ある女の話

 部屋に響く蝉の声。煩いくらいに響く高い鳴き声は少女の耳に届くことは無かった。身体に鈍い衝撃が何度も感じる。少女は何も考えないで、ただ自分を殴り続ける相手を見ていた。母親は鬼の形相で自分を殴り続ける。しばらくして気が済んだのか、息を切らしながら派手な格好に着替えて家を出ていく。

 少女は咳き込みながら痛みの走る身体に鞭を打って立つ。決して母親を恨んだりはしない。少女にとってどんなに暴力を振るおうが血を分けた母親であれば、それだけでいい。帰ってきてくれるだけでいい。例え自分に愛情など無くても帰ってきてくれるなら、それでいい。

 それで良かったのに。


 その日は何故か、母親が帰ってこないような気がした。それはいつもよりも大きな鞄を持っていたからか。最近何やら書類の手続きをしているのを見たからだろうか。少女の中に帰ってこない恐怖と、信じて待ってきたその気持ちを裏切られたような殺意が生まれた。母親が背を向ける。ここで止めなければ、もう帰ってこない。

 少女は台所の包丁を手に取り、母親の柔らかい背中を刺した。



 動かない母親を見て、良かったと思う。これでもう何処にも行かない。ずっと一緒にいられる。そう思っていた。だが徐々に自分がした事が母親に残ってもらうように『引き止め』ではなく、母親の命を絶った『殺人』だということを理解するのに、子供ながらすぐに理解できた。人は死んだらどうなるのか。しんだら動かない。死んだら食べ物を食べない。飲み物を飲まない。腐ってしまう。少女が望むのは『ずっと同じ姿の母親』だ。それが損なわれるのなら、もうその死体に意味は無い。価値はない。姿で残せないなら、記憶として残せばいい。そう思った矢先、少女の頭の中を空腹が襲った。母親を殺してから丸一日何も食べていない。冷蔵庫の中を開けるが愛していない娘に生きる希望など残すはずがない。少女はゆっくりと目の前に転がる『肉』を見る。少女はしばらく考えた後、『肉』を浴室に運んだ。



 その翌日だった。警察官が駆け込んできて、怯えたような目で自分を見た。そしてすぐに外に連れ出された。外には周りの住人が自分を見ていた。血だらけの自分を見て短く悲鳴をあげる者もいた。少女はそんな人たちを見て、満足そうにお腹をさすった。







 夢だったカフェを開いたのは旦那の意思だった。女は癌でこの世を去った旦那の為に、そしてこれからの自分の為に毎日忙しく働いた。だが苦痛とは思わなかった。女は過去を全て忘れて前に進んでいた。

 ほら、今日もお客さんが来た。満面の笑みで迎えなければ。見ない顔なので初めての客だろうか。ならこれから気に入って貰えるようにしなければ。旦那譲りの美味しい珈琲とお菓子を持って美味しいと言ってもらえるように。今、こんなにも幸せだと思ってもらえるように。

 そうして満面の笑みで『その客』を迎える。


「こんにちは!いらっしゃいませ!」





 泣きながら調理の手を動かす。どうしてこんな事をしているのだろうか。もう忘れたはずなのに。あの時の自分はもういないはずなのに。どうして『肉』を焼いて食べているのだろうか。意識は拒絶している。喉に違和感を感じる。今食べたらきっと吐いてしまう。そのはずなのに、それなのに身体は喜んでいるかのようにその『肉』を受け入れる。柔らかい中に妙な硬さが残る肉を食べて美味しいと思ってしまった。

 嫌だ。

 どうして。

 もう忘れたはずなのに。

 どうして。



 止められないのだろう。





 目の前に刑事がいる。自分はナイフで切りつけて追い詰めている。自分でもおかしいと思うような叫び声をあげている。もうどれが自分なのか分からない。

 喜んで『肉』を食べる自分。

 愛する夫の意思を継いでカフェ経営に勤しむ自分。

 そして、母親を美味しいと思った自分。


 どうして自分の人生はこうなのだろうか。ただ、普通に生きたかっただけなのに。普通だったはずなのに。虐待を受けても、真っ当に生きられたはずなのに。

 どうして。



 薄暗い留置所の中でシミのある天井を眺める。あの時の天井に似ている。

 蝉が鳴り響いていたあの部屋。

 妙な肉が焼ける煙が漂うあの部屋。

 母親が鬼の形相で自分を殴り続けたあの部屋。

 自分以外誰もいなかったあの部屋。


 いつからだろう。

 いつから私の人生は、こんなにも血に染ったのだろう。

 意識が朦朧とする。眠くなってきた。

 お母さん、ごめんなさい。

 私の中にいるお母さんが、きっと私を殺そうとしている。

 あの時、背中に包丁を突き刺した私のように。

 今、私の身体の中でナイフを突き立てている。

 ごめんなさい、と涙を流しながら。



「美味しかったなぁ」


 女の記憶は、意識は、そこで終わった。



 夢を見た。

 綺麗な部屋。

 整えられたキッチン。

 美味しそうな料理の匂い。

 玄関を開けると、母親が優しい笑みで私を迎えてくれる。その奥には父親がいた。わたしに気がついたのか手を振って笑みを浮かべる。

 私は靴を乱暴に脱いで母親に咎められながら部屋の中に入る。

 私を見て父親と母親はおかしそうに笑いながら、優しい声で言った。


「おかえりなさい」


 私は当たり前のように、普通に返事をした。


「ただいま」



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猟奇殺人鬼イヌ男 熊谷聖 @seiya4120

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