第2話 普門館で会いましょう

新学期、春を迎えた鏑矢高校吹奏楽部は、壊滅的だった。

 全国レベルの演奏力を誇る有力な先輩は去り、同級生は二十人。下級生はたったの十三人。大半の部員が昨年は二軍で、本番の舞台に立った子は、そのほとんどが残っては居ない。卒業した先輩と演奏力でタメを張れて、個人で受賞歴を残すような実力のある部員は私だけだった。普門館は遠退とおのいた。


 卒業式の日、無人となった図書室に呼び出されて、部屋の隅まで腕を引かれては、書架の陰に隠れるように、本棚に肩を押し付けられた。

 初心うぶだった私は、先輩の顔が近づいて輪郭がぼやけていく様を眺めながら、これから何が起きようとしているのかを、考えようとしていた。唇に感触を覚えて、ようやくそれが何であるかを理解したときには、もう先輩は私から離れていて、何か一言二言、語りかけては、勝手に去って行った。呆然と立ち竦んだ私は、ただひとり図書室に残されて、最後に先輩に言われた言葉を反芻していた。


「普門館で、また会いましょう。このつづきはそのときまで忘れないで」


 全日本吹奏楽コンクール大学部の常連校、S大に進学した先輩は、同じクラリネットでパートリーダーだった。

 いまさら役に立たないこの才能を、先輩はそれでも必要としてくれた。居場所を与えてくれた。同じ舞台、隣に立った先輩。無理だ、残されたこのメンツで普門館を目指せって? わらってしまう。私が愛した先輩が、最後に残した言葉はアイロニーだった。


 置いて行かれたんだ


      ◇


 四月。ダメ元で使えそうな新入生を探す。

 鏑矢高校吹奏楽部は昨年、これで、まがりなりにも普門館に立ったのだ。東海最強の吹奏楽団だったに違いない。それに釣られて入学を決めた生徒が、いないはずはなかった。入部テストをして、これは、という生徒に目星を付けてゆく。

 フルート、オーボエ、クラリネット、サックス、トロンボーン、ホルン、ユーフォニウム、チューバ、パーカッションは全て実力のある三年で固め、パートリーダーを副部長の福山と相談しながら振り分けてゆく。残りを新入生と二年で実力順に埋めると、一つだけ、足りない楽器があった。


 トランペット


 二人いる二年のトランペッターはお世辞にも全国レベルではない、パートリーダーには普門館に立ったことがある者か、あるいは、経験はなくとも同等の演奏力を持つ者が欲しかった。このまま技術力が向上しなければ、最悪は規則上、サックスやクラリネットで代用が可能だが、金管の花形が居ない吹奏楽団などあり得るのだろうか? 

 ない、あり得ない。


 条件に見合うトランペッターが一人だけいた。

 中一にして全日本ソロコンで優勝した才女、橋立美香。その大会、中三の私は二位だった。彼女の実力はプロ顔負け、今頃音楽科のある高校へ進み、プロを目指しているだろうと勝手に思っていた。

 だから、その顔を廊下で見かけたとき、正直、震えた。

 ナゼ? という疑問と共に、勝った、という喜び。

 彼女さえ居れば、うちの吹奏楽部は、普門館に、あの舞台にもう一度立てる、かもしれない。しかし、四月が過ぎ、五月となっても彼女の姿は、第一音楽室になかった。


 当たり前だ。

 彼女と我々では目指しているレベルが違う。彼女は音大受験に向けて、きっと放課後は個人レッスンに明け暮れているに違いない。彼女からすればうちの吹奏楽部はシロウト集団だ。私ですら、耳に堪えない音を出す連中を前に、何とかメロディを奏でるクラリネットでその穴埋めをしているに過ぎない。

 しくじった、もう手遅れかもしれない。

 それでも私は彼女を部員にすることを諦めなかった。一年の教室へ出向いて直接スカウトする。入部テストだけでも受けてもらう。相手はこちらの顔など忘れているだろうが。先輩だ、脅せばいい。そう考えていた。

