スターダックスコーヒー 皆戸駅西口店

薮坂

ドーナツホールと丸い月


「ここで上島ウエシマくんに問題です」


 桜が盛りを過ぎ、葉桜となりつつあった四月中旬。その日のバイトは珍しくヒマ過ぎて、あくびを噛み殺しながらカウンターの中で突っ立っている僕に、同僚の彼女がそう言った。


 緑のアヒルが目印のカフェチェーン、スターダックスコーヒー皆戸みなと駅西口店。午後十一時のクローズまであと二十分、店内で過ごすお客さんも少ない夜。そんな落ち着いた店で彼女は、つまり星野ホシノさんは、ニヤリとした笑みで続けた。


「どうしてドーナツには穴が空いているのでしょう」


 彼女の手にあったのは、トングに挟まれたシュガードーナツ。閉店間際のそれは草臥くたびれてしまったのか、表面のアイシングが少し融けてベタついている。テラテラと光るドーナツを片手に、彼女は楽しそうに言葉を継ぐ。


「油で揚げる時、熱が均一に入るように──、なんていつもの答えはナシね。そういう物理的な問題じゃあないの。哲学。そう、哲学的な答えを聞かせてほしいんだ」


 彼女はドーナツを目の前に持ってきて、片目で穴から僕を覗き見る。その仕草は、彼女の彼女らしさをより強く引き立てていた。

 それがどう言うことなのか説明すると、つまりこう言うことである。


 ──彼女は今日も。訳がわからないけど、可愛い。



「上島くん、聞いてる?」

「聞いてるけど、また問題? いくらヒマだからってサボりは良くないと思うんだけどな」

「サボってないよ。ほらこうして、閉店間際にペイストリーが少しでも売れるように、ドーナツの配置を考えてるし」


 ペイストリーケースの中に、ゆっくりとドーナツを戻す星野さん。さっきと微妙に、ほんの少しだけドーナツの位置が変わっている、ようにも見える。まさにミリ単位の違いだけど。


「どう?」

「どうって、さっきとまるで変わってないように見えるかな」

「そこが上島くんの限界だよね。残念。この微妙な違いがわからないとは。上島くんにはアサガオとユウガオも同じに見えるんでしょ。それにスナネコとマヌルネコも。多分きっと、絶対そうだ」


 彼女は大袈裟に肩をすくめる。これもいつもの仕草。

 さっきも言ったけど彼女は、一言で表すなら「よくわからない女の子」なのだ。突拍子もないことを言ったりするのもそうだし、微妙すぎる喩えをすることもそう。あと、出し抜けにヘンな問題を出してきたりもそう。

 特に彼女の「出題」は、店がヒマな時のルーティーン。もう数え切れないくらいの問題を出されている。


 直近の問題は「海はどうして青いのでしょう」だった。その前は「桜はどうして一斉に散るのでしょう」だった気がする。それの前は確か「秋の木々はどうして紅く色付くのでしょう」。


 理系の大学生たる僕は、それらの問いに対していつもバカ真面目に答えていった。


 海が青いのは、青色の光以外を海が吸収してしまうから。

 桜が一斉に散るのは、ソメイヨシノは一本の原木から接木で増やしたクローンだから。

 葉が紅くなるのは、クロロフィルが減ってアントシアニンが増えるから。


 僕の答えを聞くたびに星野さんは、「ぶーっ、ハズレ!」と高らかに笑った。ちなみに僕は、一度として正解を出せたことがない。

 彼女の問題の答えは、僕にとってどれも理解の及ばないもの。でもその答えは印象的だ。今でもすぐに思い出せるほどに。



 海が青いのは、夏の青空が海に溶けてしまったから。

 桜が散るのは、咲いてた時を思い出してほしいから。

 木々が紅く色付くのは、大切な存在に出会えたから。



 一緒に働き出してもう一年が経つけれど、僕にとって星野さんは未だに謎の存在だ。こんなに不思議で詩的なセンスを持つ知り合い、僕の大学には一人もいない。

 僕が知っている星野さんの情報は少ない。

 彼女は僕と同い年。二十歳ハタチのフリーターで、この店からかなり離れた場所に住んでいて、花を育てるのと猫を愛でるのが趣味ということ。勉強が嫌いで、特に理系は大嫌いということ。あと一番謎なことは、コーヒー屋でバイトしてるのにコーヒーが苦手ってこと。彼女には苦すぎるらしい。



