たった10枚のアルバム

宇波瀬人

たった10枚のアルバム


 きみは事故にあったのだと、説明された。


 信号無視をしたダンプカーに撥ねられ、全身を強く打ち、大怪我をしたのだと。こうして再び目を覚ますことができたのは奇跡でしかないと興奮気味に語る医者に、僕は「はぁ」としか返せない。


 起き抜けからそんなことを言われても、すぐに飲み込めるはずもない。

 僕としてはもう少し間を置いてほしかったが、医者にとっては僕のリアクションなどそもそも求めていないらしい。それから、どういう風な処置を施して僕を救ったのかを饒舌にまくし立てる医者だったが、不意に表情が曇る。


 どうしたんですかと尋ねると、医者はしょんぼりと肩を落として、「命は救えたけれど、完全じゃなかったんだ」と、重く息を吐く。


「きみは事故によって脳に重いダメージを受けた。そのため、それまでの記憶を喪失し、同時に新しい出来事や思い出を記憶できないんだ」


 実際に、自分の名前を憶えているかい? と医者が訊いてくる。

 ズキズキと痛むを頭を捻って、僕は自分の名前を答えようとする。


 僕の名前……。ぼくの名前、僕のなまえ……。


 あれれ? 僕の名前って、なんだっけ。


 ◇


 というわけで、僕は記憶喪失になったらしい。


 とはいえ、すべてを忘れたわけではない。医者や看護師の吐く台詞の理解も、ベッドから起きて、トイレに向かう際の歩き方だって憶えている。主に出来事や思い出に関する記憶だけが抜け落ち、またそれを新しく憶えることもできなかった。


 医者はそれをエピソード記憶だと言っていたが、果たして未来の僕はその名称を記憶しているのだろうか。


 思い出を忘れ、新たに思い出を保存することができない。


 それって、生きる意味があるのかな?


 胡散臭いくらいに真っ白な病室の天井をぼんやり眺めながら、そう思った。


 ◇


 入院して3日が経つと、面会が許可された。


 はじめて僕を見舞いにきたのは、僕の母だと名乗る小柄なおばさんだった。


 おばさんは病室に入るなり、目を赤く腫らして僕のベッドに駆け寄った。ぼーっとする僕を抱きしめ、ワンワンと子どもみたいに泣きわめく。


「はるき、はるき! 大変だったね、痛かったよね。でも、大丈夫。お母さんがついてるから」


「……はるき」


 僕の名前だろうか。


「はるき」


 もう一度、声に出してみる。けれど、なにかを思い出すことはない。それが本当に自分の名前だったのかと疑うくらいに、実感が湧かない。


 じゃあいまの僕は、誰なんだよ。


 ◇


 翌日には、学校の先生とクラスメイトたちがやってきた。


 先生からは果物の盛り合わせを、クラスメイトからは励ましのメッセージが書かれた寄せ書きをもらった。


 ありがとうございますととりあえず感謝する僕の前に、ひとりの女子生徒が進みでる。


 曰く、僕と彼女は付き合っていたらしい。


 彼女から、僕に貰ったプレゼントだというとネックレスを見せられたけれど、当然僕は憶えていない。そもそも、彼女の名前すら分からないのだ。


 それを伝えると、彼女はボロボロと泣き出した。心配したクラスメイトたちが駆け寄り、彼女を慰める。一部の人からは冷たい、変わったななどと非難を浴びた。


 知らないよ。前の僕のことなんて。


 ◇


 そんな経緯もあって、1週間もすれば僕の見舞いに来る人なんて誰もいなかった。


 一応、母さんだけは着替えや様子を見にきてくれたが、態度はどこかよそよそしい。たぶん、僕と話すことで自分のことを忘れられているというショックが、思いの外大きかったのかもしれない。


 そのため、母さんとは形ばかりのコミュニケーションをとって別れるのが常だった。


「暇だなぁ」


 医者いわく、退院まではもう少しかかるらしい。話し相手もいないとすることもなく、手持ち無沙汰な僕の病室の扉がノックされる。


 誰だろう? 看護師さんかな。薬の時間はまだだけれど。


 小首を傾げながら返事をすると、病室に訪れたのは背の低い老婆だった。


 まったく見覚えはない。となると、記憶喪失以前の知り合いだろうか。


「あの、どなたですか?」


 できれば、この言葉を吐きたくない。また母さんやクラスメイトたちみたいに傷つけることになるのは面倒だから。


 しかし、老婆は違った。口元をおさえ、くつくつと可笑しそうに笑う。


「私は魔女だよ」


「……魔女?」


 何言ってんだ、この婆さん。ボケてるのか?