 昼休み、福山に一言掛けてパート練を抜ける。一年の教室へ向かった。

「橋立美香さんはいるかな」

 教室の後ろから入って、目についた生徒に訊く。ぼさぼさの寝ぐせ、先ほどまで寝ていたであろう眠そうな目を擦った少年は、うーんと暫く悩んだあと、あの黒板の前の窓側の席に居るやつですと指差す。

 五月初旬、そろそろグループができ始めて然るべき頃だろうに、人疎らの教室で彼女はひとり、教室の片隅で静かに座っていた。

「君が、橋立さんかな」

 すれ違い窓から舞い込んだ春風に抱かれた黒髪が舞った。振り向く刹那、その後ろ姿に既視感が沸いた。その一瞬、卒業式の日に図書室で襲われた喪失感に溺れた。

「何か?」

 顔が露わになって安堵に浸みる。

 あの日、黒髪から覗いていた瞳とは異なる、警戒心の強い猫のような眼光。他者を寄せ付けない怜悧な顔は、なるほど周囲に馴染むのに不向きな性格を体現しているかのようだった。

「吹奏楽部、部長の瀬戸だ。少し話がしたいんだけど」

「私はしたくありませんね」

 剣の在る声だった。

「君に拒否権はないからついてきな」

 教室を後にする。廊下に出ても、彼女がついてくる気配が背中からは感じられなかった。面倒臭いな、と。もう一度教室に戻っては橋立の机のそばに立って見下ろす。彼女はこちらを、振り向く素振りすら見せない、さっきは手元になかった小説まで開いている。熱心に読書に勤しむフリをして、つまりは完全無視を決め込んでいた。

 机の脚を蹴った。スチール脚が地面を引きずって不快な音を立てるに伴って、机上のペンケースが揺れる。教室の音が一瞬止まった。室内の視線が集中しているのを感じる。

「さっさとしてくれ」

 流石に驚いたのだろう。信じられないと、唖然とした顔で、無防備にも口を半開きにして、こちらを眺めていた。

「はやくしてくれないか、茶の一杯は奢ってやる。私は気が短いんだ」

 渋々と、恐る恐るの半々といった顔で頷くと、ようやく重い腰を上げた。振り返ると、さっき声を掛けた少年が興味津々といった顔でこちらを覗いている。これ以上騒ぎ立てれば、教室の誰かが教師を呼ぶかもしれない。さっさと教室から立ち去るに限る。幸い、私たちが教室を後にすると、日常を取り戻したかのように、喧騒が廊下まで届いてきた。

 行き先は、第一音楽室。道中、彼女に問いかけることにした。まず、真っ先に確認したかったのだ。

「君は全日ソロコンで優勝したトランぺッターに、間違いないよね?」

「よく調べていますね」

 怒気を含んだその声は、二年先輩の私からすれば可愛いものだった。

 入部以来、徹底的に周囲に馴染まず、とにかく先輩に楯突いていた、かつての私もこう見られていたのかもしれない。だとすれば、恥ずかしい。気性の荒さは生来のもので、それは相手が教師であっても変わらなかったが、卒業した先輩に向けてだけは別だったはずだ。

「調べてきたわけじゃない。会場にいたんだよ。君のロッキーのテーマを聞いたんだ」

「先輩はその時、何位だったんですか」

 溜息を吐く。

「言わせんのかよ。二位だよ」

「待って下さい、何年前の話ですか」

「自分がやった課題曲すらも忘れたのか? 確か私が中3で、君が中1だったから、三年ぐらい前の話だ」

「待って……下さい」

「マッテ、が多いな。私は犬じゃないし、待たない」

「先輩は、音高に行ったはずでは……」

 くっ、と喉が締まった。こういうたぐいは去年には散々言われて、むしろ言われ慣れていたというのに。予想外の相手から言われると、咄嗟に平静へいせいを保てない。なんで知ってんのかね、これが運命というやつなのだろうか。


