第3話 それはなんて独り善がりな

「髪を切れ」

 怒涛の練習の合間、瀬戸センパイに度々言われた。わたしは高校に入ったら髪を伸ばそうと決めていたので、ワリとショックだった。

「昔いた、思い出したくない奴に似ているんだ」

 理由を訊けばそんなことを言う。瀬戸センパイに苦手な人がいることが意外で、どんな人ですか、と問えば。言いたくない、と決まって濁された。髪を降ろさず、ハーフアップにしたら何も言わなくなった。


 竹を割ったような性格の瀬戸センパイにすら苦手な人がいるように、わたしにも苦手な人がいた。

 瀬戸センパイにいつも寄り添う影——福山副部長。

 長年連れ添った夫婦のように互いに信頼しあっていて、間に入れない雰囲気があった。わたしにとって何よりも辛いのは、彼女が善人であることだった。憎めるような性格の悪人であるのならば、どれほどわたしは救われたろうか。

 福山センパイは吹奏楽部の聖母マリアなのだ。困っている人、その誰に対しても手を差し伸べ、優しく接することができる人。それでいて間違いは、例え相手が瀬戸センパイだろうと、厳しく指摘できる人。わたしも幾度となく福山センパイに救われてきた。

 吹奏楽部が集団競技である以上、瀬戸センパイの掲げる実力主義には必ず亀裂が生じる。それを影で埋め、絶妙なバランスで人間関係を成立させてきた立役者が福山センパイだ。瀬戸センパイと福山センパイは、時に二鶴の親子のように、時につがいの鳩のように、二人を中心にこの吹奏楽部は成り立っていた。

 そんな福山センパイの何が苦手なのかと問われれば、即答できた。

 福山センパイが時折、瀬戸センパイに向ける視線が、わたしは苦手だったのだ。

 嫉妬でもなく、羨望でもなく、無論、わたしが瀬戸センパイに向ける恋でもない。その瞳に宿るモノを形容する言葉を、わたしはまだ知らない。けれど、その視線に含むモノがわたしの行く末のように思えてならなかった。わたしの未来がそこに在った気がして、怖かったのだ。

 そして福山センパイすらもわたしのライバルの内の一人に過ぎない。

 瀬戸センパイと同じクラリネットパートの、柳川センパイと水城センパイ。

 柳川センパイはスラリとしたスタイルと、耳にかかるくらいで切り揃えたショートヘアが目を引く、背も鼻も高く顔形が整っていて、スカートよりパンツルックが、楽器より陸上トラックが似合う、そんなスタイルのセンパイだった。男性的な外見に反して甘い、クラシカルで柔らかくておっとりとした音を奏でるのだから、そのギャップに堕ちる吹奏楽部員は少なくない。

 その一方で水城センパイは、吹奏楽部切っての美人だった。切れ長の目で、お高く留まった、とっつきにくそうな印象とは裏腹に、気さくで、空気を読んでフォローができる部のバランサー。どちらも瀬戸センパイと同じクラリネットパートだけあって、二人とも合わせが異様に上手い。この三人のアンサンブルはいつも崩れることがなく、もはや互いの息遣い、心音まで理解している、そんなレベルの音だった。

 それだけでない。瀬戸センパイは、同級生だけでなく後輩からも絶大な信頼を誇って、慕われていた。

 それはもはや信仰と言っていい。瀬戸センパイのキャラクターより、本人の内なる魅力がそうさせるのだろう。口は悪いし、暴力的だし、手癖は最悪で、不良だけど、何よりも音楽を愛していて、ひたむきで、誰よりも努力している。いつも朝一番に来て、放課後は最後の一人になるまで残る。普門館にもう一度立つ、捧げる情熱に、部の誰もがカッコいいと憧れていた。


 鏑矢高校吹奏楽部は、再び普門館に立てるか、割と微妙なラインに居た。

 シード権があるとはいえ、県大会、支部大会がある。予選含めれば全国で三千校ほど参加し、普門館に立てるのはたった二十九校、一パーセント以下。普門館は、吹奏楽の甲子園と呼ばれるほどには残酷な世界。しかも鏑矢うちは実力者のほとんどが卒業してしまい、二年の層が薄かった。新入生に、わたしも含めてちらほら経験者が居るのがせめてもの救いだろうか。

