第4話 答え合わせ
進路指導室の帰り、渡り廊下の窓の向こう、雨粒のモザイク越しに見えた校庭には、水溜りが海を成していた。
このところずっと東海地方に長居している
激しくなった雨脚から逃れるべく、仕方なく図書室へ向かった。そこで熱心に問題集へ向かう、おさげ頭を見つけた。
「なんで福山がここで勉強しているのさ」
ペン先を止めることもなく、振り向くこともなかった。ノートに顔を
「受験するからよ」
「はぁ? 推薦は選り取り見取りだろ。教師に何か言われたか」
トロンボーンを抱かない彼女の背中を見るのは新鮮だった。椅子を引いてその隣に腰を下ろす。
「ありがとう。けど、行きたい大学があるの」
この部屋は古い本から香り立つ、懐かしい匂いがした。もはや記憶の断片しか残らない色褪せた青春に、香り付けすれば、きっとこんな匂いになるのだろう。私にとってそれは、卒業式のレナ先輩との思い出の中にあった。引退してから暇ができても、図書室に寄り付かなかったのは、この匂いが原因だろうと今更ながらに思った。
それを知ってか知らずか、私から逃れるように彼女は
「どこの大学だよ」
「K女子大」
すぐに耐えられなくなって、机から離れて、アルミサッシに手を伸ばす。クレセント鍵に指をかけて回す。雨が入らないように少しだけスライドさせて、鼻を近づけた。秋の
「あそこって、吹奏楽強かったっけ?」
「さぁ? 知らないわ」
全く心の籠っていない言葉が鼓膜を震わせる。いつも通りの返し。こいつの、変に醒めているところがありがたい。あの日から数日、他の部員とは、誰ともまともに顔を合わせていなかった。廊下ですれ違っては、縋ってくる同級生の、後輩の、怒りの、戸惑いの、哀れみの、気遣いの、引き留めの視線——そのすべてにうんざりしていた。一切を無視して、恐らくは、このまま卒業する。
「なんで? もう、吹奏楽はやらないのか」
校庭の一辺を占領する逞しい桜の木々が、激しい風雨に曝されて揺れていた。雨に打たれては頭を下げ、風に吹かれては舞い上がる。不規則に踊る彼らのダンスは、音楽に依らない自然のもの。こんな時ですら勝手に五棒線に考えが及んだ自分の癖に、無性に苛立った。
「そうね、もう楽器はやめようと思っているの」
窓の下に置かれた書棚に登って、その上に腰を下ろした。背中を窓ガラスに預けて、地面に届かない脚を、前に伸ばす。踵のつぶれた上履きが、つま先に引っ掛かっていた。
彼女の意思を覗こうと、その横顔を見下ろしても、問題集に向かう手は緩まず、その面持ちは無表情と真剣の狭間にあった。
「……そっか」
意思を読み取られるのを避けているのだろうと、その硬い表情から察して、諦めた。両足がまるで二本の真っ直ぐな横笛となるように、バレリーナのごとく地面と並行に伸ばした。右足の上履きが、割と際どい位置に居る。
「とめないの?」
福山の横顔を覗き込んでいたことに、疾うに気づいていただろうに、一向に振り向きすらしない彼女。この時点で、もう手遅れな決意が、そこに宿っていることに気づいていた。かろうじて引っ掛かっていた上履きが、ついには滑り落ちて、リノリウムの床を鳴らした。
「その資格がないからな。止めて欲しければ止めるが?」
書棚から飛び降りて、転がった上履きをつま先で拾う。
いつもの福山なら行儀が悪いと言って甲斐甲斐しく
第一音楽室で合奏練習するとき、自分の楽器が奏でた音を確かめるために床に毛布を引くのが、私たちの習慣だった。毛布の上は土足が厳禁で、教室に入るときには上履きを脱ぐ。だから熱心な部員は、すぐに上履きの踵に癖がついてしまう。
テーブルの下に伸びた形の良い
「そう。本心でないなら、別にいいかな。ただ、私には引き留めてくれる人なんて、けっきょく現れないんだなと思って」
その言葉を最後に、しばらく無言が続いた。
沈黙が支配する図書室の存在意義を、このとき初めて理解した。今の心理を表す適切な語彙を必死に探した。私が勝手知ったるあの教室は、いつも互いの声が聞こえなくなるほどに、うるさかった。あの喧騒が今は懐かしい。この静けさが罪となる前に、彼女を救いたかったのだ。
「……ただ」
「ただ?」
彼女の左手がノートに零れた髪の束を、耳に掛け直させていた。
そう言えば昔、修学旅行先のディズニーランドで、どうしても、と珍しくせがまれて選んだヘアピンは、もう、彼女の前髪から外されている。こうした変化の積み重ねに、私は怯えたのだ。それを言葉にする。
「これから福山は、高校の誰も知らない福山になるんだろうな、と思ってさ」
彼女のシャーペンは数字を刻んで走り続ける。留まることを知らないかのように。
「何それ」
呆れたというように首を振って、答え合わせを始めた彼女は、更にペンを持ち替えてノートにレ点を付けていく。その赤ペンの動きに、抗うように言った。
「私はトロンボーンを抱いている福山しか知らなかったから。図書室に来て問題集に向かう姿を見て、知らない一面を見た気がした。たぶんそういうものが幾つも重なって、全然知らない福山になっていくんだろうな、と思ってさ」
「それはみんなそういうものでしょう」
「でも、トロンボーンを持てば、お前は私の知る福山だよ。未来の、いつでも、どこでも」
彼女のペン先が初めて止まった。問題集に埋めていた顔を起こして、正面の虚空を見つめる。真っ直ぐな瞳、その視線の先にはきっと、彼女が思い描いたものがあるのだろう。夢とか、希望とか、将来とか。
ただ、そこにはもう、部長である私の姿は映ってはいなかった。
「あなたのそういうところが昔から嫌いだったのよ」
呟くと彼女は何事もなかったように、中断した答え合わせに戻っていった。
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