「あの、なにか間違えてませんか? ここはお婆さんの部屋じゃありませんよ」


「あっははは、人を病人扱いとはね。失礼な子だねえ。せっかく哀れな小僧を助けにきたというのに」


「……助けに? 僕を?」


 ますます怪しい。ナースコールでもして看護師を呼ぼうかと検討する僕に、老婆があるものを差し出す。


 みると、古いタイプのインスタントカメラだった。


「……これは?」


「魔法のアイテムさ。これで撮った光景を、お前は未来永劫記憶することができる」


「未来永劫って、これで? お婆さん、からかってるなら悪いけど……」


「信じるも信じないもお前次第さ。ただし、使うならこれだけは気をつけろよ? そのカメラで撮れる写真の枚数は10枚だけだ。つまり、記憶できたとしてもお前は10個の思い出しか記憶できない」


「10枚……」


 たしかに、少ない。仮に老婆の言うことが事実だとしても、ポンコツには変わらないじゃないかとカメラを突き返そうとするが、老婆の姿はすでになかった。


「なんだったんだ」


 夢かと思った。事故の後遺症がみせる白昼夢だと。しかし、手にあるカメラはしっかりと、残されたままだった。


 ◇


 事故から目覚めて数週間が経ち、病院内であれば散歩しても構わないと許可が出た。


 暇を持て余していた僕にとってはまたとない朗報だった。

 上履き代わりのクロックスを突っかけて、院内を巡ることにする。


 とはいえ、所詮は病院だ。取り立てて目をひく面白味のあるものはなく、ものの数十分で歩き終わってしまう。


「あら、お散歩ですか?」


 途中、看護師さんに声をかけられる。やっと歩くことができたのに、病院自体が退屈なものでしたと不満をいうと、看護師さんは苦笑して、窓のほうを指さす。


「それなら、中庭のほうはどうですか? 綺麗な桜が咲いてるんですよ」


「桜、ですか」


 そもそも今は春なのか。それすら知らなかった僕は、早速中庭に行くことにした。


 久々に繰り出した外は、過ごしやすい陽気に包まれていた。舗装された小道と、道の脇には青々しく茂る草、色彩豊かに咲き誇る花々が囲んでいた。


「……わぁ、すごいなこれは」


 小道を歩くこと数分。辿り着いたその先に佇む巨木を見上げて、僕は感嘆する。


 雲ひとつない、抜けるような蒼穹。それを背景として、しなやかに伸びる枝からは、可憐に色付いた桃色の花弁が咲いていた。

 花弁は幾重にも重なり、連なって大きく膨らんでいる。不意に風が吹き抜けると、葉擦れの音が響き、枝葉に止まる鳥が囀る。

 楽園という場所があるのなら、こういった場所だろう。そう、思った。


「あれ、今日は誰かいる」


 天高く聳える桜の木をぼうっと眺めていると、背後から声がした。


 振り返ると、車椅子に座った少女が不機嫌そうな目つきで僕を見ていた。


「君は……」


「あなた、ここの患者? 珍しいわね、ここの患者が中庭にくるの」


 吐き捨てるようにそう言って、少女が車椅子を漕ぐ。僕の近くにまで来ると、少女は慣れた手つきでブレーキをかけ、アームサポートに肘をつく。


「め、珍しいんだ。ここに人がくるの。それは、どうして?」


 年齢のわりに、どこか尊大で近寄りがたい雰囲気を纏う少女に気圧されながらも、なんとか尋ねてみる。すると、少女は僕を一瞥してから、すぐに視線を桜に戻す。


「綺麗だからよ」


「……え?」


「どうしようもなく綺麗で眩しいから。ほら、ここって病院でしょ? 病んだり怪我をしたりして、明日に希望が持てない人間が集まるところ。だから、立派に咲く桜を見るのは後ろめたいの」