 部長は毎年恒例の野球部の応援合唱を全て断った。強制不参加した。吹奏楽部三年、全員分の退部届けを手に校長のもとへ行って交渉したらしい。福山副部長がさらりと明かした、武勇伝の一つだった。

 真夏の猛特訓の末、わたしたちは十月末の普門館まで駆け抜けていった。途中、幾度となく事件と呼べる問題があったが、全て部長と福山センパイ、それで解決しなければ、柳川センパイと水城センパイも手伝って解決していった。

 支部大会は結果として金賞、奇跡的に全国へ駒を進めることができた。普門館へようやくわたしたちは立てるのだと、歓喜に酔いしれた。あとは悔いのないように演奏するだけだった。全日本吹奏楽コンクールは金銀銅で選ばれる。昨年は銀賞だった。

 大会の前日の放課後、楽器のトラックへの積み込みが終わって解散したあと、わたしだけひとり、福山センパイに呼び出された。指定された場所は音楽準備室だった。

 その日は部活の練習もなかった。各々自主練するように、とだけ部長から言われていた。センパイにとっては最後の大舞台、泣いても笑ってもこれで最後だから、やれることをやろう、というムードが流れていた。

 音楽準備室に入るときは、放課後の瀬戸センパイとの秘め事を思い出して体の芯が熱くなる。特に放課後の夕暮れ時はいつもそうだ。

 先輩を普門館へ連れてゆくという約束を叶えたわたしは、あの放課後のつづきがどうなるかをずっと考えていた。


     ◇


 音楽準備室に向かう廊下には、壁に背中を預ける人影があった。切れ長の目を細く窄ませて、窓の向こうの風景をぼぅと眺めていた。その優雅な物腰も合間って、まるで映画のワンシーンのようだった。

「お疲れ様です。水城センパイ」

 声を掛けると、はっと、わたしに気付いて、廊下ここにわたしが居ることに驚いたようだった。

「お疲れ様。ミカちゃんも呼ばれたの?」

「はい、なんの用でしょう。水城センパイは何か、聞きました?」

 探るように質問に質問で答えると。水城センパイはいつもの柔らかい表情に戻って言った。

「わたしはフクちゃんと少し懐かしい話をしたけど。ミカちゃんは本番への心構えじゃないかしら。橋立は期待されてるし、一年でパートリーダーはあなただけでしょう? プレッシャーがないか心配していたから」

 首を振って応える。

「わたしは大丈夫ですよ。コンクールは小さい頃から何度も経験してますし、今更ビビるほどでもないです」

「頼もしいね。ま、本番はほどほどに頑張りましょう。じゃ、わたし先に帰るね」

 普段の水城センパイが見せることのない、あの横顔が気なった。焦っているようで、その実、もうすべてを諦めているかのような、そんな諦念を感じさせる顔。

 その背中を見送ってからドアノブに手を掛ける。

 水城センパイが握っていた温もりが、まだ残っていた。


     ◇


 ドアを開けると強い西日に、福山センパイを直視できなかった。逆光の夕日が椅子にひとりだけ座る彼女を縁取っていた。

「これあげるわ」

 唐突に黒い影が伸びて、瓶を押し付けられた。ラムネだった。

 瀬戸センパイ曰く、福山は宗教上の理由で、飲み物は全てラムネでなければならないという十字架を背負って生まれて来たんだ、とよく言っていた。それが故に、部長もわたしも砂糖の入った飲みモノが総じて苦手だったのに、ラムネだけは飲めるような体にされてしまった。

「いただきます」

 福山センパイがこうしてラムネ瓶を後輩に渡すときは、決まってセンパイが困っていて、頼み事を任される時だ。

 実家のおばあちゃんが駄菓子屋を営んでいるらしく、時折、こっそり駄菓子がいっぱいに詰め込まれた楽器ケースを音楽室に持ち込んでいる。福山センパイの中で、そのコレクションの最上位アイテムがラムネなのだ。

 日頃からお世話になっているセンパイに何を頼まれるのだろうか、と思案する。

「あなたには先に言っておこうと思うの」

「何でしょうか」

 福山先輩の隣に並ぶように椅子を壁付けして置く、日差しが横から入るが、正面からみるよりましだ。しくも、あの日と同じような配置になってしまった。

「あなた、セトに恋してるでしょう?」

 ラムネを床に落とした。瓶は割れずに鈍い音だけがした。拾おうと手を伸ばす。これほど自分の顔を設計しながら、手を動かすのはステージ上でもない、表情に出ていないだろうか。

