第21話
『容赦は、いかなる復讐にも勝る』
一世紀の古代ギリシアのストア派の哲学者エピクテトスの言葉だ。今で言えば『許すことは、どんな復讐にも勝る』ということだ。いつまでも自分の中で復讐に囚われているより、その復讐や憎しみをちっぽけな気にしない程度のものにしてしまえばそれこそ相手への何よりもの復讐になるのではないか、ということかもしれない。もしくは、復讐などしても得られるものは何も無い、復讐なんかしない方が良いという意味かもしれない。哲学者が遺す言葉は様々な意味が込められ、読む人によって様々な意味を持つ。百人が読めばその言葉は百通りの意味を持つ。誰がどう捉えようと仕方の無いことだ。
だから復讐も誰がどう捉えようと構わないのだ。復讐なんかしても意味は無いと思うか、復讐をしてもやり返されるのが怖いと思うか。もしくは、どれだけ長い年月を過ぎようとも復讐をしなくては気が済まないと思うか。百人が復讐の気持ちがあれば百通りの復讐の仕方がある。陥れるか、嵌めるか、この世から消すか。復讐とは、人間が持つ本能の一部なのかもしれない。そうでなかったら、復讐の為に人生を費やすことなどできるはずもないのだから。
深い沼に沈んでいく感覚を感じながら目を開ける。部屋の奥から足音がする。階段を上がり、廊下を歩く。どうやらこちらに向かってきているようだ。誰か来客の予定はあっただろうか、と予定表を見る。今日の来客の予定を確認する前に部屋の扉が開いた。見覚えのある顔を見て自分でも不自然な笑いを浮かべて挨拶をする。
「こんにちは、鷲島さん。お怪我は大丈夫ですか?」
「えぇ、タフなもんで。心配して頂かなくても大丈夫ですよ、南藤さん」
鷲島は相変わらず爽やかな笑みを浮かべてくる南藤を見て静かに部屋に入る。鷲島は虐待を無くす会が開かれていた公民館の部屋に来ていた。部屋は少し散らかっており、何やら書類などがダンボールや机に積み重なっていた。
「いやいや、散らかっててすみません。ちょっと整理をしていたもので」
そう言って南藤は部屋に道を作り、真ん中辺にあるソファに鷲島を案内する。机もダンボールを退けて引っ張り出す。南藤は何かお茶でも、と言いながら奥にある辛うじてコンセントが繋がっている電気ポットからお湯を注ぎ、コーヒーを出す。鷲島は自分の周りに積み重なっている書類やダンボールを見渡す。
「虐待を無くす会は南藤さんが引き継がれるんですか?」
「いえ、虐待を無くす会はもう無くなることになったんです。阿比留先生が亡くなり、会の人も三人も殺された。世間からの注目を集めすぎましたし、何より猟奇殺人事件の原因ではないかなんて言われてしまったら、続けられません。私も研究が忙しくなりそうですし、潮時かなと」
「そうですか・・・それは残念です。今や社会問題になっている虐待についてとても熱心に取り組んでいる団体でしたから」
南藤はコーヒーを一口含むと、何かを探るような表情で鷲島に問いかける。
「それで、今日は何か?」
「あぁ、今回の事件の容疑者を逮捕したのでそのご報告に」
「わざわざ?」
「さっき南藤も言っていたでしょう。今回の事件はこの虐待を無くす会が深く関わっていましたし、何より被害者全員がこの会の人間だ。こんな大切なことを報告しない訳にはいかないでしょう」
「それはありがとうございます。確か犯人は佐東さんだったとか。まさかとは思いましたが。本当に驚きました・・・でもこれで阿比留先生や三船さん、碓氷さんも報われます」
何はともあれこれで事件は解決ですね、と安堵の表情を浮かべて立ち上がる南藤も見て鷲島はまだ座っている。
「実は、少し考え事をしているんです。まぁ俺の考えすぎで妄想なので聞くに値しませんが、聞き流してもらえればと思います」
「考え事?一体何を・・・?」
南藤は
怪訝そうな顔をして鷲島を見る。その鷲島は至って真剣な表情だった。自然と南藤の顔が強ばる。南藤は鷲島に背を向けて書類の整理を再開する。聞き流すつもりなのか、とりあえずは耳に入れておくだけなのか。その真意は分からないが鷲島はコーヒーを一口飲んで話し始める。