「そ、そんなこと……。げんに、君だってここにいるじゃないか」


「私の場合は例外。みんな、長い闘病生活とかリハビリに苦しむ未来がある。でも、私は終わったの。終わらせられたの。だから、桜を楽しむ余裕すらある」


「終らせ、られた?」


 不穏な少女の言い回しに怪訝を抱くと、少女は歌うように、さらりと答える。


「私、もうすぐ死ぬの。この桜が散るくらいの頃に」


「……え」


「原因不明の病らしくて、治療手段がないみたい。なんか脳の病気らしいけど、詳しくは覚えてない」


 ただひとつ分かることは、と少女は溜息をついて、


「私は死ぬってことだけ」


「……」


「あぁ、ごめんなさい。せっかくのお花見を暗い雰囲気にして。それじゃ、私は――」


「僕は、記憶喪失なんだ」


「え?」


「事故で脳に障害を負って、記憶を失った。それだけじゃなくて、新しい思い出を記憶することもできなくなった」


「……そう。それは災難ね」


「僕は一度死んだようなもので、これから記憶を失う度にまた死ぬことになる。……不安なんだ。記憶を失う度に、真っ暗になる。僕は誰で、周りにいる人が誰かもわからないから」


「へぇ、そうなんだ。……死ぬって、そういうことなのか」


「でも、僕は生きたい。そして、思ったんだ。君にも死んでほしくないって」


「……なにそれ。同情ならいらない。気休めだって、いらない。私はどうせ死ぬ。それが事実なの」


「僕が覚えている」


「は?」


「君が生きてたことを。それを僕が覚えている限り、君は死なない」


「……あなた、バカにしてるの? 寿命が少ない人間を弄んでるの? ふざけないで」


「そうじゃない。ただ……死ぬってことは怖いことを僕は知ってる。それだけは、記憶が失う度に思い出させられるんだ。だから、せめて……残された時間だけは君に生きていてほしい。そう、思ったんだよ」


 毎朝起きるたびに、記憶があるかを確認する。ちゃんと覚えていれば安堵するけれど、ふと何も思い出せなくなる日がやってくる。


 自分は何者で、どうして病院にいて、どうやってこれまでの人生を辿ってきたのか。すべてを、白紙に戻される。


 そのときの喪失感は計り知れない。誰にも理解されない孤独感に、気が狂いそうになる。


 どうせ忘れるなら、なにをしても無駄だ。そんな絶望感に駆られることだって、ある。


「ただ息を吸って心臓が動くことだけが生きていることじゃないことを、僕は知っている。でも、君はそうじゃない。死ぬまでに、どんな風に生きてきたのかを思い出せるじゃないか」


「……」


「なら、せめて残りの時間は精一杯、生きてほしいんだ。楽しく生きて……それを知る人間がいれば、君は死なない」


「……何を言っているのか、さっぱりわからない。ていうか、私を覚えるっていうけど、記憶障害のあるあなたには無理じゃない。人をからかうのもいい加減にして」


 少女はそれだけを言い残して、車椅子を回す。そのまま、病棟に戻ろうとする彼女の背後に、僕は声を投げかける。


「僕が記憶を失う周期はだいたい3日だ! 3日後、またここで会わないか?」


「……なんで」


「僕の気持ちが本物だってことを証明してみせる」


「どうせ忘れるんでしょ、それも」


「いいや、忘れない。絶対に」


 ポケットに入れたインスタントカメラを握りしめる。あの老婆は信用できないけれど、いまはこれをアテにするしかない。


「君の名前はなんていうんだ?」


「……教えたくない」


「なんでさ。どうせ忘れられるって思っているなら、君の名前を聞いたって問題ない。違うか?」


 しつこく食い下がると、根負けしてくれたのか、少女は深々と嘆息する。


「……ちはる」


「ん?」


「私の名前。春を知るって書いて、ちはる」


「ちはる、か。可愛らしい名前だな」


「……似合わないでしょ」


「いいや? すごく似合ってると思う」


「……」


 それ以降、少女――ちはるが口を開くことはなかった。からからと車輪を回し、去っていくちはるの姿を見送って、僕は地面に落ちている小枝を手に取る。

 枝先を地面につけ、ガリガリと削る。桜の花弁が散りばめられた地面には、「3/20 知春と中庭で会う」という文字が刻まれていて、僕はポケットからインスタントカメラを出す。


 ピントを合わせ、文字を鮮明に捉えて、シャッターを押す。カチリと音がなり、写真が保存される。


 これが、僕がはじめて撮った記憶の1枚だった。


 ◇


 目を開けると、見知らぬ天井が広がった。


「……どこだここ」


 僕の部屋はこんなに真っ白だったろうか。


 身体を起こしてみると、部屋にはカーテンがかけられたいくつかのベッドが視界に入り、消毒液のような薬品臭さが鼻腔をくすぐった。


「……病院?」


 なんで僕がそんなところに?