「いいのよ、わたしもそう﹅﹅だったから」

 手が止まった。光源を見遣る。逆光でその表情は伺えない。

「そんなに怖い顔しないで。わたしの思いはとっくに終わっているから。セトを救える力を持った、あなただから頼みたいことがあるの」

「何をですか?」

「明日の本番、セトはもしかしたら、使い物にならなくなるかもしれない。だからメロディをやるトランペットでうちの部を牽引してあげて。柳川と水城にはもう言ってあるから」

 辛うじて口から出た言葉——。

「……なんで、ですか」

 ふっ、とその影から息が零れるのを聴いた。

「あなたしか技術的にセトの代わりがつとまらないからよ。わたしはトロンボーンでメロディパートじゃないし」

「そうじゃなくて、何があるんですか、普門館には」

「……別に、何もないわ」

 福山センパイの一瞬の沈黙に、事情を知っているであろうことを察する。

 最初は全日本吹奏楽コンクール出場が目的だと思っていた。けど……普門館、普門館、普門館、フモンカン……部長はいつもそればかり言う。

 そして、福山センパイも、水城センパイも、柳川センパイも、普門館に何かがあるかのように、そればかりを口にする。

 去年の結果を超えたいでもなく、金賞を取りたいでもなく、美しい音を奏でたいでもなく、普門館へ行くこと、この部は、それのみが絶対だ。普門館に囚われていると言っていい。

 おかしい。明らかにおかしい。

「瀬戸センパイは、あそこで何をするつもりなんですか」

「セトが何をしたいのかは知らない。ただ、私はそれを応援するだけよ」

 西日に縁取られたその影が大きく膨らむ。濃黒の影の塊りから見下ろされた。

「杞憂だったらいいの。もし駄目だったときには話すわ。とりあえずあなたは、当日、演奏に集中しなさい。ただ、予期せぬアクシデントがある可能性を、頭の片隅にとめおいて。話はこれでおしまい」

 福山センパイは勝手に切り上げると椅子を仕舞って、わたしの顔も見ずに去っていく。

 部屋を出る刹那に見とめた彼女の横顔は、どこか憂いを帯びていた。


     ◇


「カヲル」

 さぁいよいよ本番だ。午前の部が終わって、この休憩が終わったら、というとき、滑らかな女性の声が、鏑矢高校吹奏楽部の面々の鼓膜を震わせた。

 休憩時間のホール、ざわついていたシートに、その声は響いた。一瞬、カヲルって誰だ? と悩んで。それが薫、瀬戸薫、つまりは部長であると気づいたとき、部員全員の視線が声の主に集中していた。

「薫、久しぶりね。待ってたわ」

 その女性は複数の視線に曝されたというのに、意にも解さず、部長だけを見ていた。中性的な名前が嫌いで、部員の誰にも、同級生にすら呼ばせなかったその下の名前——薫。それをこの女は躊躇なく言った。易々と言い切った。

 目線の高さはわたしと同じぐらい、濡鴉ぬれからすのように漆黒のロングヘア。既視感を覚えた。風呂上り、湯気で曇った鏡面に映る後姿。普段は纏めている髪を、後ろに流した肩と背中、瀬戸センパイが嫌ったわたしの髪型。

「薫は実力でここまで来てくれるって、信じてたわ」

「カナセンパイに会うために、ここまで来ました」

 一年一緒に過ごしてきて初めて聴く艶のある瀬戸センパイの声音。なぜ? どうして? その場にいた一年の全員がそういう視線を部長にぶつけていた。それに気づかない瀬戸センパイは、恥じらいもなく紅潮させた頬を周囲に晒している。褒められて綻ぶセンパイの顔を普門館ここに来るまでずっと一緒だったわたしは、まだ知らなかった。

「昔みたいに、カナでいいよ」

 その女は、部長の頭に手を伸ばして、髪に触れた。刹那、くしゃりと破顔する瀬戸センパイがいる。わたしには向けられたことのない熱い視線を、その女は浴びていた。その優越感に浸るように、鏑矢高校吹奏楽部の面々の視線を華麗にスルーして、悠々とその女は二人だけの世界に浸る。