 音高——東京音楽大学付属高校。


 国内最高の音楽教育機関、その付属校。入試は一学年、つまりは全選考で六十人。その年のクラリネットは全国各地から集う、選りすぐりの三人だけが選ばれた。完全実力至上主義。筆記は簡単にパスして、聴音、合唱、演奏、面接、会場はプロが演奏で使う大学のホールだった。緊張もしなかったし、落ちるとも思っていなかった。結果は余裕のパスだった。当たり前だ。私はプロの演奏家になるのだから。こんなところで落ちようもない。これでようやくプロの入り口に立ったのだ、そう思った。


「転校したんだよ」

 運命を呪った。栄華を掴む資格を握った瞬間に、それは足元から崩れ去っていった。

「どうして、ですか?」

 無言の間に彼女は息を呑んでいた。

 自分の人生なのに、絶句されると他人事に思える。もう過去のことだから、笑えるけれど。

「それを君に言う必要もないだろう」

 それ以降、彼女が喋ることはなかった。

 廊下には上履きがリノリウムの床に張り付くヒタヒタという足音と、昼休みの喧騒が残った。空いたすれ違い窓からは、野球部の「ファイトー、カブラヤ、カブラヤ」が混じる。気の抜けたトランペットの音も。あの出し方は三島か。部長の私が居ないからって手抜きしやがって、後でシバいてやろう。


 旧校舎を抜け、渡り廊下を通り、南校舎の最果ての第一音楽室へたどり着く。施設と楽器だけは立派なんだが、中身が伴ってない。人数もクオリティも。

「ここが吹奏楽部の活動場所。君には入部テストをしてもらうけど」

 第一音楽室を過ぎて隣の音楽準備室に入る。楽器ケースが所狭しと仕舞われたこの部屋は、楽器保管庫として吹奏楽部員に半ば私物化されていた。モノによっては背丈を超えるケースもあるが、その中の一番手前に置かれた、革張りのケースを手にする。

「とりあえずはこれを使いな。部のお下がりになるが、ちゃんと手入れはしてある」

 後輩は無言で受け取って、テーブルに楽器ケースを広げた。誰が開けたのか、風に乗せられてカーテンがゆたう。午睡を誘う日差しが楽器を照らしては陰りを繰り返していたので、カーテンに手を掛けた。

 ついで着替えのポロシャツが入った黒いポーチを棚から取り出す。

「楽器、確認して」

 首を絞めるネクタイに手を掛けて引く。ストライプの帯が視界の端を流れてゆく。丸めて棚に置く。シャツに手を掛けて素早くボタンを外した。見られて何かを思うほど潔癖ではないが、彼女の視線が絡んでいたことには気づいていた。

 ポロシャツに袖を通して、着替え終われば彼女を見遣る。絡まる前にその視線は逃れて、思い出したかのようにトランペットに手を伸ばす後姿が映えた。

 どうしても、その肩に流れる黒髪が卒業式の先輩と被って見えて、苛立った。思わずこぼれそうになった、舌打ちをなんとか飲み込む。

「どう、使える?」

「えぇ、はい」

 彼女は慌てて簾髪を耳に掛けた。その耳が桜色に染まっていることに、本人は気づいていないのだろう。初心だなぁ、と微笑わらう。

「じゃあ、隣でするから」

 マイ・クラリネットを持って音楽準備室を出ようとドアノブに手を掛けた。

「待って下さい」

「犬じゃない」

「お茶は要りません。だから、あなたの演奏を聴かせて下さい。でないと私は入部テストを受けませんから」

 振り返って彼女に目を向ける。猫のように鋭い眼光がこちらを照らしていた。

 勝気なその表情かおから頬の朱みが抜けている。

「いいよ、聴かせてやるよ」


     ◇


 サン=サーンスのクラリネットソナタ第4楽章。

 同年代でこれをやる奴は皆、幽霊が柳の下から登場するかのように吹くが、自分は十二の時からでももっとまともに吹けた。今では伴奏もいらない、脳内で補完できる。そしてこれは全日ソロコンであの時、この後輩の前で、本来、演奏するはずだった楽曲。

