第22話 悪いイヌ
「佐東菜摘が死亡した」
埼玉県警の会議室でその知らせを佐々川から聞いたのは佐東菜摘逮捕から二日後だった。鷲島が南藤に会い、事件に隠された思惑と真実を告げた翌日だった。佐々川も最初は信じられないというような表情だったが、佐東の死因を聞いて納得はしたようだった。
佐東が死亡したのは熊谷警察署の留置場の中だった。取り調べをして検察庁へ身柄を送検されるはずだった朝に死亡しているのが確認された。鷲島は悪夢を見ているような感覚に陥りながらも、佐々川に問いかける。
「死因は・・・?」
「プリオン病。別の言い方をすればグールー病というやつだ。本来ならば日本人には発病の確率は低い病気だが、発病率が高い国があったそうだ。その国には食人風習がある一族があり、主にその一族でプリオン病が発病していた。佐東の脳はスポンジみたいにスカスカになっていたそうだ。だが元々脳の損傷は進んでいたらしく、この状態で生きていた方が不思議だと言っていた。事件が起きてから発病し、事件が終わった瞬間に事切れる。まるで誰かが狙ってたみたいだな」
浦部が言っていたことを思い出す。人が人の肉を食べる行為にはリスクしか伴わない。それによって得られるのは一族内で存在するルールを守る規律だけだ。そもそも食人は文化的に存在していたか、それとも単に『そういう趣味、趣向』の人達が行っていたものだ。普通の人間がやることではない。だが佐東はそれをやって、そして死んだ。そもそも南藤が、阿比留が佐東を見つけさえしなければ、こんな事件は起きなかった。未来ある人が殺されることもなかった。佐東もいつも通りカフェを続けて、常連と話して、バイトの女子高生達と楽しく暮らしていけたはずだ。
「まさか・・・」
そこまで考えてふと可哀想に、と思い、そしてある可能性に気が付く。もしそうなら阿比留の復讐心はとてつもなく深いものであり、そして計画も緻密に計算されていたものだ。正直、同じ人間がやったとは思えなかった。だがもし鷲島の考えが正しければ、阿比留が自分を殺させるという無謀にも等しい行動に出た理由も理解出来る。死んでも、計画を、佐東に復讐するという結末を必ず迎えられる自信があったのだ。この事件を起こした時から、佐東が食人鬼になった時から。
「鷲島?」
「阿比留先生は、最初から佐東が死ぬことを分かっていた・・・だから自分の命まで賭けられたし、無謀とも言える行動もできた」
「・・・なるほどな。食人がどれだけのリスクを伴うのか、それを阿比留先生が理解していないはずはない。逮捕されなくても、佐東は食人によるプリオン病で死ぬ。ある意味逮捕はただの保険だったわけだ」
それが阿比留岩雄の復讐。人を食べた殺人鬼が自分の行動によって自分の首を絞め、そして自分を殺す。
そして南藤の思惑。阿比留の計画を利用して社会に虐待という問題を投げかける。少なからず今回の事件は世間に衝撃を与え、そして人々の記憶に残っただろう。虐待によって引き起こされた事件として。確かに虐待は提起する問題ではあるし、阿比留の佐東に対する復讐心も凄まじいものだった。だがそれでも三船や碓氷など罪なき者が無惨に殺されることはあってはならなかった。当時に過去を乗り越え、平和に生きようとしていたのに復讐の為に殺人犯に戻され、そして死の道を進んだ佐東にも複雑な気持ちを抱いていた。彼女もまた利用されていたのだ。何にせよ、この事件は終わり、誰もが明日起こるかもしれない事件に気持ちを切り替えるのだろう。この事件を少しは覚えていても明日衝撃的なニュースがあれば記憶は上書きされるのだろう。人間なんてそんなものだ。大事な事ほど覚えていない。そう考えると南藤の思惑は本当に上手くいったのか疑問が残る。やり場のない気持ちを心の内に留めておき、鷲島は佐々川に背を向ける。佐々川は鷲島を止める事はなかった。部屋から出ていく鷲島を見送り、佐々川はふぅ、と息を吐いて椅子に座る。正直、鷲島に詰め寄られる覚悟をしていたのだがそれよりも真相を闇に葬られたショックの方が大きかったようだ。虐待被害者として鷲島はこの事件に並々ならぬ思いを持っていたのだから、当然と言えば当然だったのかもしれない。