「背、伸びたんじゃない? 昔はわたしより小さかったのに、あっという間ね。高校生って早いね」

「いえ……それほどでもない、です」

 部長の恥ずかしがる仕草、声、顔。全てが未知のセンパイの構成要素だった。

 唐突に、背後から伸びた深い影がその女を陰らせる。瀬戸センパイの視線が長い影の根元へ移った。

「あぁ、ごめんね、紹介が遅れたわ。この人、わたしの彼。S大吹奏楽部で指揮者やってるの」

 センパイの、人より凛とした核を持つ黒目が、動揺するところを、初めて知った。演奏でも、教師に叱られても、わたしの告白の時でさえ、揺らぎすらしなかったその瞳を、女は満足そうに確かめて、わらいながら放った。

「薫もS大に来るでしょう? 挨拶しといた方がいいわよ」

 センパイに見せつけるように、男と熱い視線を絡ませて哂う。部長の背後から福山センパイが修羅のような目でねめつけていた。

「君の噂は、カナから常々きいているよ。なんでも、中一にして全日ソロコン優勝、二年連続普門館だもんな、僕の学生時代より余程活躍しているよ、羨ましい限りだね」

 長身の理知そうな顔の大学生。その男から差し出された手を見つめて硬直したセンパイは、咄嗟にその女に答えを求めて縋った。その瞳の揺らぎは、嗜虐性をそそられる儚さと健気さが両立していた。どちらもわたしの知りもしないセンパイの新しい表情。

 その視線の交錯を阻むように前に立ったのは、毅然とした態度の水城センパイだった。

「お久しぶりです、カナセンパイ。わたしのこと覚えてますか。センパイと同じクラリネットの水城です」

 さり気無く間に入って、笑顔を差し向けていた。

「はじめまして、わたしもS大目指してるので、よかったら握手して貰っていいですか」

 男は一瞬眉をひそめたが、顔を見遣ると相好そうごうを崩して手を握り返していた。

 切れ長の目とモデル顔負けの美貌、そしてその度胸がなせる技。許可を求めたときには既にその手をさらっていて、普段のセンパイには感じさせない高校生らしからぬ、妖艶な色気を伴った微笑みが、男からの視線を奪っていた。

「こちらこそ宜しく、わたしは立山。S大の吹奏楽団で指揮者をしているんだ。今日はみんなの演奏を勉強しに来たよ。君たちの演奏、楽しみにしているからね」

 気を大きくした男を調子付けるように微笑む水城センパイの顔は、素を知る吹奏楽部員には、酷く人工的で、水面下にふつふつと沸き立つ怒りを必死に抑えているように見えた。

「瀬戸、そろそろ時間よ、移動しないと」

 その隙に福山センパイが部長の肩に手を回して、座席から舞台へいざなう。手際の良い連携プレイだった。

 その背中を押して、別れ際、吐き捨てるように福山センパイはあいさつを投げた。

「カナセンパイ。では、わたしたち本番があるので」

 最後にその女は、隣の男の腕に自分の腕を絡ませて口角を歪めて放った。

「がんばってね、見てるよ、薫」

 答えを求めて彷徨うセンパイの視線は、それでも女の影に繋がれていた。


     ◇


「あのクソ女はお前のかたきだろ! なんであんな奴に気ぃ取られてんだよ」

 部長と同じクラリネットパートの柳川センパイが胸倉をつかんで放った言葉。


 結局、あれから部長が平常心を取り戻すことはなかった。

 わたしたちの演奏は、普門館の舞台の上で砂上の城のように崩れていった。弱い主旋律、カバーできないクラリネット、張りの強すぎるトランペット、タイミングがずれたパーカッション、指揮者の顧問は慌てふためいて指揮棒を振っていた。鏑矢高校吹の吹奏楽部は、全てが瀬戸センパイを中心に成り立っている。骨抜きの演奏を誰も庇えるはずもなく、酷い音を奏でた。

「あいつのせいで、お前も、福山も、水城も、私も、三年はみんな普門館ここに来るのに、どれだけ苦労させられたか分かってんだろ。あいつは、お前の気持ちをもてあそんで楽しんでただけのクソ女だっただろ。お前の才能に嫉妬してただけのしょうもない女だろ。なんで今さらそんなやつに惚れてんだよ、期待してんだよ。あいつにされたこと忘れたのかよ……」