 弾き終えて後輩の感想を待つ。

「あの日、私は初めて負けました。この人には敵わないと思いました」

 悪い気はしないが、正直に言って、私からすればどうでも良いことだ。

「三年前の私を褒められても、毛ほども嬉しくない」

「本来なら、あなたが間違いなく優勝していました」

 もう何度目かの溜息が零れた。


 中学全日本ソロコンテストの当日、私の伴奏者はノミのようなメンタルで欠席しやがった。私は、前年もその前年も優勝していた。伴奏者は、ただ楽譜通りにピアノの鍵盤を叩けば優勝間違いなしだったというのに、彼にとってはそうではなかったらしい。『コンクール史上初、悲願の中学三連覇』がかかっていた。後日、本人に訊けば、泣きながらそんなことを言われた。

 コンテストの控え室で私は土下座した。伴奏者に頼み込んだ。自分の伴奏をしてくれと。トランペットとクラリネットは相性がいい。出せる音域もほぼ同じ。なんとか承諾してくれたのは、橋立美香の伴奏者だった。同じロッキーのテーマを、橋立はトランペットで、私は初見、それもほぼ即興のクラリネットで演奏した。結果は言うまでもない。伴奏者を代わってくれた子には、お礼として帰りの新幹線代金から特急の代金を差し引いた額を渡して、私はコンテストが終わる前に会場を出た。

 演奏した時点で知れた。圧倒的練習不足。人前で弾くレベルにない出来。主線は弱く、なんとかメロディを追えたら伴奏は止んでいた。在来線の特急に揺られて、ひとり帰宅した。

 人前で初めて恥ずかしい演奏をしたと思った。悔し涙で車窓が歪んだ。


——そういう苦い記憶。


 あの時の私は、今の演奏のように、伴奏なしの独奏をすればよかったのだ。そんな当たり前の考えすらも忘れて、焦りのせいで空回りして、無謀にも未経験の曲に挑戦して、挙句の失敗。

「もう、いいか? 昼休みもじき終わる、今度は君の演奏を聴かせてくれ」


     ◇


 後輩のトランペットを、ソロとパートの両方で聴く。

 上手い。

 少なくともうちの部では、私の次に上手い。そして別格だ。野球部の掛け声にすら負けるような音を出す三島とは違う。今更思い出して、隣で感極まって勝手に震えてるクソ雑魚トランペッター三島の尻を蹴る。スラックスの尻に綺麗な上履き痕がついた。呆けた顏で年下の生演奏に感動していた三島は、尾を踏まれた犬のように反射的に振り向いた。

「坊主頭なんだからお前、野球部に行けよ」

「何ですか、いきなり」

「お前、さっきの居ない間、手抜いてたろ? 気の抜けた屁みたいなトランペットが廊下から漏れてきたんだよ。普段から今の橋立みたいに気合入れてやれ」

 高校受験の科目に合唱があったので私は声量がある。

 この怒鳴りでこいつが上達するとは、露ほども思っていないが、メンタルは多少鍛えられるだろう。

 以前、本番は演奏で私が黙るから幾らか緊張が紛れるだろう? と後輩に言えば、彼らは無言で首肯した。その隣で同級生の水城も頷くものだから、その椅子を蹴ったが。

 それはともかく、橋立美香は今後、部の主翼を担う存在になるに違いない。

「入部届はこれ。朝練は月水金の七時半から、他、質問ある?」

 着々と入部の手続きを進めてゆく。こういうのは考える隙を与えたら負けだ。

「私、まだ入るといってないんですが」

 頭にキタ、いい加減。

「じゃあさ、君は吹奏楽部入らないで、うちの高校に何しに来たんだよ」

 視界の端で彼女の腕が大きくなって、パァンと綺麗な音がした。

 あとから滲む痛みに、それがビンタだったと知った時。ドアの向こう、視界の端に見切れていく後輩の後姿を眺めていた。


     ◇


 放課後、私と橋立は音楽準備室にいた。

 福山に相談すれば、顔を合わせづらくなる前に解決しておきなさい、と𠮟られた。

 相手を思いやれないのは分かる、直情的なのもわかる、言いたいことがあったら、言わないでいることができない性格なのもわかる。けどね、謝れないのは救いようがないよ、と。

