第7話 二日目 1-1


 復讐者は動きだした。

 復讐者は自室を抜け出し、彼の部屋へと訪ねた。

 そう、これからだ。

 これからが、復讐という名のショーの始まりなのだ。


* * *


 二日目。

 ミシェルは重たい瞼を開けたあと、上体を起こしたあとで大きく背伸びをした。それと同時にあくびをし、瞬きを何度も繰り返した。多少、彼女の瞳が濡れている。あくびのためだろう。

 ミシェルは空っぽの頭でベッドから離れ、まず顔を洗い、歯をみがいた。その途中で自室にある掛け時計を見たのだが、午前六時半に起きたようだった。

 いつも通りねとミシェルは心中でつぶやいた。ボーンズ一族は代々、寝坊癖があるらしいのだ。とはいえミシェルは嫁いできたため、そんな癖は一切ないのだが。

「さて」

 ミシェルの部屋は一人用のものである。ジョセフ、ジョン、ミシェルの三人は別々の部屋を利用しているのだ。彼らは単純にプライベートな空間を好んでいるのでそうしたまでである。

 彼女は化粧台で自身の化粧を済ませる。はたから見れば厚化粧ともいえるが、彼女にとってはいつも通りの自分なので気にしたことはない。だがもし彼女の見せかけの、いわば?偽りに満ちた艶肌を「厚いな」と一言発してしまった場合、その先の結末は予想通りのものとなるだろう。

 彼女は化粧台から離れ、服を選んだ。選んだ服を身にまとったあとで、彼女は部屋をあとにし、寝坊癖のあるジョンとジョセフを起こしにいっていた。まずはジョセフを起こしに行こう。

「ジョセフ、起きなさい」

 ミシェルは彼の部屋の扉を中指の第二関節でノックするが、いびきも、慌てて起きるような気配も、何も感じられない。

 ミシェルはそのノックを二、三回繰り返したあとで眉をひそめる。おかしい。寝坊とはいえ、大きなノック音でもあればジョセフは起きられる。今まではそうだった。例外はない。

「もう起きてるのかしら」とミシェルは廊下の奥にあるロビーに目をやる。そこに人の気配はなさそうだ。

 唸るような声を出して、ミシェルは仕方なく扉の真ん中より上にある点に視線を集中させる。ドアスコープである。そこから部屋を覗けるのだ。

 そこと眼球の距離を縮める。そして──彼女はわずかな沈黙のあとに、叫んだ。


* * *


「ひどい」

 ミシェル・ボーンズの叫び声を耳にして最初に駆けつけたのはアンドレイだ。彼はミシェルと同じ時間に起床し、もう部屋を出たところで叫び声を聞いたのだ。それが、三十分前の話となる。

 ジョセフの部屋には鍵がかかっていたため、アンドレイはすぐにマスターキーを自室から持ってきて、彼の部屋を開けた。そこにあったのは彼女がドアスコープから見た惨憺さんたんたる光景と同じものであった。

 ベッドの上で彼女の息子は寝ていた。まるで悪夢を見たかのように、恐怖と怯えと「死」の色が彼の顔にはあった。腕をだらしなく広げて、片方はベッドから垂らしている。眉を上げ、目を見開かせている。その瞳には当然光などない。

 ジョセフの首は裂かれ、そこから赤い肉が見えている。首からは血があふれ出たようで、その血の色彩は赤というよりも黒に近かった。

 そして──彼の胸に刺さってあるナイフ。あれが間違いなく凶器であるのだが、その様が墓標のようだ。

 あとからやってきたのはジョン、続いてルウリィ・ブラウンと谷崎悠実である。悠実曰く、神田がいないのは「あの人、なかなか起きてくれないので」とのこと。

 すぐに悠実は「警察に電話をしましょう」と言って携帯を出したが、アンドレイから「無理だよ。圏外なんだ」と言われ、携帯の操作をやめた。

 その場にいる全員の唇と指先が硬直しているのが、悠実には敏感に感じられた。

 ジョセフは部屋で死を遂げていた。死因は首を裂かれたことによる多量出血。墓標に彼の胸に刺さってある凶器。

 そしてなにより、これが密室での殺人であること。もちろん部屋の鍵は閉まっていたし、窓もしっかりと施錠されている。窓ガラスが割られていることもない。完全密室だ。

「とりあえず、ここにいるのもなんですから大食堂へ行きましょう」と提案したのはアンドレイである。笑いながらだ。しかし、彼の足は小刻みに震えている。その笑いも苦笑いだ。彼も怖いのだ。恐怖の底に落とされているのだ。それは彼だけではない。息子を何者かに殺されたミシェル、ジョン。突然の殺人事件に巻き込まれたルウリィと悠実。