「やめな、ヤナちゃん、ここ舞台袖だよ。外に聞こえちゃうから」

 止めに入るのは同じクラリネットの水城センパイだった。

「許せない。受験を犠牲にして、青春を犠牲にして、何もかも犠牲にして、ようやく立った普門館より、こいつにはフラれた女の隣に居る男の方が、価値があるってさ。許せっか、こんなん、なぁ、なんか言えよ、今日のためにお前にかけた六十六人の気持ち、返してくれよ……」


 舞台袖。十二分の演奏を終え、暗幕が降りると、楽器の大移動が行われる。わたしたちはその最中にいた。皆が各々の楽器に手を伸ばしていたとき、男勝りの柳川センパイの怒声が舞台袖に居る部員の体を縛っていた。


 夏休みに入る前、最後の放課後のパートリーダー会議が終わったあと、たまたま居合わせた集団での会話。部長だけが顧問に呼ばれてその場には居なかった。

 そこには、普段は口数の少ない柳川センパイが、ショートヘアの髪を触りながら恥ずかしそうに語り出す姿があった。「私さ、瀬戸に感謝してるんだよね。あいつのおかげで、普門館とか、音大とか、本気で目指してる奴を、何熱くなってんのって馬鹿にしてスカしてた連中がみんな抜けてったからさ。だからこれは恩返しなんだ」そう言って、柳川センパイは音大を狙える程度の技量があったのに、個人レッスンを諦めて、夏からは吹奏楽一筋を選んだことを、その場に居合わせた皆に告白したのだった。そんなセンパイだからこそ。その気持ちは人一倍に強かったのだろう。


「本当にすまない」

 いつになく弱り切った部長の声が漏れた。

 パーンと、平手打ちがホールに響く。今の音は、客席まで行ったろうな、そう思った。

 崩れた前髪、項垂うなだれた部長は、何も抵抗しなかった、言い訳もしなかった、その沈黙の肯定こそが柳川センパイの感情を逆なでしたのだろう。もう一度振り上げた手を、慌てて水城センパイが抑える。ビンタを見舞った柳川センパイはむしろ傷ついた表情かおをして、泣きながら叫んだ。

「なんでだよ、なんで謝んだよ。なんでお前って、いつもは超然としてるくせにさ。こんな時に、私らの思いすら忘れて、吹奏楽部をめちゃくちゃにしてった、あんなサイテーな女のこと考えられるんだよ……」

 部長は、もう聞きたくない、というように、クラリネットを持ったまま耳を押さえてフラフラと舞台袖から足早に去っていった。柳川センパイは最後に部長の背中に向かって小さく囁いた。たぶん、その声はあまりにも小さすぎて、隣にいたわたしと水城先輩にしか届かなかったはずだ。

「……これじゃあ福山があんまりだ」

 全ての楽器を仕舞い終え、自分たちの客席へ戻る。

 鏑矢高校吹奏楽部の一画、部長の席だけがいつまでも無人だった。


     ◇


 演奏と演奏の合間、休憩時間に瀬戸センパイを探してホールを彷徨う。

 廊下のゴミ箱から顔を出すクラリネットを見つけた。センパイの私物だった。ビュッフェ・クランポンのB♭クラリネットRC、一本、五十万は降らない、部長の持ち込みの楽器。もう、戻るつもりはないのだろうか。

 それをゴミ箱から引き抜いて、センパイの分身のように胸に抱いて、ホールに戻ろうと廊下を歩いていると、同じように部長を探していた福山センパイとすれ違った。

「それセトの?」

「はい、部長のです。ゴミ箱に刺さってました」

「あいつ」

「教えて下さい。あのレナって女、何者なんですか。柳川センパイがあのサイテーな女って……」

 福山センパイはわたしの手を引いて、誰も居ない近くの適当な控室に入った。

 その力が、いつもの温厚な福山センパイからは想像できない力強いもので驚いた。センパイが放したわたしの右腕には赤い痕がしばらく残るぐらいには強かった。

 壁に寄りかかって足をクロスさせた福山センパイは、額に手を当てて苦し気な表情を隠す。その横顔から読み取れる表情は、失望、怒り、それとも悲しみだろうか、勝手に推察する。私だけが状況に、置いてきぼりだ。

