ナイスワーク

つくお

ナイスワーク

 外回りから戻るとデスクに個包装のお菓子が置かれていた。土産物のようだったが、誰がくれたのか見当がつかなかった。ホワイトチョコを挟んだクッキー生地のイメージ写真の誘惑に負け、鞄を足元に投げ出して勢いよく開封、かじりついた。サクッとした食感のあと、ホワイトチョコのまろやかな甘味が広がる──。と思った直後、口の中に妙な味が広がるような、喉の奥が詰まるような苦しさを感じた。

 次に気づいたときには、奇妙な虚脱感とともにその場に立っていた。視界が妙にぼやけて狭まり、お菓子はいつの間にか手から消えていた。何が起きたのかわからずに辺りを見回すと、足元に誰かがうつ伏せに倒れていた。何だこいつはこんなところで、と思ったらやけに自分に似ている気がした。よく見てみると、それは本当に自分だった。血の気の失せた顔は白眼を剥いており、口の端からはわずかに泡を吹いていた。傍らに食べかけのお菓子が転がっていた。

 ぼんやりした頭で考える。いや、待て。これがおれだというなら、今ここにいるこのおれは誰なのだ。それは抱いて当然の疑問だったが、なぜか的外れでシラけたものに思えた。

 死んだ。そう、おれは死んだのだ。直感的にそうだとわかった。目に映るものは何もかも夢の中の光景のようにあやふやで、全身が薄い膜に覆われたような奇妙で落ち着かない感覚があった。おそらく、意識だけが抜け出たような状態になっているのだ。

 一人ひとりのデスクがパーティションで仕切られた冷たく機能的なオフィスでは、おれの身に起きた出来事に気づくものはいなかった。普段、誰に知られることもなく堂々と鼻をほじることができるような環境なのだから、それも仕方なかった。

 オフィスの床に倒れたおれの苦悶の表情。そのそばに転がった食べかけのお菓子。ふいに毒を盛られたのではないかという考えが浮かんできた。誰かおれのことを気に入らないやつがお菓子に毒を混入したのだ。職場の同僚の飲み物に危険な薬物を入れて殺害を試みたというニュースを先日見たばかりだった。だが一体誰が、何のために。殺されなければならないほどのことをおれがしたのだろうか。自分でも気づかないうちに。

 記憶ははっきりしなかった。直前の出来事はおろか、過去のすべての記憶がまるで蜃気楼のように遠くおぼろげで、手の届かないもののように感じられた。本物の蜃気楼は見たことがなかった。そんなことをつらつら考えているうちに足が勝手にその場を離れ、おれは辺りをうろつきはじめた。手も足もきちんと胴体とひと繋がりになっていたが、どこか実体感が欠けていた。意識だけが浮いているような感覚で、すれ違う同僚たちは誰もおれに目もくれようとしなかった。いつものことといえばそうなのだが、今回は違う。本当に見えてないのだ。試しに通路で立ち止まってスマホをいじっていた女子社員の目の前に立って数秒間じっと見つめてみた。もしおれが見えていれば、悲鳴をあげたり睨み返してきたりするはずだが何の反応もなかった。やはりそうなのだ。

 十二階建てのオフィスだった。転職して四年経つが、社内にはまだ知らない場所も多かった。おれは用もないのにフロアを上下し、男女のトイレを覗き、備品庫でしばらく佇んだ。それから最上階にある社食に来たが、どこまで自分の意思でしてるのか、自分でもわからなかった。

 隅の席に同じ時期に転職してきた倉沢がサボっているのを見つけ、何となく近寄っていった。ある意味同期と言ってよかったが、部署も違うしたいした交流はなく、顔を見るのも久しぶりだった。やけに神妙な面持ちでいじっているスマホを脇から覗き込むと、婚活サイトでマッチングした相手へのメッセージを作成していた。倉沢はいかにもモテそうにない男で、実際にまったくモテなかった。おれよりも全然だ。