「事件が発生して、犯人を追って、全員に接点がある尼崎という男が出てきて、尼崎が捕まる。この事件の構図は至って単純なものと思ってました。しかし実際は尼崎が捕まっても容疑者として断定されることは無かった。それは接点は佐東にもあったこと、ある捜査資料があったからでした」
鷲島は佐東菜摘に関する捜査資料を机の上に出す。南藤は捜査資料に目を向けず、書類の整理を続けている。鷲島は構わず話し続ける。
「でもおかしいと思いませんか?佐東は尼崎を犯人に仕立てあげようとしていた。でも実際には佐東が犯人である証拠にも等しい捜査資料がいつの間にか警察署内に紛れ込んでいた。佐東は自分の首を自分で絞めたんでしょうか。そこで俺は外部の人間が入れた可能性を考えて署内に共犯がいる可能性を探りました。そしたら元虐待を無くす会の刑事がいましてね。その人が証言しましたよ。ある人物に捜査資料を紛れ込ませて欲しいと頼まれたと」
「それは?」
「南藤さん、あなたです」
南藤の手が止まる。中途半端に持ち上げた手から書類が一枚落ちる。その音で現実に戻されたのかすぐに拾い上げてまた整理を再開する。それでも明らかに何か南藤の中で揺らいでいることは明らかだった。
「・・・私がそれをやる理由は?」
「復讐、でしょうか」
「私が?誰に?」
鷲島は机に出した捜査資料を開き、ある一文を指差す。鴻巣市母親殺人事件と書かれた箇所を見て南藤は特に表情を変えることはなかった。無表情のまま、じっと捜査資料を見つめている。鷲島は軽く息を吐いて話を続ける。
「そこがこの事件の複雑なところです。この事件には何人かの思惑が混ざりあっている。南藤さん、あなたも誰かに指示を受けていた。佐東が尼崎を犯人に仕立てあげようとしたように。あなたが尼崎に指示を出したように。そしてそれは佐東菜摘に対して相当な復讐心を持つ人物。それこそ我が子を殺されたくらいの」
鷲島の言葉に静かに耳を傾ける南藤は、それ以上話すことは無かった。ただ、鷲島の言葉を待っていた。鷲島がこの事件にどんな真実を見出したのか。それをまっすぐ受け止める、そんな意思が感じられた。その意思に応えるように鷲島はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「阿比留岩雄。彼がこの事件を仕組んだ黒幕である。俺はこの答えに辿り着きました」
阿比留岩雄。それはかつて人の肉を食べた食人鬼事件の被害者の父親であり、そして十五年後、娘を殺して食べた犯人に同じ様に殺されて食べられた人物。今回の事件では第三の被害者だった。南藤は馬鹿馬鹿しいといった表情で鷲島の推察を一蹴する。
「阿比留先生が?なぜ?」
「阿比留先生は娘を殺した犯人を憎んでいると言ってました。南藤さん、あなたがね。阿比留先生は驚いたでしょう。かつて娘を殺して食べた孫が自分が教授として勤める大学に学生として入学していたんですから。そしてその大学には尼崎、南藤さんもいた。そこから全てが始まった。阿比留先生による復讐が」
鷲島の言葉を頭の中で反芻させる。鷲島は孫である佐東菜摘に過去の虐待によるトラウマと障害を再発させることで眠っていた食人鬼を甦らせたと思っている。
「どうやって佐東さんを殺人鬼に?」
「過去のトラウマ。彼女は重度の依存性パーソナリティ障害と愛着障害。自分が気に入った人が虐待をしていて、尚且つ自分の元から離れていくと思ったらどうなるでしょう。かつて同じ思いを抱いて母親を殺した。それが甦る。尼崎が被害者達が虐待をしていると嘘を吹聴していたのはその為です」
つまり尼崎は佐東の過去のトラウマを呼び起こし、再び食人鬼として動くように周りにも、そして佐東本人にも虐待をしていると嘘を吹聴していた。彼女が何かのきっかけで再び食人鬼になった出来事は正しく虐待だった。
「阿比留先生の復讐劇がこの事件だと?確かにそれなら話は筋が通りますね。尼崎を犯人に見せかけようとしたのは佐東さん、佐東さんに殺人を犯させて捕まるように仕向けたのは阿比留先生。確かに阿比留先生の復讐心はそこまで強かったのかもしれません。許すことが最大の復讐なら、許さないことは最強の復讐とも言ってました」
南藤は静かに座る。捜査資料を眺めて目を細める。何かを吟味するように見た後そっと捜査資料を閉じる。事件に幕を下ろすように。深くため息を吐くと、南藤は意を決した顔で鷲島を見る。