「はぁ……本当は言いたくなかったけれど。あなたには知る責任があるから教えるわ。瀬戸の過去の話。瀬戸が転校してうちに来たって話って、知ってるかしら?」

 権利ではなく、責任という言葉に、違和感を覚えた。

「はい、昔、音高から転校してきたと聞いてます」

「セトは高二の春に鏑矢うちに転校してきたの。

 昔から誰に対してもあの性格で、当然、先輩にもきつく当たったわ。吹奏楽部に来た初日、入部テストでなんて言ったと思う? 一緒にセッションしてくれた、当時の部長だったレナ先輩に、下手ですね、もう少し練習したらどうですか、って。卒業した先輩方って、セトが来るまでは、曲がりになりにも東海の吹奏楽部では指折りの実力者だったのよ。その先輩に向かって余裕の笑みで言い切った。

 けど、セトは確かに住んでいる世界が違った。

 あなたもそちら側にいた人間だから分かるでしょう。天賦の才を持った上で、幼少期からクラシックを叩き込まれ、絶対音感を持つあなたたちと、高校の部活とでは、レベルが、住んでいる世界がまるで違うことを。

 セトはあの時、井の中の蛙で天狗になっていた先輩方の鼻を見事にへし折った。そして本物の音楽を、演奏を、本人達の前でやってのけた。

 あの音を聴いて、セトの才能に羨望しない人が、いないはずがない。

 自分の矮小さに気付けない人が、いないはずがない。

 セトの、あいつの才能が、周りの人間を傷つけたんだ。私も、柳川も、水城も、レナ先輩も、みんな、みんなそう。セトの才能を前にして、ボロボロに傷ついて、自分の実力と、歴とした埋まりようのない差があることを知って、セトとの間に広がる底の見えない深い谷に怯えた。遙か遠く、決して手の届かない対岸にセトがいることを知って、絶望した。

 それでも私たちは自分なりに言い訳を付けて、心の内で解決していったのよ。

 私はね、柳川が舞台でセトを殴ったとき、やっぱり心のどこかで思ったんだ、当然な報いの時がきたんだな、ってね」

 いつの間にか、福山先輩の声には怒りが滲んでいた。

「けれどね、自己解決できない人もいたの。

 レナ先輩はこう言ったわ——野球ってあるじゃない? 私たちは草野球をしているの。どんなに頑張っても私たちがたどり着ける最後の舞台は江戸川河川敷。そこにある日突然、東京ドームを知っている、元プロ野球選手選手がやってきて言った。あなたたちは下手ですね、もっと練習したほうが良いですよ、ってね。言うまでもないけど、江戸川河川敷つまりは普門館って、音高はもちろん音楽科のある高校は参加できない、プロも参加できない——ね? 本来のセトの実力なら、規則上、立ち入るはずがない場所なのよ。今、立っている普門館ここはさ。

 アマチュアの世界で、本物を見せるだけでそれは罪なの。だって才能があるってだけで、そこに居る多くの才能のない者たちの努力を否定することになるから。私たちのする血の滲む努力を、踏みにじることになるから。

 だというのに、セトは江戸川河川敷で満足していた私たちの前に突然現れて、東京ドームを見せたのよ。同時に私たちが東京ドームのマウンドに絶対に立てないという嫉妬を植え付けて。私たちはそれを事実として、情報として知っていたのに、セトはそれを現実として、リアリティを持って体感させたの。

 何よりもセトの演奏を聴けば分かってしまう、言葉にするまでもなく、あれは私たちの延長線上にある音ではない。けれど同年代のセトは既に持ち合わせていた。それを才能と言わずして何と言うの。

 けどね、才能ってそういうモノでしょう?

 持てる者か、持たざる者か。持たざる者が寄り辺とする楽園だった吹奏楽部に、セトは土足で踏み込んで、お前には才能がないって断定したんだよ。そんなこと、赦せると思う? ——赦せないでしょう。

 無自覚な才能が他人を傷つける、それに気づけない罪を贖わせてやる——レナ先輩は私にそう遺して卒業していったの」

 福山先輩はわたしの瞳を覗いて問いかける。

「うちの部、二年だけ少ないの、疑問に思ったことはない?」

「……それは、あります」

 前から疑問には思っていた。三年が20人、二年が13人、一年が33人。明らかに二年生だけ極端に層が薄い。

「三年生が引退するタイミングで、部が一回、ふたつに割れたのよ。レナセンパイが辞めるなら私もって人が沢山いてね。特に一年生はセトが部長の下では普門館を目指したくないって騒いで、その時、結構の人が辞めてしまったの。柳川が言っていたのはこのことよ。あの対立はレナ先輩が遺した負の遺産だったから」