 まったく検討もつかず、とりあえず人に聞いてみようと腕をベッドに押し当て、立ち上がろうとしたときだった。


 ズキリと鋭い痛みが走る。


「いった、なんだよ」


 顔を顰めて、袖をまくる。そして、僕は息を飲んだ。


「おまえのなまえははるき」「はるき」「はるき」「おまえはきおくそうしつ」「きおくそうしつ」「ひるごろにみまいにくるひとはおまえのははおや」「かあさんをかなしませるな」


 そんな文字の羅列が、腕に刻まれていたのだ。ナイフで切ったような切り傷で。


「……記憶喪失なのか、僕は」


 だとしたら、納得いく部分もあるけれど……。


 それが本当かどうか、確かめるために記憶を掘り返すと、僕はある映像に行きあたる。


「……3月20日、知春と中庭で会う?」


 ベッド横の棚にある時計を一瞥する。


 日付は3/20。今日だ。


「っていうか、知春ってだれだよ」


 そもそも、なんでそれだけは憶えているんだよ。


 でもなぜだろう。絶対に会わないといけない。そう、思った。


 ◇


「……ほんとにきた」


 過去の自分らしきものが残したメッセージ通りに中庭にいくと、まったく歓迎する気配のない言葉が寄越された。


 見事な桜の木のしたには、桜色のカーディガンを着た車椅子の少女が俺を睨んでいた。


「もしかして、君がちはる……さん?」


「なんで疑問形……って、ああそっか。あなた、記憶喪失なんだっけ? それ、ほんとなの?」


「あぁ、うん。たぶん、本当だと思う」


 その証拠に、と僕は袖を捲る。露になった腕のメモ書きに、ちはるの目が大きく見開かれる。


「……ずいぶん、斬新なリスカね」


「あっははは、僕も驚いたよ。けど、合理的ではあるんだよね。起きる時、痛みで絶対に見るし」


「ふぅん。ま、その様子じゃあ、嘘ではないみたいね。なら聞くけど、なんで私のことは覚えているわけ? しかも、待ち合わせのことも」


「いやー、それが僕にも検討がつかないんだ。もしかして僕と君は付き合ってるの?」


 何気なく問いかけてみると、ちはるの顔が一瞬で真っ赤になる。キッと険しい目つきで僕を睨み、


「そんなわけないでしょ!」と、必要以上に大きな声を上げた。


「たまたま、ここで会ったのよ。今日会う約束だって、あなたがしつこいっていうか……まぁ、とにかく、私たちは付き合ってない」


「そ、そうなんだ。それはごめん」


「……ほんとに、変な人」


 唇を尖らせて、ちはるが俯く。セミロングの柔らかそうな栗色の髪が滑り落ち、顔を隠す。しかし、僅かに覗ける彼女の頬はいまだに赤く染っていて。


 ひらひらと舞い落ちる桜の花弁が、ちはるの頭に降りかかる。


「……」


 気付くと、カチリという音がした。


「は? あなた、なにを撮ってるの?」


「あ、いや……」


 ちはるの指摘で、僕は我に返る。


 自分の手をみると、見慣れないインスタントカメラが握られていた。


「カメラ? カメラで、何を撮ったの? 桜?」


「……ううん。ちょっと……君を」


「わ、私? な、なんで」


「いやー、分からない。ただ、なんとなく撮らないといけない気……っていうか、忘れちゃいけない気がして。君の新鮮な表情を」


「なにそれ。新鮮もなにも、私とあなたが会ったのはこれで2度目よ? 普段の私のなにを知ってるっていうの。新しい口説き文句かなにか?」


「……かもしれない」


「は?」


「すごく、不思議なんだ。目が覚めて、僕は事故にあって記憶喪失になって、こんな風な人生を歩んできたって説明されても、実感が持てなくて。はぁ、そうですかって、どこまでも他人事なんだよ。まるで知らない人の中身に入ったみたいで」