 彼らは心臓が痺れるほどの恐怖を感じながら殺人現場をあとにした。カーペットの気持ちの良い踏み心地も今となってはもう何の感慨も思い浮かばない。それに興味が向かない。仮にもし、そんな些細なことに興味を持つことができたならばどれだけよかっただろう。現実逃避という世界に逃げ込むことができたならば、どれだけ──。

 ロビーの天井にあるシャンデリアにさえも恐怖を抱いた。こんなにも死というものは身近にあるのかと彼らはその目を通して感じたからだ。もし、そのシャンデリアが落ちてきたら。それで自分たちが潰れたら。する必要のない妄想が頭のなかに広がる。疑心暗鬼になってしまう。

 そう、彼らのなかにいるのだ。殺人犯が。密室殺人をやり遂げた者が。

 そんなことを思いながら彼らは大食堂の扉の前までやってきた。アンドレイがその両扉を開ける。ずっしりと構えているこの扉の重量感がもどかしく思えてきた。

 開かれた扉を通って大食堂のなかへ入っていく。大食堂の真ん中にある縦長のテーブルにばらばらのタイミングで座っていく。

 悠実、ルウリィ、アンドレイが隣り合うように座る。その反対側にはジョン、ミシェルの順番で座っていた。

「まず、そうだね。昨日の夜、なにを──」とアンドレイが話を切り出したところで、閉めたはずの扉が開かれる音が彼らの耳に届いた。「ったく、頭いてえ。水、水、水はと。って、おい。お前ら何やってんだ、こんな朝っぱらから。朝飯ってわけじゃなさそうだしよ」

「えっ」と悠実は扉のほうへ腰をひねらせ、目をやる。「神田所長!?」

「おい悠実。朝からそんなでけえ声出すんじゃねえよ。こちとら二日酔いで頭痛いんだからよ」

「えっ、ああ、すいません」と言ったあとで悠実はなんで僕が謝ってるんだと疑念が胸のなかでうずまいた。

「で。結局なんなんだよ、この集まりは」

 神田は浅い息を吐いたあとで、疑わしそうに目を細めて悠実たちを見てきた。

「い、いえ。その」いきなり人が殺された、なんて言ってもいいのだろうか。とはいえ彼は探偵であるし、一番に言うべきなのだろうか。いやだめだ。彼は探偵だ。それはたしかなことではあるのだが、今まで殺人事件を解決したことなんて一回もない。

「人が、殺されたんです」そう口にしたのはむろん悠実ではない。隣にいる女性──ルウリィだ。神田をじっと見つめて、彼女は悠実が言おうかどうか迷っていたことを、さらりと結っていた髪をほどくかのように言ったのだ。

「……」さすがの神田龍之介も黙るよなあと悠実は頭を掻いた。それから彼は口を閉ざしたまま、厨房のほうへ行った。しばらく待つと無表情のままで神田は悠実の左隣に座ってきた。

「な、なんですか」と悠実が訊くと、「どんな状況だったんだ」と訊ねてきた。それはつまり──神田も素直に協力してくれるということだろうか? 悠実は少しうれしくなって、さらっと神田に事件のことを説明した。

「ふうん」と神田は顎を指でさすったあと、席を立ち、大食堂の扉の前に立って「じゃあな」と背中を向けつつ悠実に手を振りながら言った。

「え、えっ?」つい戸惑ってしまい席を立つ。「神田さん、どこに行くんですかっ」と悠実は叫んだが、もうそのときにはもう神田はこの大食堂から出ていってしまった。

 いったいなんなんだ、あの人。

 悠実はむっとした表情のまま再び席に座る。もうかれこれ一年くらいはあの人と仕事をしてきているけれど、やはりあの人の行動は悠実のような常人にはとうてい分かり切れない。理解できる領域ではない。できるのはそれこそ天才か、あるいは相当の馬鹿か。