会議室の窓を開け、煙草を一本取り出して火をつける。むせ返るような煙を肺に吸い込み、口から吐く。美味くも不味くもない煙の余韻を身体の中で嗜んでいると、会議室の扉が開く。入ってきたのは浦部だった。いつもの様にだるそうな顔をしながら会議室を見渡し、佐々川しかいないことを確認すると頭を掻きながら声をかけてくる。
「あれ?鷲島くんは?ここにいるって聞いてきたんだけど」
「彼ならさっき出ていきましたよ・・・あ、別にいじめてないですからね?」
「わかってるよ・・・佐東菜摘の事か」
佐々川が顔を伏せるのを見て察したようだ。浦部はどっこいしょ、と椅子に腰掛けると持っていた封筒を机に置く。
「改めて佐東菜摘の死亡診断書とか諸々の事を鷲島くんに話そうと思ってたんだけど、そう簡単にはいかないか」
「それはそうですよ。あいつはこの事件に並々ならぬ思いを持っていた。それは自分がかつて受けた虐待に関連するものであり、関係者達も虐待被害者だったり加害者だったり、虐待によってその人生を歪められた人達だった。だからこの事件の真相を誰よりも追いかけ続けた。その結果が・・・」
佐東菜摘の死。真相を知るであろう阿比留岩雄は第三の被害者として殺害され、南藤も計画を利用したという証拠はなかった。この事件は『頭のおかしい人間が人を無惨に殺した事件』として終わる。その裏に隠された虐待という真実を見ることなく、鷲島はこの結末を受け入れるしか選択肢はなかった。ため息をつく佐々川を見て浦部は「君も若いな」と言い笑う。
「・・・・・・悪いイヌ」
「え?」
浦部の唐突な発言に驚いたが、それよりもその内容に素っ頓狂な声を挙げる。浦部は佐々川の疑問に答えるようにゆっくりと話し出す。
「いや、犯人がイヌ男なんて呼ばれて、しかも食人鬼ってのも相まってちょっと思い出したんだけどな。飼い犬が飼い主の身体を食べる事例は確認されていた。まぁ食人だな。普通は同族同士、例えば死んだ犬の死体を犬が食べることはある」
確かに同族が同族の遺体を食べる風習は存在していた。犬に限らず、自然界に生きる動物は必要に迫られればそうするだろう。人間にだってその様な風習は存在していた。
「それが・・・?」
「だがその事例の犬は飼い主ととても仲が良く、飼い主を食べるとは思えなかった。色々調べた結果、突然倒れてそのまま亡くなった飼い主を犬は起こそうとしていた、という見解に至った。最初は舐めたりする程度だったが、それでも起きないと分かると更なる刺激を与えれば起きるかもしれない、と考えて引っ掻いたり噛み付いたりしたのがエスカレートしたらしい」
飼い主を助ける為に飼い主の身体を食べる。飼い主を起こしたい、という目的が行き過ぎて身体を食べてしまう。だがその犬もきっと食べたくて食べた訳じゃないだろう。どれだけ刺激を与えても起きない、ならば更なる刺激を与えればと考えた。その結果が飼い主を食べるという結末になった。だがそれは悪いイヌでは無い。純粋に飼い主を助けようとした良いイヌでは無いのか。
「だが、ある人はこんな事を言った。『犬は飼い主がいなくなったから、食べるものに困った。だから目の前に転がっている肉を食べた』と。最初からその犬にとって飼い主は死んでしまえばただの肉塊、食べるのに躊躇しない悪いイヌだと」
「悪いイヌ・・・生きる為なら同族も人も食べることも厭わない・・・」
「彼女はどうだったんだろうな」
浦部は静かに息を吐いて佐東の死亡診断書を見る。どうだった、とはおそらく・・・
「人を食べる事を余儀なくされたか、もしくは『最初から人を食べるのが趣味趣向だった』のか」