「さてと、答えは出た? どうしてドーナツには穴が空いてるのか。深淵なる謎でしょ?」

「……星野さん、もっかい言うけどバイト中だよ?」

「だってヒマじゃん。ヒマすぎて米田コメダ店長はバックヤードに篭りっきりだし、私もレジ片方閉めちゃったし。上島くんもエスプレッソマシン、半分閉めたんでしょ? ならやることないじゃん。ヒマじゃん。ヒマすぎてこけむすってヤツじゃん」

「こんな短時間で苔はさないよ。さざれ石もいわおにはならないって」

「前から思ってたけど、上島くんの返しって知的で面白いよね。大学生ってやっぱりみんな頭いいの?」

「知的とは違う気がするけどな。それに、君が代くらい小学生でも知ってると思うよ」

「そう? 私、君が代って高校の卒業式で初めて知ったけど。でも『苔むす』って面白い表現だよね。最初聴いたとき、天むすの親戚かと思ったもん。美味しそうじゃない? 苔むす。塩が効いてそうで」


 星野さんは、おもむろにおにぎりを食べるフリをした。ぱくりと一口、僕に向けてゆっくりと笑う。

 ちくしょうやっぱり可愛いな。今日も訳のわからない言動のオンパレードだけど、星野さんはこんな風に、いつもニコニコしてて可愛い。思わず見惚れそうになるその笑顔で、彼女は続けた。