 その後もグチグチ言われたので仕方なく、その日のうちに一年の教室へ向かい、橋立美香を再度、音楽準備室へ呼び出した。福山が言うことはいつも至極真っ当なので困る。

 椅子を互いの顔が見えないよう、横に並べて、その一方に腰かけた。流石に気まずい。

「悪かった。私は馬鹿だからさ、相手を思いやられないことを言ってしまう。すまない」

 後輩は椅子にもたれ掛かって、後頭部を楽器棚のガラス戸に預けた。対面のガラス戸に映る彼女の顔が揺れている。顔色は窺えない。しばらく黙りこくって、返事がなくて心配するほど待たせたあと、ようやくその重い口を開いた。

「先輩は、なんでこんなところにいるんですか」

 溜息を吐く。もう過去を呪うのは止めたんだ。なのに、なんで後輩にそれを掘り返されなければならないのだろう。

「親の事業が傾いて、私だけひとり東京に置く余裕も無くなったから。お前も知っているだろう、この世界でプロになるには湯水のように金がかかるってのは」

 これでも楽器を手放さないで済んでいるだけまだマシだろうさ。

「先輩ほどの才能があれば、今頃、プロの、大人の楽団に入ることも可能なはずです。それが、なんでこんなところで遊んでいるんですか」

 だろうね、私もそう思う。ifがあれば今頃、音高でプロ演奏家目指していたろうよ、あそこと比べれば、ここは幼稚園児のお遊戯に過ぎない。

「お前が笑うここも、そう、悪くないよ」

 先輩が私を必要としてくれたのは吹奏楽部ここだ。今はもう、楽器をやる理由なんて、それだけで十分だ。

「なんで私より遙かに才能がある先輩が、こんなところに居て、音高に落ちた私と一緒にいるんですか」

「なんでだろうな。たぶん運命とかそういうモノだろうな」

「先輩のことが好きです」

 着替えていた時の、あの視線はこういうことなのだろうか。それにしても、ずいぶん投げやりな告白をする。これを思えば、かつて私が先輩にした告白はまだマシだったのかもしれない。

「なんだそれ。からかってるのか?」

「本気です。全日ソロで先輩の演奏に魅了されて。あの会場で会おうとしたら、もう居なかったんです。だから、憧れの先輩に会う為に、その為だけに、追いかけて音高を受験したのに、なのに、なんで……。

 こんな場所で、こんな姿の水戸先輩に出会うはずじゃなかったのに……」

「お前は私の顔も忘れていたクセに」

「それは先輩の背が高くなって、雰囲気が変わっていたからで、でも、耳はちゃんと覚えていましたから」

 私は振り向いて、西日に照らされた後輩の横顔をきちんと視界におさめた。きっとかつての私も、先輩の前でこんな顔をしていたのだろう。夕日に当てられた産毛が、彼女の喉をキラキラと黄金色に縁取っていた。それが唾を呑んでくっと細くなる。その横顔からでは、前髪に隠れて瞳が伺えない。それでも、一筋の雫が降り立つのを、私は見とめた。

「本気か?」

 後輩はそれに応えるように、こちらを向いて、私の顔を正面から見据えた。その顔をまじまじと覗いて、そこに宿る決意を探した。

「そのつもりです」

 私の視線にたじろぐことなく、人より醒めた風に見える涼しげな彼女の瞳には、力がこもっていた。

「青春の約束だ」

 なぜ、とっさにそんな行動をしたのか分からない。今思えば、その衝動は青春の勘違いだったのかもしれない。

 逃れられないように右手で彼女の後頭部、つややかな漆黒のロングヘアに触れて、左手で彼女のタイを掴んでは引き寄せる。その瞳が驚愕に揺れるのを笑いながら、口づけした。彼女はなされるがまま硬直して、眼を瞑っている。初心だ。その感触を覚えて、唇を離すと唾液の橋が砕けて、リノリウムの床を湿らせた。

「私を普門館に連れていけ。つづきはそれまで、お預けだ」

 それは罪だと知りながら、私がかつて先輩とした同じ約束を、そこで吐いた。

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