モンブランの万年筆 🪶

上月くるを

モンブランの万年筆 🪶





 その小さな店は、十万石城下町の名残りを町名だけに留める観光通りにあります。

 洋菓子店と手芸店に挟まれた小商いなので、初めての人は通り過ぎてしまいそう。


 でも、古くからの住人は、万年筆という便利な筆記具が日本に入って来た明治期の創業で、ハイカラ好みの先祖たちはみんながお世話になったことを忘れていません。


 ただ、言うまでもありませんが、デジタル全盛の昨今は、わざわざ手書き、それも走り書きが出来ない万年筆などつかう人間はほとんど絶滅危惧種状態で……。(笑)


 なので、かれこれ一五〇年の社歴を誇る石川万年筆店は、モンブランやペリカン、パーカーを大切に愛用してくださる稀少なお客さまのサロンのようになっています。




      🖊️




 そんな老舗万年筆店に、ある日、上品な白髪の婦人がオドオドと入って来ました。

 あきらかに一見のお客さまで、失礼ながら万年筆に縁がありそうには見えません。


 創業から七代目に当たる店主は、なにかの間違いで迷いこんで来た老鳥を、一刻も早く店の外へ放してやりたいとでもいうように、いささか慇懃無礼に応接しました。


 かなり年季の入った、でも見るからに仕立てのよさそうなウールのコートの女性は

「とつぜんごめんなさい。じつは、こんなものがまだ遣えるか見ていただきたくて」


 亡夫の書斎を整理していたら引き出しの奥から出て来たという万年筆は、古色蒼然を絵に描いたようですが、初期のモンブランにしかない凛然とした品格があります。


 職人気質の店主は、思わず磨いていました。

 すると、イタリック体の記名が出て来ました。



 ――to Ichirou from Soubei



 老眼鏡に丸いルーペを重ねてじっくり見ていた老婦人が、感嘆の声をあげました。

「まあ、なんということかしら。父から夫へのプレゼントよ、わたしに内緒の……」



 

      🏠




 老婦人の生家は江戸期創業の呉服店を営んでいたのですが、代々の店主は篤志家で郊外の親せきや知人から預かった書生たちを中学校や高等学校へ通わせていました。


 そのひとりがのちに老婦人の夫になった逸郎さん。

 一方、店主は代々が惣兵衛を名乗っていたのです。


「わが家はなぜか女系でして(笑)養子の父としては、家付き娘のわがままに堪えがたくなったらこれを見て忍んでくれと、そんなつもりだったのではないでしょうか」


 そう言って頬を染める老婦人をあらためて見ると、豪奢な振袖を着せたら如何にもと思わせる容貌だったので、店主の脳裡には商いが盛んだった昭和が明滅しました。




      👘




「大切に扱ってもらっていたらしいから、十分に現役で働けますよ、この万年筆」

 店主の言葉をうれしそうに聞いていた老婦人は軽い足取りで店を出て行きました。


 市内一の老舗だった呉服店は時代に抗せず数年前に閉業したそうですが、これから老婦人は、夫の遺品の万年筆で、彼岸の肉親に近況報告の手紙を書くのだそうです。




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