「期限を切ろうか。この問題の解答期限」

「制限時間あり? いつもの問題と毛色が違うね。今までは期限なんてなかったのに」

「うん、今決めた。そうでもしないと上島くん、真剣に考えてくれそうにないし」

「僕はいつも真剣なんだけど、やっぱり難しいよ。でもなんで、いつも僕にそんな問題を出すわけ?」

「……解いてくれると私が嬉しいから。すごく嬉しいから。それじゃあダメ?」


 ダメじゃない。ダメな訳がない。キミが嬉しいと僕も嬉しい。

 思わず口に出そうになったけど、すんでのところでなんとか堪える。代わりに僕は努めてクールに「まぁ、頑張ってみるよ」と答えた。声は上ずってなかったと信じたい。


「それじゃあ、期限は次に会えた時までにしよう」

「星野さんと次、いつシフト被ってたっけ」

「まだ決まってないよ。だってそのシフト、今店長が必死で作ってるじゃん」


 星野さんは、ぴしりとバックヤードの方向を指差した。確かに店長は、毎回シフト作りに四苦八苦していた。我儘なバイトが多いんだよ、と毒づいて。


「次に会えた時、必ず答えを聞かせてね」

「一応、考えてみるけど。でも期待はしないでよ。僕は理系だから、詩的なセンスも哲学的な教養もないんだ」

「それでも、楽しみにしてるからね」


 彼女は笑った。とてもナチュラルな笑顔で。

 僕も笑った。あまりにも彼女の笑顔が可愛くて。


 だからそれが最後になるなんて、僕は思いもしなかった。





   ◎ ◎ ◎





「──辞めた? 店を? 星野ホシノさんが?」

「なんだよ、上島ウエシマも知らなかったのか? お前のせいなんじゃないのか、星野がバイト辞めたのは」


 それから一週間が経ったある夜のこと。星野さんが最近シフトに入ってない理由を米田コメダ店長に訊いたことろ、返ってきたのは「店を辞めた」という答えだった。

 寝耳に水どころの話じゃない。ベッドに隕石、くらいの衝撃だ。


「ちょっと待ってください、どうして僕のせいに?」

「お前、星野と付き合ってたんじゃないの? 店内恋愛が御法度とは言わないが、店長としては別れても働いてほしいもんだぜ」


 店長はカウンター内でそう毒づいた。僕と星野さんが付き合っていて、別れることになったから彼女は辞めた。店に居づらくなったから。

 店長はそんな勘違いをしているらしい。でもそんな事実はカケラもないし、どこにもない。悲しいことに、だけど。


「僕と星野さんはそんな関係じゃないですよ。星野さんの最後のシフトと被ってたのに、僕はそれを知らなかった……」

「上島は知ってると思ってたわ。さっきまでお前と別れたことが原因だと思ってたしな」

「だから違いますし、ほんとに知りませんでしたよ。星野さんが店を辞めたなんて」

「星野、店辞めることを誰にも言わないでほしいって言ってたんだよ。少なくとも一週間は言わないでほしい、ってな。それもお前と別れたのを隠すためかと思ってたわ」


 店長はエスプレッソマシンのポーターフィルタを外し、ノックボックスに叩き付けた。ガンガンと音がして、用済みの豆かすがボックス内へ落ちていく。

 酷い落ち方。まるで今の自分みたいだ。


「……店長。星野さんが辞めた理由とか、聞いてないんですか」

「家庭の事情らしいぜ。バイトは続けたそうな雰囲気だったけどな」

「そう、ですか」

「お前こそなんか聞いてないの。付き合ってないにしろ、仲は良かったんだろ?」

「他の人よりは、仲良かったと思いたいですけど。シフトもよく被ってたし」

「それも星野の要望だったからな」

「え? どういうことですか?」

「それを知らないとは、やっぱ本当に付き合ってなかったんだな」

「だからそう言ってるじゃないですか」


 店長は肩をすくめて、ポーターフィルタに新しい豆を詰め込んだ。タンパーで豆に圧力を掛け、片手でマシンにセットする。手早くショットグラスを並べ、抽出ボタンを押す寸前で手を止める。


「……星野、なるべく上島とシフトが被るように組んでくれって言ってたんだ。その代わり馬車馬ばしゃうまのように働くって条件でな。その時からだ、お前らが付き合ってると思ってたのは」

「それ、いつの話ですか」

「半年くらい前かな。多分」


 店長がエスプレッソの抽出ボタンを押した。マシンが低く唸る。キャラメルのような色と香りのエスプレッソがゆったりと落ちてきて、グラスの中で三層に分かれる。

 クレマとボディ、そしてハート。この三層に分かれるのが良いエスプレッソの条件。

 それに加えて、もうひとつある。彼女が前に言っていたことを僕は思い出す。



 ──エスプレッソ急行なのに、落ちるスピードはハチミツを垂らす速度が理想。矛盾してるよね。面白いよね。それに、最初に落ちてくるのがハートってところもまたいいよね。好きだなぁ、エスプレッソ。まぁ、苦くて全然、飲めないんだけどね。


 そう言った彼女は、その時も。

 やっぱり優しく笑っていた。



「……なんにせよ、あんだけ働いてくれてた星野はもういない。だから星野の代わりは別の誰かに埋めてもらわないとな。という訳で上島、頼んだぜ。馬車馬みたいによろしくな」

「え? あ、はい、」

「それじゃ休憩ブレイクな、上島。振ったのか振られたのか知らないが、英気を養って十五分後に復帰してくれ」


 青春だなぁ、と店長は軽く笑う。僕は全く笑えない。でも言われたとおり、僕は休憩に入ることにした。

 いろいろと考えなければならないことがある。そのためにもまずは、頭に糖分を入れないと。


 ブレイク用のコーヒーを貰って、社割でシュガードーナツを買う。エプロンを外して、バックヤードの従業員出入口から外に出る。その夜は四月下旬にしては寒く、テラス席を使っているお客さんは一人もいない。

 ちょうどいい。なにかを考えるのに誂え向きの夜。僕は手近な席に座って、コーヒーとドーナツを並べた。

 あの夜と同じように、ドーナツのアイシングは少し融けてしまっている。でもきっと美味しいに違いない。このシュガードーナツは。


 フォークをドーナツに突き刺して、目の前に掲げる。その穴から、片目で夜空を覗き見る。まん丸には少し足りない月が、ドーナツの穴の中にぷかりと浮かんでいる。



 ──次に会えた時、必ず答えを聞かせてね。


 彼女のセリフがまた呼び覚まされる。彼女はあの夜、僕にそう言った。次に会う時ではなく、と。

 だからあの時、彼女が店を去ることはもう決まっていたのだろう。どうして店を去ることにしたのか、それはわからない。もしかしたらそれさえも、彼女のなのかも知れない。


 ドーナツを齧る。エスプレッソをお湯で割ったアメリカーノを口に含む。柔らかな甘味あまみとキレのいい苦味にがみが融け合って、複雑に絡まり合って。そしてひとつの回答が導き出される。


 どうしてドーナツには穴が空いているのか。

 その答えが、今わかった。多分きっと、絶対そうだと思えるその答えが。



 電話をしよう。星野さんに。掛かるかどうかわからないけど、その第一声は決めている。

 ちょっと勇気のいるセリフだ。はっきり言って僕のキャラじゃない。だけどこれだけは、言わなければならないと思う。


 もしも電話が繋がれば。彼女の言葉を待たずに、そのセリフをゆっくりと紡ごう。



 ──ハチミツが、落ちるくらいのスピードで。




【終】

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