 深い溜息混じりのセンパイの横顔には、もう残された怒りはなく、深い哀しみだけが漂流していた。

「去年の夏にね、瀬戸に相談されたんだ。レナ先輩が好きなんだけどどうすればいいって。そんなの、あいつが傷つくだけなのに。その時は、やめておきなさいって忠告したんだけどね、セトは直情的だから聞かなくて、すぐに告白したのよ。レナ先輩としても大学の推薦に関わるから、普門館に行くためにも、セトをなんとしてでも吹奏楽部に繋ぎ止めておきたかったんだと思う。だから腹の内では憎んでいても、結局は付き合うことを選んだ。それから後はまぁ、柳川が言っていた通り、全日コンで銀賞を獲った翌日に|非道《ひど》い別れ方をしてね。瀬戸が泣く姿なんて想像つかないだろうけど、あの柳川が心配するぐらいにはヘコんでいたわ。その時にセトは、レナ先輩への思いを断ち切ったと考えていたんだけどね。どうやら本心はそうではなかったみたい」

 福山センパイはわたしと同じなのかもしれない。もしかしたらあの女すらも。

 同じように瀬戸センパイのクラリネットを聴いて、自分の矮小さを知って、勝手に憧れたり、勝手に期待したり、勝手に好きになったり、勝手に嫌いになったり。瀬戸センパイの隣に居ることは辛い。まるで太陽の隣にいるように、逃れられない引力に縛られてしまう。強制的に瀬戸センパイを中心にして、自分の存在を規定されるから。

 全日ソロの大会。あの日、わたしは本物の才能に殴られた。一年掛けて練習してきたロッキーのテーマを、当日コンテスト会場の控室、たった数時間でモノにしてしまうセンパイ。一度のリハもせず、伴奏のテンポに合わせる余裕すら見せて、わたしの前を去っていったセンパイ。

 知りたかった。あの才能を前にして、どう精神を保てばいいのか、どう自らの非力さを自覚すればいいのか。あの日以来、ずっと魅せられ続けているこの気持ちを、いかに対処すればいいかを。

 センパイと普門館へ行く約束をしたあの日、わたしはセンパイの恋人になればこの気持ちを晴らせるだろうと思った。以来、この恋心きもちを疑う恐怖から目を逸らして、普門館ここまで走り続けて来たのだ。

 だからその質問がふと口をついて出てしまった。

「どうして福山センパイは、瀬戸センパイの才能を認められたんですか」

 福山センパイはきつく唇を食い縛って天井に目を向けた。長い沈黙の間を待って、唇が紫に鬱血し始めたころ、ようやく重い口を切った。

「わたしだって……。私だって最初から、自分の器を、才能の無さを自覚できた訳じゃないわ——いいえ、違うの。今でも、それと正面から向き合っている訳じゃない。

 だってそれを知ったら、知ってしまったら、二度と楽器を持てなくなる。私はね、才能を持つセトに、その才能を如何なく発揮できる環境を捧げることだけが、自分に失望しないで済む、ただ唯一、絶対の方法だと考えたのよ。持たざる者が持てる者に憧れて、何か少しでもその一部になりたい。そう思ったら、それぐらいしか残された道はないでしょう?

 それにね、セトはいつもひとりなの。ひとりだけ向こう側に立っているの。それで、何時までもそちら側に行けない私たちを見て、寂しそうにしているのよ。だから私は、セトの才能に魅せられたから、隣に立って、その孤独から救ってあげようと思ったの。けどね、それすらも私には許されなかったわ。

 今年の春、あなた﹅﹅﹅が来たからね。セトに比類する才を持つ、あなた﹅﹅﹅が」

 天井を見ているセンパイの顔は、ズレたヘアピンに挟まれた髪の束が鎧のように隠して、決してその表情を明かさない。だからその糾弾がどういったニュアンスのものなのか、顔からは読み取れなかった。