「……」


「でも、なんでだろう。君だけは……ちはると会ったときだけ、凄い熱みたいなものが込み上げてきてさ。仲良くしたいっていうか、忘れちゃいけないって。これが、運命ってやつなのかな?」


「う、運命って」


 ちはるの黒い瞳が激しく泳ぐ。ぱくぱくと何度から空気を口で食んでから、小さな息をこぼす。


「よくもそんなセリフを恥ずかしげもなくいえるわね」


「あっははは、たしかに。でもほら、どうせ忘れちゃかうから、平気平気」


「……都合のいいやつ」


 そう呟いて、ちはるが微かに笑う。


 その笑顔はまるで小春日和みたいに温かで綺麗で。あぁ、これは忘れたくないわけだと、僕ははじめて過去の自分に理解を示した。


 ◇


 それから、僕とちはるの交流は続いた。


 ある日には、僕の名前について話をした。


「ねぇそういえば、あなたの名前ってなんていうの?」


「名前? 僕って、名乗ってないんだ」


「なんとなく、聞くタイミングなくて」


「……うーん、っていっても僕もそこまで興味なくてさ。自分がその名前で生きてきたことを忘れてるからだと思うけど。苗字はまったく印象に残らないくらい平凡で、名前ははるきらしい」


「はるき?」


「そっ。晴れやかな樹って書いてはるき」


「……ふふっ」


「なんで笑うんだよ」


「ちょっと思ってたの違って。こういったら悪いけれど、似合ってないかも」


「あはは、奇遇だね。僕もそう思う」


 ある日には、趣味について語り合った


「はるきはさ、好きなこととかあったの?」


「好きなこと? 趣味ってこと? 母さんがいうにはサッカーやってたらしいけど」


「へぇ、意外とスポーツマンだったんだ。私はてっきり写真を撮ることだと思ってた」


「あー、そうだね。いまはこれが趣味。病院だとすることも限られるし。ちはるは?」


「私は……歌を歌う……こと」


「え、そうなんだ!? 音楽が好きだったんだ。自分で作曲とかしてるの?」


「まさか。私にそんな才能ないし。それに……」


「それに?」


「……いいえ、なんでもない」


「? でも、そっか。ちはるの歌か、今度聴いてみたいな」


「ぜったいに、いや!」


 ある日には、ピクニックをした。


「いやー、桜の木を眺めて食べると味気ない病院食も美味しく感じるもんだね」


「勝手に病室から持ち出して、怒られても知らないわよ」


「とかいって、ちはるだって持ってきてるじゃんか。しかもシートまで持参してるし」


「……っ」


「それに、サプライズもあるんだ」


「サプライズ?」


「じゃじゃーん、お菓子! ほら、看護師の監視の目が厳しくてなかなか食べられないって言ってただろ? 僕は毎週お母さんに持ってきてもらってるし、1人じゃ食べ切れないんだ。残すとお母さん、寂しそうだし」