「南藤さん、なぜ阿比留先生の復讐に協力を?こんな悲惨な事件になるとわかっていたはず・・・南藤さんだって捕まるリスクはあったはずです」
「・・・・・・復讐です」
「え?」
南藤の言葉に鷲島は疑問の言葉を投げかける。阿比留岩雄には娘を殺した孫に対する恨みがあり、尼崎は佐東に近しい人達に対する一方的な恨みがあった。だが南藤に関してはそのどちらにも当てはまらないと思っていたのだが、南藤は一体何に対して復讐心を抱いているのだろうか。その問いに答えるように南藤は話す。
「虐待というものに対する、復讐ですよ。彼女を、阿比留先生を、そして彼らと同じ苦しみを味わせて人生を歪める虐待にね」
南藤の表情が変わる。それは今まで見せていた爽やかな笑顔でも、何かを思うような顔でも、無表情でもなかった。それは怒りに顔を歪ませた表情だった。見たことの無い南藤の表情に鷲島は少し驚くが、無理も無いと思う。虐待を研究していた阿比留の元で共に虐待について研究し、その中で虐待の理不尽さや悲惨さに対して怒りを覚えてもおかしい話ではない。しかも阿比留の娘が虐待をしており、その虐待が原因で殺人事件に発展してしまった事実を知っていれば尚更だろう。そこで虐待をした方に同情するか、された方に同情するかは人それぞれだが南藤はそのどちらにも同じ様に哀れみを感じ、その人達の人生を歪めた虐待に対して怒りを抱いているのだ。南藤は軽く息を吐くとコーヒーで唇を湿らせてから話す。
「これは独り言です。もう一度言います。これは独り言です。なので聞き流してもらっても構いません」
余程大事なことなのか二度言った言葉を頭の中で反芻させる。独り言、今から話すことをどう捉えようとお前次第と言いたいのだろうか。もちろんそのまま聞き流すつもりは無いのでしっかりと南藤の言葉に耳を傾ける。
「阿比留先生から話を聞いたのは最初の事件の一週間前です。阿比留先生は娘を殺した孫が自分が教授として勤務する大学に通っており、実家のある熊谷でカフェを開いている事を知りました。そこで先生はずっと考えていたある計画を実行すると言いました」
「それが孫の佐東菜摘の過去のトラウマを呼び起こし、再び食人鬼として殺人を犯させること・・・・・・まさか」
「虐待を無くす会は佐東さんに再び虐待を身近に感じてもらい、そしてトラウマを呼び起こし易くする為のスイッチです。もっと言えばその為だけに作られた」
鷲島の言葉が届いているのかいないのか、妙に噛み合わない不思議な会話を続ける。南藤は本当に一人で話しているようだ。
「でも、私には復讐なんてどうでもよかった。私が先生の計画を聞いて考えたのは、虐待という問題を世間に広く、そして深く知ってもらうこと。その為にインパクトは必要でしたが、食人鬼という大きなインパクトもあってかなり世間に虐待という問題は深く認知されました」
「あなたはあなたで計画を利用した。尼崎を使って佐東の逮捕を遅らせたのもなるべく事件が長引いて虐待という問題をより印象付けるため。しかし最後の行動はあなたのその意思に反するものだった。急に気が変わったか、もしくはそうせざるを得ない何かに迫られたか」
鷲島の指摘に南藤は一瞬黙る。鷲島はその隙をついて畳み掛けるように話す。
「阿比留先生はあなたの思惑に気が付いたんじゃないんですか?事件を変な方向に曲げられてしまっては困る阿比留先生は大きな手に出た。自分を慕っていた南藤さんが自分が殺されればその意志を継ぐことを迫られると。佐東菜摘に関する捜査資料を作り、それを警察に送るように手配してわざと佐東に殺されるように動いた。捜査資料に関しては、阿比留先生は虐待被害の研究から警察に関わることも多かったと聞きますから何度も見たことはあるでしょう」
「自分が殺されるように仕向ける?いくら復讐の為とはいえど、そこまでの勇気は無いでしょうし、何よりそんな事をしたら復讐は未遂に終わるかもしれない」
初めて鷲島の言葉に反論を投げかけた。今まで独り言を貫き通していたが、焦りからか鷲島のことばを否定する様に話す。
