第5話 春はまだ青くない

 散り紛う春の香りが、頬を掠めていった。

 センパイのブレザーを纏った肩の向こう、ラムネ瓶を透かしたような、雲一つなく晴れ上がった空を背景に、花びらがとめどなく流れている。

 顔を背けると、センパイの色素の薄い唇が頬を掠めていった。

 キスを逃れたわたしは抱かれる。その白桃のようなうなじを指で確かめて、わたしはひとしきり満足する。その温もりに名残惜しさを感じつつ、センパイの両肩を強く押して離れた。それは拒絶の意思表示。焦点距離を超えて輪郭がシャープになってゆく瀬戸センパイの顔には戸惑いが滲んでいた。

「わたしは約束を果たしました。センパイを普門館に連れて行きました。だから、あの日のつづきをしましょう。それはここじゃないはずです」

 黒い瞳が揺れていた。

「行きましょう。音楽準備室へ」


 約束の場所へ向かう瀬戸センパイとわたしの間に、交わす言葉はなかった。

 旧校舎を抜け、渡り廊下を通り、南校舎の最果て、第一音楽室へたどり着く。センパイの来客用スリッパがリノリウムの床を弾く、パタパタという音が無人の廊下に響いた。第一音楽室を過ぎて、音楽準備室に入った。

 空いた窓から入ってくる風に、カーテンがたゆたえば、机の上を太陽が照らしては陰らせる、その繰り返し。

 あの日からずっと考えてきた、青春の約束のつづき、その終わらせ方について。

「これが、あの約束のつづきです」

 センパイの願いを叶えた私が、それと引き換えに貰うもの。机の上に広げたクラリネットを手に振り向くと、部屋に足を踏み入れることを躊躇ためらっていたセンパイが、廊下と音楽準備室の境、ドアの扉にもたれていた。

 これは、あの日の普門館を、褪せた青春の思い出として、センパイの記憶に刻むことをいさぎよしとしなかった、わたしの決断。

「瀬戸センパイはわたしの想いを振って、このクラリネットを持って大学の吹奏楽団に入るんです。去り際に言うんです。『普門館で、また会いましょう』って。そうしたらわたしはもう一度、普門館に立つんです。そこでわたしとセンパイは劇的な再開を果たすんです。きっと、夏に、必ず」

 俯いて前髪に陰った瀬戸センパイの顔は、今にも泣きそうに歪んでいた。

「もう、やめよう、やめてくれ。あれは、青春の勘違いだったんだ。ミカにまで同じ重荷を背負わせたくない」

 センパイはずるい。ずるい、わたしに言わせるのだから。

 気まぐれに校庭を躍っていた桜色の風が、音楽準備室のカーテンをはためかせては廊下へ駆け抜けていった。わたしのほどいた黒髪をもてあそんでは、センパイの体を包んでゆく風。廊下と教室の狭間でうつむいてたセンパイの顔を、その風が抱き起こす。センパイのスカートをひるがえしては逃げていく一陣に、わたしは背中を押された。

「センパイは、『青春』という言葉の意味を知っていますか? 

 青春とは、人生の春に例えられる期間のこと。希望をもち、理想にあこがれ、異性を求めはじめる時期のこと。現国の授業でそう習いました。

 わたしの希望も、わたしの理想もセンパイでした。けど、青春は異性限定だそうです。だからセンパイとわたしの春はまだ青くない。そうでしょう?」

 人より凛とした核を持つ黒目があわく揺れた瞳に照らされたわたしは、瀬戸センパイの華奢な、まだ女の子の白い指に、クラリネットを絡ませて言った。

「大学で青春を見つけて下さい」


     了

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まだ春は青いか 三木修作 @mikishusaku

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