと一緒に贈ってくれたクロスに包んで、胸ポケットの内側へ。

 妻への秘密と一緒に、そっと銀縁の眼鏡をしまった。

 


 

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