「すみません、うちの上司が……」と悠実は頭を下げた。「いえ、大丈夫ですよ」と微笑みながら答えてくれたのはアンドレイだった。この優しさこそが悠実の胸に刺さる。血がどばっと出そうだ。

 それじゃ仕切りなおして、とアンドレイはつぶやく。悠実はもう彼の話を聞く態勢に入っていた。

「ジョセフ様のお部屋から出たあと、何をしていましたか?」

「私は部屋で寝ていたわよ」そう答えたのはミシェんだった。

「……俺も、部屋で休んでいた」息子が死んだことが原因なのだと思うが、消え入りそうな声でジョンは答えた。

「わたしは少し大食堂に寄ってから自室へ」と答えたのはルウリィだった。「お酒でけっこう酔っちゃって。それで水を飲みに」と理由を話した。しかしミシェルは目を細め、鋭い眼光をルウリィに向けた。

「なら、あなたではなくて?」

「え、いえ、そんな」そんなことはない、と彼女は否定した。

「私たちが自室で就寝しているとき、あなたはまっすぐ自室へ行かなかった。大食堂へ行くと思わせて、ジョセフの部屋へ向かったんじゃなくて? ふん、自ら犯人だと主張しているに過ぎないじゃない」

「それは違いますよ」と言ったのはアンドレイだった。「ぼくも彼女と一緒に大食堂へ行ったんです。そして彼女は水を飲んで、僕と同じタイミングで大食堂から出ました。彼女の部屋は二階の東館にあるんですけど、彼女が階段を上がって東館へ向かうのを見ましたよ」

 う、と片眉を下げてミシェルは諦めた。それからちょっとの間があったあと、みんなは悠実のほうを視線を集めた。どうやら自分の出番らしい。

「僕は神田さん──さっきの上司にカラオケ大会に付き合わされて、結局寝たのが三時ぐらいです」

 少しずつ声のボリュームが小さくなっていくのを感じた。羞恥心というものが彼の頭を占領していく。

「ああ、たしかに聞こえたね。リュウノスケの歌声が」アンドレイはにこやかに答えた。そのあと隣にいるルウリィも悠実を見て、くすくすと笑いながら「そういえば。かなり大きな声でしたもんね」

「はは……」

 悠実はつい苦笑いをしてしまう。むしろここは苦笑い以外選択肢はないと思ったほうがいいのかもしれない。

 前を向くとミシェルが先程と同じような目つきで悠実を見つめてくる。だが悠実と目があったあとで目線を逸らし、ふうとため息をついた。いったいなんなんだったのだろう。

 とりあえず整理をすると、ジョンとミシェルはまっすぐ部屋へ向かって就寝した。加えてミシェルとアンドレイは大食堂へ寄ってから自室へ。そして悠実はまっすぐ自室へ向かったものの神田さんにカラオケ大会に付き合わされる。

 不本意ではあるが、あのカラオケ大会がアリバイの証明となったので結果としては良かった。

「それでは、早速なんだけど──犯人に心当たりのある人はいますか?」

 アンドレイは一度全員を見回してから言った。

「いいえ」悠実は首を横にふった。それに続くようにルウリィ、ミシェルは否定する。しかし、ジョンだけは首をふらなかった。だが彼はショックを受けている。そのため首をふるどころか、話を聞く余裕も実際はないのかもしれない。

「ふむ」机上にひじを置いて、顔の前で手を組んでからアンドレイは頷いた。「ジョンさんももう限界でしょうし、少し休みましょうか」

「そうですね」とルウリィは頷く。ミシェルも否定はしないようで、ずっと黙っていた。

「ところでタニザキさん、リュウノスケを連れてきてくれませんか?」

「ええ、いいですよ」

 悠実は席を立ち、大食堂を一度あとにした。それから大階段を上り、西館の廊下を歩いていった。そして悠実と神田の部屋の扉を見つけて、悠実はそれを開ける。しかし部屋のなかに彼はいなかった。どうせ部屋で寝ているのだろうと思って来たのだが、そうでもなかったらしい。

 おかしいなあと悠実は頬を指で掻く。どこに行ったんだろうと悠実は辺りを見渡すが、神田の姿がこの視界に映ることはなかった。とりあえず探しに行こうと心に決め、悠実は廊下を歩き、ロビーに再びやってきた。それから大階段を降りようとすると、下から声をかけられた。