「で、でも私……」


「大丈夫だって、少しくらい。ちはるの病態だって、回復に向かってるんだろ?」


「そ、そうね。少しくらいなら……」


「どう? 久しぶりのチョコは」


「おいしい! 甘くて、味濃くて……ほんとうに」


「……ちはる? なんで、泣いてるの?」


「美味しさのあまり、感動したからよ!」


 ある日には、こんな話をした。


「ねぇ、はるき」


「ん?」


「好きな人って、いたの?」


「そりゃ、いたよ。……正確にはらしいけど。なんか、元カノだった子が見舞いにきたこともあるらしい」


「そ、そうなの!? そ、それで……?」


「それでって、特にはなにも。記憶喪失の僕には初対面の人でしかないからさ。恋人っていわれてもピンとこない」


「そ、そう。そっか」


「そう言うちはるはどうなんだよ? 好きな人とかいたの?」


「……ううん。いない。私、小さい頃から病院にいたから。恋をしたこともないし、することもないって思ってた」


「そっか」


「でも……でもね、はるき。私、いまは!」


「……ちはる?」


「……なんでもない。気にしないで」


「気にしないでっていわれても」


「ねぇ、はるき。また明日も、会えるよね? こんな風に、話すことができるよね?」


「? そりゃ、できるよ。っていうか、僕からもお願いしたいくらいだし」


「うん。うん……そうだよね。えへへ、ありがとう」


「どういたしまして? なーんか、今日のちはるは変だな」


「うん。そうかも。私、変かもね」


 こんな日々が、ずっと続くと思っていた。


 入院期間の退屈な時間をふたりで共有して、退院してからはもっと楽しいことをしようと、胸を躍らせていた。


 明日は、退院したあとの予定をふたりで決めよう。


 そんなことを考えて迎えた翌日の中庭に――ちはるは現れなかった。


 美しい花弁を纏っていた桜の木からは花が剥がれ、徐々に青々とした葉が見えはじめていた。


 ◇


 どうやら、ちはるは深刻な病気を患っているということを、僕は慌ただしくちはるの病室を訪れる医者たちの様子から察した。


 ちはるの身は病室から集中治療室に移された。


 もう、会えない。漠然としながらも、そう思った。


「……ちはるが話の途中で暗い顔をする理由は、これだったのか」


 趣味の話をしても、ピクニックをしたときも、好きな人の話をしたときも。楽しそうに笑う一方で、悲しい表情を浮かべていた。


 その理由は、彼女は僕に嘘をついていた。病状は回復なんかしていない。むしろ、その逆だったんだ。


 なんで、気づかなかったんだ。なんで、そんな大事なことを僕は覚えていないんだ。


 僕は、なにをしていたんだ。


 数日間、僕は寝食をとることもなく、ベッドのうえで後悔し続けた。


 ◇


 ちはるが集中治療室から病室に戻ったと、看護師からこっそり教えてもらった。


 少しは、容態がよくなったのか。またふたりで、話すことができるのか。


 逸る気持ちにつき動かされるままにちはるの部屋を訪れると、『こないで』と僕は拒絶をされた。


「……どうして? やっぱり、君の異変に気づけなかったから……」


『そうじゃない。はるきはなにも悪くない。でも、会いたくない』


「訳が分からないよ。嫌だよ、僕は。ずっと、ちはるに会いたかったんだ」


 ちはるの願いを無視して、僕は扉を開く。


 ガラリと開かれた景色には――知らない人が、いた。


 それは、僕が記憶障害だからじゃない。ちはるを忘れたわけでも、ましてや部屋を間違えた訳でもない。


 ちゃんとちはるのことを記憶しつつも、それでもその人が誰か、分からなかったんだ。


 きゃあという悲鳴が上がる。肩を抱く両腕には、たくさんの管が巻きついていた。ぶるぶると震える身体は病的なほどに細く、脆くて。顔を伏せて項垂れる頭には、一切の髪がなかった。


「……ちはる?」


「みないで」


「ちはる、だよね?」


「みないで」


「えっと、その」


「見ないでよ!」


 白い枕が宙に放り投げられる。バスンと顔に当たった枕は柔らかいはずなのに、なぜかジンジンとした痛みを残した。


「……幻滅、したよね?」


「……」


「失望、したよね。私、こんな風になっちゃって。忘れたいよね。こんな私と仲良くしても楽しくないし、辛いだけだし」


「……」


「忘れてもいいよ。どうせ、私の命はあと数日だし……死んだら、誰も憶えてくれはいないんだし。それなら、今のうちから――」


「忘れるわけ、ないだろ!」


 絶叫する。熱くて焦げるような熱が、全身に燻る。ここが病院であることも忘れて、僕はちはるのもとに駆け寄る。


「僕は忘れない。ちはるがどんな姿になっても、忘れない。僕だけは、絶対に」


「……なんでよ。どうして、そこまで」


「分からない。これがどういう感情なのか、僕にも分からない。きっと、忘れたんだ。でもさ、それもどうでもいいんだ。名前も趣味も経歴も友達も恋人も、どうだっていい。そんなもの、忘れたって気にもしない。でも、ちはるだけは忘れない。忘れたく、ないんだ」


「……なにそれ。相変わらず変なことばっかり。……でもね」


 ちはるの瞳が、潤む。窓から差し込む陽の光を反射して宝石みたいに煌めく雫が、青白い頬を伝う。


「私も、忘れられたくない」


「……」


「親にも兄弟にも同級生にも忘れられたっていい。でも、はるきにだけは……憶えていてほしいの」


「……うん」


「なんでだろう。こんな気持ち……私は知りたくなかった」


「ちはる……」


「死にたくない。死にたくないよぉ、はるき」


 もっと生きていたいよ。


 涙に嗄れた声で、ちはるはそう言った。


 ◇


 回復の見込みもなく、手の施しようがないちはるに取られた措置は、安楽措置だった。


 もちろん、できる限りの処置はされるが、あくまで延命措置に過ぎない。これ以上、身体に無理を強いるよりも、残りの時間を少しでも幸せに生きたいと、ちはる自身が希望した。


 本人がそう望むのなら、僕が口を出すこともない。余計なことはせず、できるだけ普通を装った。


 身体のことを心配されたり憐れまたりすることが、ちはるにとって一番嫌だということを、僕は知っているから。


「ちはる、映画でもみない?」


「いいけど、何を見るの?」


「んー、2人で見るならコメディとか?」


「コメディかぁ。あ、ならホラーにしない?」


「ホラー? なんでそんな、わざわざ……」


「私、見たかったの。でも、なかなか勇気が出なくて。でもほら、いまは映画を一緒に人もいるし」


「……まぁ、いいけどさ」


 本人が望むのなら仕方ない。僕とちはるはタブレットを共有して、ホラー映画を鑑賞。結果としては、開始数十分で閉じられることになった。


「だーからやめたほうがいいっていったのに」


「なんで病院舞台のホラーなのよ! ここ、病院なんだけど!」


「いや、どうせなら臨場感あるほうがいいかなって」


「余計な気遣いしないで!」


「あっははは、ごめんごめん。他に、なにかしたいこととかある?」


「……そうね。じゃあ、チョコを持ってきて」


「え、だけど」


「いいのいいの。私が食べたいっていってるの」


「はいはい」


 仰せのままに、と僕は自分の病室からチョコを手にし、ちはるの部屋に戻る。そのまま渡そうとすると、ちはるがあーと口を開く。


「食べさせて」


「それくらい、自分で……」


「私の、お願いなのに?」


「……わかったよ」


 肩を竦めて、チョコの包装を剥がす。まるで小鳥のように開かれるちはるの口に放ると、

 ちはるは満面の笑みを浮かべて、チョコを転がす。


「うん、やっぱりチョコは最高。甘くて――」


「ちはる? どうかした?」


「……甘く、ない」


「え?」


「あ、あはは……。どうしちゃったんだろ。味覚、おかしくなったのかな」


「……ちはる」


 実際、ちはるの病状は日に日に悪化していった。


 手足の可動域が狭まり、視力が低下し、味覚も薄れていって。唯一、聴覚だけは支障が起こらなかった。


「ちはるは、どの曲が好きだったんだ?」


「えっと、これかな」


「へぇ、知らないな。流行ったの?」


「ううん。全然。マイナーだよ」


 イヤホンを片耳ずつにはめて、音楽を再生する。流れ出した音の作りはたしかに一般受けするようなものではなく、歌詞も恐らく恋について綴っているのだろうと予想できる程度に、抽象的な表現だった。


「これがいいんだ。病院でいつもひとりだった私にとって、世間から見向きもされない歌はすごく心地よくて。いつも支えてくれた」


「なるほど。でも、うん。いい曲だ」


「ねぇ、はるき」


「どうした?」


「キス……しない?」


 あまりにも、唐突だった。脈絡がなさすぎて、からかわれているのかと思った。


「おねがい」


 けれど、彼女の発した「おねがい」は、これまでのどんなお願いよりも真剣で、切実で。意を決して僕は、ちはるの身体を抱き寄せる。


 お互いに瞼を下ろす。顔を徐々に近づけていく。やがて触れたちはるの唇は、ゾッとするほどに冷たかった。


「……ありがとう」


 と、ちはるがはにかんだ。


「こちらこそ」


 と、僕も笑った。


 ◇


 あくる翌日、ちはるの病室にたくさんの人が集まっていた。


 嫌な予感が、全身を突き抜けた。


「ちはる!」


 人垣を割いて入ると、ちはるはベッドのうえで横たわったいた。


 その目に力はない。ぼんやりと天井を眺めていたちはるの目が、僅かにズレる。


「……はるき? そこに、いるの?」


「いる、いるよ! 僕はここにいる!」


「そっかぁ」


 満足したような溜息だった。彼女は和やかに笑い、握る僕の手をさする。


「はるき、憶えてる? 私、はじめてあなたと出会ったときに、余命のことも話してるの。そのときに、あなたは私の残り少ない時間を楽しく生きてほしいっていったの。私はそれを、憶えることができるからって」


「……僕が、そんなことを」


「最初はなにを言ってるんだと思った。そんなことしても、余計に死ぬことが苦しくなるだけだって。けどね……わかったの」


 ちはるは歌うように、紡ぐ。


「死ぬ間際になって、わかった。私、良かったって思えてる。生きててよかったって。精一杯、楽しんでよかったって」


「……」


「もちろん、残念な気持ちもある。もっと綺麗なものを見たかったし、音楽も聴きたかったし、美味しいものも食べたかったし……好きな人とも一緒にいたかった。けど、それがちょっとになるくらい、私は精一杯、生きることができたの」


「……そっか。楽しんで、くれたか」


「うん。すごくね。それもこれも、はるきのおかげ。はるきは記憶を失うたびに自分が死んでる気分っていってたけど、そんなことないよ。いつのときも、はるきは優しくて誠実で。私が好きなはるきは、死んでなんかいないよ」


「ちはる」


「だから、生きて。絶対に。あなたは、生き続けるべきなの」


 そういう運命なのよ、とちはるは冗談めかすように言う。


「忘れないでね、私のこと。私も、忘れないから。死んだって、はるきのことは忘れないから」


「……ああ、約束だ」


「うん、約束」


 握られる手が解かれ、小指と小指が絡まる。そして指切りをされたその手がベッドに落ち、ちはるの目が眠るように閉ざされる。


 それから、彼女の目が開かれることはなかった。


 ◇


 経過観察にあった僕の退院が、決定した。


 お世話になった看護師さんたちの祝福を背に、僕はお母さんと病院を出ようとする。


 その道中で、奇妙な老婆に出会った。


「いい写真は撮れたかい?」


「……写真? 写真って……もしかして、お婆さんがあのカメラをくれたんですか? ありがとうございます! お陰様で、大切な思い出ができました」


「そうかいそうかい。それで、どんなものを撮ったんだい?」


「あー、それが……被写体は全部おなじ、女の子なんです。その女の子の名前とか、趣味とか、ピクニックしたときの思い出とか……お別れするときとか。フィルムの全部が、その女の子だけなんです」


「ほぉ。それでいいのかい? もっと有意義に使わんと、今後の人生、生きづらくないかい?」


「そうかもしれません。僕は自己紹介すら満足できないですし。不安もあります。でも……よかったんです。僕は、あの子のことさえ憶えていれば、生きていけます。生きていくことで大切なことは、彼女が教えてくれましたから」


「……そうかい。それはなにより」


「あ、お母さんが呼んでいるので行きます。それじゃ」


 頭を下げて、母のもとに向かう。


 スニーカーを履いて、病院を出る。久しぶりに繰り出した外の世界はすっかり初夏に差し掛かっていて。


 母とタクシーに乗り込もうとしたところで、不意にある場所に行きたくなった。


「……散っちゃったな」


 中庭に聳える桜の木に、花びらはない。青々とした葉が生い茂る葉桜と化していて、僕はそれを前に、目を瞑る。


 不機嫌そうな目をして、そっけない態度をしながらもカメラに撮られ、恥ずかしがる彼女。


 僕の名前を意外だとはじめて笑う彼女。


 ピクニックをして、チョコレートを頬ばって食べ、はしゃぐ彼女。


 歌を歌ってとリクエストして、嫌がる彼女。


 好きな人の話をして、少し様子がおかしくなる彼女。


 知られたくない真実を知られ、それでも一緒にいてほしいと流れた彼女の涙。


 大好きなチョコレートを美味しく食べられなくなり、それでも気丈に振る舞う彼女。


 キスをして、はにかむ彼女。


 お互いに忘れないと交わした、彼女との約束。


 春を知ると書いて、ちはると読む彼女の名前。


 記憶障害になってもなお、なぜか克明に想起できる10枚の記憶。彼女と作り上げたアルバムを捲り終えて、息を吐く。


「……また来年、咲くのを楽しみにしてるよ」


 踵を返す。


 桜の花びらが散る桃色の絨毯を踏みしめ、その場をあとにした。

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たった10枚のアルバム 宇波瀬人 @oneoclock

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