 こちらに気づく様子もなく、真剣に文面を考えている。人差し指一本で何と打つのかと思ったら、るみちゃんに会えないと死んじゃう、だった。この男と親交を結ばないでいたことはやはり正解だった。おれは倉沢から離れて、広い社食をふらふらと一周二周した。午後になるといつも漂う排水溝掃除の生臭いにおいが、今は少しも感じられなかった。

 ふいに半年前まで職場恋愛をしていた相手のことを思い出した。だが、顔もうまく思い浮かばなければ、名前も出てこなかった。どこの部署だったかも忘れてしまった。何か二人だけの特別な思い出を思い出そうとしたが、一つも出てこなかった。職場にはバレたくないからと、二人の関係を隠すよう求められたことだけがやけに記憶に残っていた。これが死ぬということかと何だかしんみりした。おれはこのまま誰に惜しまれることもなく消えてゆくのだ。

 気がつくと八階にいた。総務関係の部署が入った静かなフロアで、一年目にいたところだ。職員の顔ぶれはかなり変わっていたが、見知った顔もいくつかあった。サンダルを脱いで足の裏をかきむしっているやつや、なぜか折り紙に熱中しているやつもいた。何人かは仕事の手を止めて、自分がどんな間の抜けた顔をしているかも知らないまま視線をぼんやり宙に投げていた。

 おれは自分は会社が好きなのだということに出し抜けに気がついた。仕事はぬるく、環境は快適。オフィスは夏も冬も適温で、トイレはいつ行ってもきれい。一階にはコンビニが入ってるし、コーヒーは飲み放題だ。人との距離は近すぎず遠すぎずでちょうどよく、好きにサボれるにも関わらず給料や待遇は恵まれている。死んでもここにいたいと思うくらいだ。そう、死んでも──。

 だから、死んだ今もこうしてオフィスをさ迷っているのかもしれない。頭ではおれを毒殺した犯人を見つけなければならないとわかっていたが、不思議と恨む気持ちはわかなかった。今のおれは少しもいやな気持ちになっておらず、死を受け入れられないなんてこともなかった。おれの中のどこかに、生きているときには想像もできなかったような解放感があった。ひょっとしたらこれが死ぬことの利点かもしれないと思いはじめていた。

 たまたま扉の開いていたエレベーターに同乗して一つ下の階におりた。商品開発部の他に子会社がいくつか入っていて、何かと賑やかなフロアだ。ここにクライアントの無茶な注文を報告に来たりすると、瞬く間にフロア中に伝播してあちこちから人が集まり立ったまま会議みたいになることがよくあった。ふいに菜々瀬がこの部署にいたことを思い出した。元カノだ。名前も一緒に思い出した。中央に配置されたコピー機越しに見覚えのある蝶のデザインの髪留めをつけた後ろ姿が見えたのだ。こっちを向けこっちを向けと後頭部に念を送ってみたが、菜々瀬はモニターから目を離しもしなかった。こちらもそれ以上何か働きかけようとは思わなかった。これといった理由もなく疎遠になって別れたことも思い出したが、今になってみるとそれが正解だったように思えた。

 営業部のある四階に戻ってくると、ベンダーコーナーで三人の同僚が雑談をしていた。輪に加わるようにして話を聞いてみると、仕事ができないやつの悪口だった。一緒に面白がるような気持ちで聞いていると、なんとおれのことだった。発注ミスが多い、女子職員をいやらしい目つきで見る、デスクで鼻をほじっていて汚い、ほじった鼻くそを食べるのを見た、昼休みに風俗行っているらしい、などと言われ放題だった。それでもいやな気がしなかったのは、おれがもう死んでいるせいかもしれなかったし、同僚たちがまだおれが死んだことを知らないからかもしれなかった。ひとたびその事実が知れ渡れば、きっと死者として敬意を払われるだろう。それも時間の問題だった。なにしろ、おれはすぐそこで死んでいるのだから。あのまま何日も気づかれずに放置されるなんてことはないに違いない。

 ふと妙な心持ちがした。所属課の方で何か起きているような気配があった。雑談していた三人の同僚たちも異変に気づいたようだった。ざわめきの聞こえる方へと自然に足が向いたが、視野がいっそう狭まり、まるで暗いトンネルを抜けるかのようだった。

 たどり着いたのは自分のデスクだった。床に倒れているかつておれだったものの周りにちょっとした人だかりができていた。人の体をすり抜けるようにして前に出ると、おれと同い年の係長がおれの体に馬乗りになって心臓マッサージをしていた。それをサポートするようにして、再雇用の畠山さんがマウス・ツー・マウスをしていた。がさつなおっさんに肋骨が折れそうになるほど強く圧迫され、六十過ぎのじいさんの乾いた唇を押しつけられる。かつておれだったものはいいように蹂躙され、まるで男だらけの3Pを見せられている気分だった。おれは、そんなことをしても無駄だと思いながら、ただ傍観しているしかなかった。毒なのだから人工呼吸など効くはずがない。その証拠に、横たわったおれの体には何の反応もなかった。人だかりにも諦めムードが漂いはじめていた。

 そのとき、突っ立っている方のおれをすり抜けるようにして、一人の男が前に進み出た。先月から新しいクライアントを一緒に担当している袴田だ。営業成績は常にトップスリーに入るデキる男で、おまけにイケメン。新しいクライアントの担当女性社員もこいつに好意を抱いており、打ち合わせでもおれなどいないかのように話をするのだ。その女性社員に袴田は風俗オタクだとあらぬ噂を吹き込んでやったが、それ以来彼女はおれと目を合わそうともしなくなっていた。

 袴田は係長と畠山さんに交替するように紳士的に促すと、おれの上半身を起こさせ、後ろから抱え込むようにして腹の前で両手を組んだ。袴田が両手をぐっと引き寄せるようにしておれの腹を圧迫すると、おれの口から何かが飛び出したのが見えた。そうかと思うと、おれ、このおれは、いきなり何か見えない力に引き寄せられ、抗う間もなく元の体の中へ吸い込まれてしまったのだ。

 途端に全身に苦痛が満ち、激しくむせ返った。体が鉛のように重く、指先を動かすこともできないほどだった。おれはとにかく息をしようと必死にあえいだ。息をしないと苦しい。つまり、生き返ったということだった。死んでいるときと同じくらい視野が狭まっているような気がしたが、まもなく目の前の光景が意味を結びはじめた。職場の面々が驚いたような安堵したような顔でこちらを覗き込んでいた。おれの中では、余計なことをしてくれたという思いが頭の中で納まる場所を探すかのようにふらふらしていた。

 袴田は上司や女性社員たちにまるで大手柄を立てたかのように労われていた。おれは再び体を床に横たえて声を出す気力もなかった。袴田は自分の手柄について仕事のときと同じように謙遜する素振りもなく語りながら、これで閃いたのだというように床に転がる何かを指さした。ついさっきおれの口から飛び出したもの、それは食べかけのお菓子だった。おれは毒殺されたのではなく、お菓子を喉に詰まらせただけだったのだ。

 袴田の周りにいた女性社員の一人が小さな悲鳴を上げたかと思うと、わっと泣き出した。おれがいつもあらぬ妄想を抱いている平山さんだった。エスカレーターで上るとき、おれはいつも彼女のうしろについてお尻を見上げてしまうのだ。下るときもやはり彼女のうしろについて胸元を覗き込もうとする。どうやら彼女がデスクにお菓子を置いたようだった。彼女に負い目を負わせたような気がして、おれはかすかにほくそ笑んだ。

 他に何も考えられなかった。おれは力尽きたかのように床に倒れたきり、目を閉じる力もなかった。口の端から垂れたよだれをぬぐう気力もなかった。辺りは一種の興奮状態に包まれていたが、おれのことはもう生き返ったのだからと誰も気にかけてくれなかった。しばらくするとまた意識が遠のくような感覚があった。死ぬのとは違うが、眠るのとも違う。このまま消えてしまいたかったが、それは無理だとわかっていた。ふと、袴田が得意気に話している声が耳に入ってきた。

「二分か三分は死んでたんじゃないか。脳に障害が残るかもしれないな。まぁもともとこいつは──」

 そこから先はもう聞こえなかった。





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