「あんた、何してんの」その声はルウリィだったが、口調に違和感を感じた。

「えっと、上司を探しに自室へ行ったんですがいなくて。見かけませんでしたか?」

「いいや」見てないかな、と彼女は答える。悠実はそうですかとため息交じりにつぶやき、とりあえず階段を降りた。「ちょっと時間かかりますってアンドレイさんに伝えてくれませんか?」そう悠実が言うと、一瞬彼女は無言になり、悠実がもう一度その言葉を言おうとしたとき「わかった」と抑揚のない声でルウリィは答えた。

 は彼女に背中を向けて、一階の西館へ入った。

 実のところルウリィは少しサバサバした性格らしい。ということは普段の彼女は猫を被っている、ということなのだろうか。まあでも、あれはあれで悪くはないな。悠実はそう思ったあとで後悔した。

「何を考えてんだろ……」

 悠実はジョセフの部屋──つまりは殺人現場に向かっていたのだ。もしかしたら神田はここにいるのかもしれない。

 悠実は一応扉をノックしてから、神田所長と名を呼んだ。返事はなかった。いないのだろうか。彼はもう一度その動作を繰り返した。それでも返事はない。じゃあ違うところへと悠実のつま先がロビーに向きかけていたとき、「入っていいぞ」という声が聞こえた。間違いない。神田のものだ。

 悠実は扉を開けて、その中へ入った。神田は右手に白いハンカチを持った状態で、窓の向こうの景色を見ていた。

 悠実はなるべくベッドのほうに目を向けないように神田のほうへ視線を固定し、彼に近づいた。

「神田所長、何をしているんですか?」悠実は神田の真後ろで首を傾げつつ訊ねた。するとしばらくの間があいたあとで「雪だ」と彼は答えた。

「雪?」悠実は少し横にずれて、窓を見れるようにする。その向こうには激しく雪が舞っていた。吹雪だ。「そんな。これじゃ帰れないじゃないですか」

「それと、ここだ」神田は窓から一歩下がって、悠実もそれに合わせて下がる。そして神田の指差すところに視線を移した。「あれ、これは」窓の手前が少し濡れている。なんで濡れているんだ?

「神田所長、これっていったいなんなんですか」

「まだわからない。──さあて、それで悠実。俺になにか用があるんだろ? さっさと言ってくれ。漏れそうでたまらないんだ」

「あっ、ええ。アンドレイさんが神田所長を呼んでるんです」

「ええ、面倒くせえ」

「そんなこと言わないでください。ほら、行きますよ」

「はあ。ったく、仕方ねえな。本当に仕方ねえな。今回だけだ。安楽椅子探偵派なんだが、仕方ねえ」

 仕方ねえというのは神田の口癖である。一年前、この事務所で働かせてもらうことになったときも、「ったく、仕方ねえな。本当に仕方ねえ。ここで働かせてやるよ」と腕を組んで偉そうに悠実に言った。そのとき悠実は、この人はなんだか偉そうで嫌いだと嫌悪していた。今となってはそれは良い想い出……なのだろうか。そこはどうも疑わしい。

 悠実と神田は現場をあとにする。若干の異臭が漂い始めたあの部屋にはもう近寄りたくない。次にまた来てしまえばきっと悠実は喉にまでせり上がってきたものを口からこぼしてしまうだろう。

 神田が悠実の前に出て、ズボンのポケットに手を入れて左右に体を揺らしながら歩いている。

 殺人事件が起きた、というのになぜこんなにも平然としていられるのだろう。悠実には不思議でたまらない。

 そんなことを思いながら歩いていると、ロビーにまで戻ってきていた。。

 もちろんのこと、ルウリィはそこに立っていなかった。先程の彼女のことを思い出す。嫌悪とも何とも判別できないクールな口調。目を細めながら悠実を見つめてきた、薄い光を灯らせた瞳。いったいなんだったのだろう。

「おい、置いてくぞ」

 不意に声をかけられる。悠実はロビーのシャンデリアの真下で足を止めた。

「あ、すいません」

 悠実は慌てて小走りになって、神田のもとまで行く。

 まあいいか、と彼は先程の彼女について考えるのをやめることにした。

 

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人狼館と酒豪探偵 静沢清司 @horikiri2

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