「それは無いでしょう。彼女が人を食べたのは十五年前の事件以来ありませんでしたし、今回の事件では過去のトラウマを呼び起こされて殺人に至ってます。好き好んで食べていたとは・・・」
「かもな。まぁこの話は鷲島くんが居る時にまた。君を少しは休めよ」
あなたもね、と浦部に言うと浦部はご最もと言いながら苦笑いする。部屋を出ようとしたところで浦部が思い出したように佐々川に向き直る。
「佐東菜摘の件だが、どうも妙でね。私も佐東菜摘の死亡の件は報告だけなんだ。だから実際に遺体を見た訳では無い」
「それって一体・・・?」
「署内での死亡なら私のところに遺体が来てもおかしくはない。何せ検視官だからね。被害者だけではなく事件関係者、それも犯人が死んだとなれば一応は見なければならない。だが死亡報告だけ上がってきて後は音沙汰なし。薄気味悪くてね」
顔に皺を作りながら苦笑いをする。佐々川は浦部の言わんとする事が理解できなかった。いや、理解しようとはしなかった。
「まぁ老人の独り言だ。いや、妄言か?とにかく忘れてくれ。君も早く休むんだぞ」
それだけ言うと浦部は「それじゃ、体調に気を付けて」と言い残して部屋を出る。結局浦部が言いたかったことを理解できないまま、それを聞けないまま終わった。
佐々川は深く息を吐くと今回の事件の資料の整理をする。黒表紙に綴じられた資料は何冊もあり、それだけこの事件が複雑で闇が深いものだったのかを物語っている。表紙には『熊谷連続猟奇殺人事件』と事件名が書かれている。さすがに『イヌ男事件』とは書けないか、と場違いな笑みをこぼす。猟奇殺人や快楽殺人は動機として心理的なものも多いがどちらかと言うと本能的な動機が多い。『そういう趣味・趣向だから』『性的に興奮しないから』などある意味人の本能が動機だ。だからこそ連続性が高く殺人をやめられない、とどこかで聞いた事がある。
もし、佐東菜摘もそうなら。「仕方なく」ではなく、過去の障害を乗り越えておらず、阿比留がトラウマを呼び起こさなくても最初から食人鬼としていたのなら。佐東菜摘が「人の臓物が趣向」だったとしたら。十五年前の殺人も「ただ腹が空いたから母を食べた」のだとしたら。
佐東は「悪いイヌ」だったのか。虐待など関係なしに、「食人鬼」としてずっと生きていたのかもしれない。ただ、それは無いと信じたかった。少なくとも最初にカフェで会った時の佐東は三船の死を本当に悲しんでおり、何度か接してきたが演技が出来るほど器用な人物でも無いと感じた。何より佐東は鴻巣の事件以来一度も犯罪に手を染めていない。つまり十数年のブランクがあり、もし本能を抑えられないとしたらもっと短い期間で殺人を犯していただろうし、もっと残虐な人間性になっていたはずだ。だが自分達が見てきた佐東は、ただ何かのきっかけで「殺人鬼としての佐東」を呼び起こされただけなのだ。そう思いたかった。
「考えすぎか・・・鷲島」
窓の外を見る。分厚い嫌な曇が空を覆っていた。太陽の光は雲に遮られ、昼間なのに淀んだ暗さが熊谷警察署を覆う。正面玄関から道路に出る駐車場を鷲島がまっすぐ歩いている。鷲島はこれからどこに行くのだろうか。事件の再捜査か、南藤について調べるのか。鷲島の背中からは何も読み取ることが出来なかった。だが、鷲島はまだ諦めていない。この事件の結果に納得したくない。有耶無耶にしたくない。それだけは分かった。
「お前は一体何処に行くんだ?俺は・・・どうするべきなのか分からないよ」
佐々川は届くはずのない声で小さく呟くと、右腕をおさえる。袖から痣のようなものが見え隠れしている。
雲が厚くなり、雨が降り出した。鷲島が向かう方向の空が、黒く染まっていた。佐々川は煙草を灰皿に捨てると、部屋を出る。
煙草の煙が、ゆっくりと消えていった。
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