「阿比留先生は末期の癌だった。調べはついてますし、何よりあなたがそう言ったんです。短い命を自分の計画の為に有効活用した。言い方は冷たいですがそういう事でしょう」
そう言いながらも、確かに自分が死んでしまえば復讐を最後まで完遂することは出来ない可能性は高かったはずであり、計画を最後まで見届けることもできないはずだった。いくら自分を慕っていた南藤がいたとしても自分が殺されてもその意志を継いでくれるとは限らないし、何より南藤はある意味阿比留の計画の邪魔をしていた。そんな南藤を信じていたのか、それとも自信があったのかは分からないが実際に自分を佐東に殺させ、佐東を連続殺人犯として捕まえるに至った。だが計画を最後まで見届けることはできない。
『もしかしたら、この事件を起こした時点で佐東の未来を見据えていた・・・?例え最後まで見届けなくても、万が一逮捕にならなくても確実に佐東を陥れるような何かがあったのか?』
心の中で誰に向けたものでもない疑問を投げかける。いくら末期の癌でも自分の命までも計画に組み込むところを考えると、佐東に対する復讐心は想像以上だったのかもしれない。人がその身の内に抱える思いは時に想像を超える。どうしてこんな事ができるのか、と思う事もあるが本人にとってはそれくらい普通なのだろう。それ以上に突き動かす復讐心が強かったのだ。
「何にしろ阿比留先生は佐東を殺人犯として逮捕させる復讐を完遂し、あなたも虐待を世間に広く深く知らしめることに成功した。だから・・・」
「あぁ、これ独り言ですので。全部想像ですよ」
鷲島の言葉が止まる。南藤はいつも通りの、しかしいつも以上に胡散臭い爽やかな笑顔で告げる。鷲島は何を言っているのか理解できなかったが、数秒かけて南藤の自白は全て妄想だと言っていることを理解した。
「あんた、何言って・・・」
「だから言っているでしょう?私は阿比留先生の復讐とか知りませんし、事件を利用したとかしてません。それとも・・・・・・何か証拠でも?少なくとも私が事件を利用したという証拠」
「つまり、あんたは自分は何も関係ないし何も知らないと・・・そんなのが罷り通るとでも?」
それを聞いても南藤は笑顔を絶やさずに鷲島の言葉に耳を傾ける。そしてゆっくり話す。
「だとしても、何か罪に問えますか?私を」
「・・・確かに、罪には問えないでしょうね。あなたが事件を利用しなくても虐待という問題は世間に根付く」
それを聞いた南藤はコーヒーを飲み干すと、積み重なっていた最後の書類をダンボールに詰め、ガムテープで閉じる。ダンボールを隅にやるとさて、と言いながら鷲島のコーヒーコップを流し台にさげる。もう帰れと言っているようだった。鷲島はその意図を読み取りソファを立つ。南藤に背を向けて扉に向かう。扉のドアノブに手をかけたところで鷲島は南藤に言葉を投げかける。
「必ず、証拠は掴みます。この事件の真実を明らかにしてあなたにもその責任を知ってもらいます」
南藤はゆっくり鷲島に向き直ると、いつも以上の満面の笑みで頷く。鷲島には嘘に濡れた仮面を被っているようにしか見えなかった。
「ご検討をお祈りしています」
鷲島は扉を閉める。部屋を後にして廊下を歩いていると鷲島の足音だけが廊下に響く。まるで世界に自分一人だけがいる感覚だった。自分一人だけが悪い夢を見ているような、目覚めた時内容はよく覚えていないがとても後味の悪い目覚めのような、そんな感覚。この事件はただの頭のおかしい人間が起こした猟奇殺人事件である、と世間が認知し鷲島の考える真実は闇に葬られる。それを示す証拠もない。やり場のない悔しさを胸に公民館の玄関に向かうと、外に佐々川が立っていた。鷲島は佐々川に会釈をして通り過ぎようとすると、佐々川は鷲島の肩を掴んで止める。
「鷲島、お前・・・」
「諦めません。きっと掴んでみせますよ。この事件の真実の証拠を。絶対に明らかにしてみせます」
「・・・・・・そうだな」
鷲島は佐々川と共に車に乗り込み、警察署に戻る。これでこの事件は終わる。もう捜査はされないだろう。だが自分だけでも動く。そんな意志を込めて拳をハンドルに叩きつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます