回収屋。

夢咲彩凪

第1話

 深夜0時。窓から差し込む月明かりと頼りなさげに揺れる蝋燭の火だけが、漆黒の闇を照らす。


「──いらっしゃいませ」


 半透明色の自動ドアが開けば、燕尾服に身を包んだ男が一歩前へ進み出た。妖艶な微笑みを携えた彼こそがここ〝回収屋〟の店主、ヒイラギ。


「ご予約のノザキ様でよろしいでしょうか?」

「そうだ。早くしてくれ!」

「それでは本日のご説明を──」


 早く早く、とノザキは半狂乱になってヒイラギにしがみつく。ヒイラギは凍てつくような冷たさを纏った視線で彼を見下ろした。


 この異様な空間を支配する闇さえも息を潜めている。


「──ノザキ様。よろしいでしょうか?」


 夜をも捉えるエメラルド色の瞳に囚われ、ノザキはぴたりと黙った。そして「は、い……」と従順に頷く。


「どうぞこちらへ」


 ヒイラギは緩慢な仕草でその手を取る。


 奥へ、奥へ、更なる闇の方へ。


「さあ、目を瞑って。楽にしていてください」


 ふっと吹き消された灯火が、暗闇に散った。


 *


 すっかり正気を取り戻し、車の運転席から会釈をしてくるノザキにヒイラギは恭しく頭を下げる。


 そうして遠くなるヘッドライトを見送ったあとで真っ暗な手術室に戻った。


 マッチの擦れる音と共に揺れる火の玉。また、それに照らし出されて浮かび上がるひとつの影──。


「──……アゲハ」


 机の裏に座り込むその女性は、ヒイラギに名を呼ばれると、より一層体を縮こませる。


「何してるの?」

「……もう、隠れてたの! ヒイラギが来たら驚かせようと思ってたのに」


 アゲハはそう言うと素早く立ち上がり、長い黒髪をかきあげた。


 口を尖らせて不満そうにしていたかと思えば、今度は悪戯っぽく笑う。


 彼女の艶かしさ溢れる美しい容姿はいつ見ても衰えることはない。


 特に黒いワンピースの下にすらりと伸びた、発光しているように見えるほど生白い脚は一種の芸術作品にさえ思われるほどだ。


 だがその姿からは想像もつかないほど子供のようにあどけない笑顔は、この闇夜にはとても似合わない。


「だいたいヒイラギはいつも私を見つけるのが早すぎる。そんなに私のこと好き?」

「…………」

「無視しないでよ。冗談だってば」


 黄色い声で騒ぐアゲハを軽くあしらう。

 

 そして3分の2ほどの目盛りまで染まったビーカーをそっと持ち上げた。


 禍々しい気を纏った黒色の液体は少しだけ妙な光沢を纏っていた。



 ────回収屋。


 この仕事を説明するには、まずというものについて解かなければならない。


 人間の心には至極様々な感情が存在する。


 好きや嫌い、安心に不安、嬉しいと悲しい……その他諸々。


 それらは全てふたつに分類される。正の感情〝白〟と負の感情〝黒〟に。


 それぞれの感情は常に器となる心のなかに液体として存在しており、増えたり減ったりを繰り返している。


 そのうちのの一部をし、苦しみを和らげる──それこそがの仕事だ。


『回収屋の家系に生まれた能力者は必ずその職を継がねばならない』


 特殊な能力を持って生まれたヒイラギも、例外なくこの掟に則って回収屋の職についた。


 上司に顎で使われ、怒りが限界に達した会社員。

 イジメが原因で引きこもりになった小学生とその親。

 子育てと介護と仕事に追われ、疲れ果てた主婦。

 

 高い費用を払って。回収屋機構で規定により定められた、たった少量だけを取り除くために。それもこんな真夜中に。

 ここへやってくる人は案外多いのだ。


 彼らは各々が様々な理由により蓄積した黒と闘っている。


 そう、彼女──アゲハもかつては客の一人だった。


「ヒイラギ、なんかぼんやりしてるように見えたけど大丈夫? 疲れてる?」

「うん、大丈夫」


 心配げに見上げてくる瞳に笑いかけて、襟を正す。


 夜はまだまだこれからだ。



「またあの人来てるね」


 翌日もそのまた翌日も。やがて一週間が経った今日もノザキは姿を現した。


 初めのころは狂ったように泣き叫んでいたこともあったが、最近は力尽きたように弱々しい嗚咽を漏らす。


 愛する妻を殺され、犯人は見つからない。しかし遺体の写真だけが家に届いた、と。


 彼はそう語っていた。


 ヒイラギはアゲハの耳打ちに軽く頷いてから、いつものようにノザキを迎え入れる。


「いらっしゃいませ」


 彼は入口で立ち尽くしたまま全く微動だにせず、ただ昏い瞳を虚ろに彷徨わせていた。


 ヒイラギは閉じかけていた自動ドアを制し、そっとノザキの背中に手を添えてから店内に誘導する。


 弱々しい声が、ポツリ、と闇夜にこぼれ落ちたのはその時だった。


「──……ぜんぶ、です。僕の中から全部消してください」


 古ぼけた置時計の時針が深夜2時を指す。

 蝋燭のろうがその白いからだを伝う。

 黒曜石のような冷たさが暗闇を走り抜けて行った。


「……ノザキ様」

「お願いです、ヒイラギさん。ここへ来てもしばらくすれば悲しみと怒りが押し寄せてくる。辛すぎるんです。全部の黒を回収してもらうことはどうしても無理なんですか?」


「いえ……不可能では、ございません。しかし多くの代償を伴うことになります」


 ヒイラギの返答は珍しく歯切れが悪かった。


 次の瞬間、虚ろだったノザキの瞳が突然鋭く牙を剥いた。そして一瞬たじろいだ隙を見てヒイラギに詰め寄る。


「金か? 金が必要なんだろう!? そんなのいくらでも払う!」

「もちろん費用もそうですが、他にも──」

「なんだっていい!」


 そもそも回収屋機構で定められている量の規定。それは心への刺激を最小限にし、精神状態を安定させるためのものだ。


 だが、その判断は状況に応じて回収屋自身に委ねられていた。つまりヒイラギは、ノザキの苦しみを全て取り除くことが可能ではある──。


「……承知致しました。少々こちらでお待ちください」


 ヒイラギは少し躊躇いがちにただそう言い残すと、長い廊下を進む。


 だがその途中で訝しげな声がヒイラギを呼び止めた。


「どこ行くの……?」

「手術ができるか確認してくる。アゲハはあっちで待ってて」


「ほんとにやるつもりなの?」


 歩きながら単調に答えていたヒイラギがぴたりと足を止める。


「前に教えてくれたよね? 全部の黒を取り除く代償」


 悲しみも怒りも痛みも全部、もう元には戻らない。


 どんなに辛い出来事があっても涙の代わりに溢れるのは、笑顔だけ。人を傷つけることさえ厭わず、楽しいとしか思えなくなる。


 そうするうちに、自分の感情が整理できなくなっていって。


 ──心が壊れていく。そして最終的には何も感じられなくなる。感情を失う。


 そんなの死ぬよりもきっと、辛いことだよ。


 アゲハは懇願するようにして、言い縋る。


 そう、払わなければならない代償は感情の喪失。その他にも睡眠障害や不整脈、幻覚症状など様々な弊害を伴う。


「──わかってる。それでも彼がそう願うんだから」


 やらなきゃいけない。


 ヒイラギは瞼を伏せる。着いてこないで、とアゲハを置いて先を急いだ。


 *


 生きている人間から取り出した心は本来とは異なる使い方として、回収された黒を吸収する役目を持っている。


 謂わば『黒のゴミ箱』。


 ヒイラギは物言わぬ骸と化したそれを持ち上げ、左右に揺らした。そこにはまだ吸収しきれていない他の客の〝ゴミ〟が少量入っている。


 黒が大量に発生するであろう大手術に向けての容量確認だった。


 そして、ヒイラギは小さく頷く。


「ねえ、それって」


 振り向けば、言うまでもない彼女は得体の知れない恐怖に美麗な顔立ちを歪めていた。


「入ってこないでって言ったよね。……そう、アゲハの想像の通りだよ」

「だ、れの……」

「ノザキ様の」


 ──奥様だけど。


 小さく発せられた悲鳴がアゲハの非難と疑問を紡ぎ出す。


 ヒイラギは事も無げに笑って、それに答えた。


「無理やり取り出したんだよ。この人は自分より優れている女性に嫉妬して、あらゆる方法を使って残酷に追い詰めた。苦しい境遇のなかでも努力を重ねてきた強かな女性が、自殺してしまうくらいに」


 だから仕方ない、とでも言いたげに。


 アゲハはぎゅっと拳を握りしめる。


「普段はクールぶってるくせに、辛そうな人見ると自分も辛そうにして。少しでも自ら命を絶つ人が減ったらいいっていつも泣いてた。……誰よりも命を大切にする人だったんだよ、ヒイラギは」


 アゲハの「どうして」の声が木霊する。


 しかしふと言葉を詰まらせ、我に返ったように大きく目を見開いた。


「まさか……」

「そうだよ」

「……っ、バカ」

「ごめんね」

「そんな笑顔で謝らないでよ」


 その場に崩れ落ちるアゲハを視界に映しながら、ヒイラギはやはりまだ笑っていた。


 ──そうだよ、この心は白に埋め尽くされてる。


 もはやなんの感情も湧かない。全ての黒を取り除いた代償を払うべきときが迫っているのだろう。


 ヒイラギは黙ったままアゲハの横をすり抜け、部屋を出ようとする。


「……ひとつだけ教えて」

「なに?」

「いつから?」


 感情を懸命に抑えたアゲハが少しだけ震えた、しかし凛とした声で言う。


 ヒイラギは振り返らない。開きかけた唇を結び直し、やはり押し黙ったまま自分を待つ客の元へ向かった。


 彼女はもう追いかけてこなかった。


***


 〝回収屋ヒイラギ〟の名のもとに大手術は無事成功を収めた。


 先ほどまで意識が混濁していた様子のノザキも今では嬉々として笑顔を浮かべていた。


「──……早く家に帰ろう。子どもたちが起きてしまう前に。……ああ、もちろん愛してるよ」


 そして幸せそうにに話しかけている。


 幻覚症状が既に現れていた。


 ヒイラギはそれを漫然と眺めていたが、不意にふっと笑みを漏らす。


『いつから?』


 数刻前に濁した問いへの答えを添えて。





「──君が海に身を投げたあの日」




 愛する人を救えなかった自分を呪った。


 二度と見ることの叶わない美しく無邪気な笑顔を想い、絶望に打ちひしがれ、そして。


 ……禁忌を犯した。


 もう存在しないはずだった透明な水滴がヒイラギの頬を流れる。


 彼の笑顔の破片が散り落ちていく。



 そうして白黒だった世界が、白だけに染まったあの日を想いながら、ヒイラギは色のない世界に沈んでいった──。






fin.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

回収屋。 夢咲彩凪 @sa_yumesaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説