「結局、持てる者の隣に立てるのは、同じ持てる者のみだった。この一年間、セトが私に、音楽について相談したことは、ただの一度もなかったのよ? あなたとは連日のように語りあっていたというのに」

 センパイがヘアピンに手を掛けてその前髪をばらけさせたとき、その間隙かんげきから薄い笑みの浮かぶ口元が覗いて、震えた。冷めた哂いをしながらセンパイは言った。

「私が相談を受けたのは人間関係と、家庭の話だけだった。でもね、それでも良いんだ。それでもセトの才能に少しでも貢献できるのなら。私はそれでいいの」

 福山センパイのかしげた顔に残る苦悶の表情かおに、喉が詰まった。

「今日までそうしてやってきた。けど、やっぱりダメだったみたい。普門館ここで、ありありと分かったわ。私の声はセトには決して届かない。一年前から、レナセンパイが卒業したあの時から、いつか来るだろうこの日を、何度となくシミュレーションして来たというのに、何もできなかった。それを私は赦せない。セトの才能を生かすことだけが、私の唯一絶対の誇りだったのに。それすらも出来ない私の価値を、もう自覚したくない」

 福山センパイが頭を振ると、前髪がほどけた隙間から初めてその暗い瞳がこちらを覗いていることを知った。その乾いた眼に、わたしは怯えた。その視線の先に、わたしが胸に抱くクラリネットがあった。思わず、守るように握る手に力を込めた。

「ねぇ、そのクラリネット、あなたがどうするか決めなさい。その道具は人を不幸にするわ、だからセトも手放した。その呪いをもう一度、セトに背負わせる覚悟があるのなら、渡すといいわ」

 固まってしまう。そんな考えは、わたしにはなかった。クラリネットを持たない瀬戸センパイなんて、考えすらしなかった。そんなセンパイの姿なんて見たくなかった。無意識のうちに、これは返して当然のモノだと考えていた。けど、瀬戸センパイからすれば、これは逃れられない過去の遺物なのかもしれない。それは、きっと呪いのようなモノだ。

「私もね、楽器を辞めるわ。もともと今日で最後にするって決めてたの。セトを手伝うことがなくなれば、そこに音楽を続ける意味はないから。

 もういい加減、セトの才能の奴隷から解放されたい。疲れた。

 そのクラリネットをゴミ箱に戻しても、セトに渡しても、どちらでもいいわ。だから、あなたが好きに決めなさい。それが持てる者の責任よ。楽器を手放す私にはもう、その資格はないから」

 福山センパイの目から、雫が走った。

 わたしがあまりにも固まってしまっていたせいからか、ブレザーの肩で目端を拭って、怖がらせないように、少しだけ優しく微笑んで。

「……ごめん、ごめんね。こんな酷い話をして。けどね、覚えておいて、あなたは、持てる者は、無数の待たざる者の屍の上に立っているのよ。決してそれが、あなたの視界に入ることはないけれど。そのむくろは、思いは、無色透明で、無臭で、目に見えず匂いもしないけれど。そこには必ずあるの。それだけは忘れないで」

 そう慟哭どうこくする福山センパイの痩身そうしんに、未来のわたしが被って見えた。

 これが行く末なのだろうか。決してられない才能を持つ者がそばにいるだけで、これだけ傷ついて、これだけ奉仕して、これだけ想い募って、それでもなお、本人の、瀬戸センパイの目に留まることはなく——。

 その傷ついた姿に、どうしていいのか分からなくなってしまった。それでも、だから、ただ、彼女に救いを与えたかった。

「センパイの奏でるトロンボーンを、わたしは——」

 悲痛な叫びがつづきを塞ぐ。

「やめて! やめてよ……私があなたより下手糞だって、百も承知だから。だから、だから、今、慰めだけは聞きたくない。同情で私を褒めないで。もう、惨めになりたくない……だから、だから」

 福山センパイはわたしから離れて両手で顔を覆う。その表情をけっして悟られたくない、というように。

「……レナ先輩がセトにしたように、あなたを恨みたくない。だから赦して、何も言わないで——ごめん、お願い」

 センパイは壁を蹴って、部屋を出て行った。


(——美しいと思いますよ)

 つづくその言葉が如何に残酷で、傲慢で、罪であるかを今更思い知った。

 心にもないこの言葉を掛けることで、わたしが勝手に救われようとしたんだ。


 それはなんて独り善がりな——

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