まだ春は青いか

三木修作

第1話 春の空気のように軽い腕

 散りまごう春の香りが、頬をかすめていった。

 体勢を崩して、枝垂しなだれた桜から零れたピンクの花びらを避けたことに、これから起こることを、少しばかり、勝手に許された気がしていた。

 視界を覆う桜の枝、いわおのように太い幹には、数多の出会いと別れを傍観ぼうかんしてきたことを主張するように、樹皮が波のごとく、髄まで呑まれては現れを繰り返している。よくよく見るとグロテスクで、幹から目を逸らせば、桜の花びらが視界を奪うのだから、この樹ほど美醜を兼ね備えた桜は、周囲にはない。

 きっと、校庭の一辺を占領している桜並木の、最も満開な樹の下で、という条件は満たしていることだろう。約束の相手を思い出して、これから死ぬまで桜を見るたびに、今日のことを思い出すことになると思うと、逃げ出したかった。

 桜を視界に入れないように幹から離れる。それでも追い縋る花びら達に、鬱陶しさすら感じて、思わず手をかざした。手庇てびざしの向こうで、ラムネ瓶を透かしたような、青い空が鎮座していた。

「センパイ」

 よく透る声が桜からした。振り向くと、風に遊ばれたスカートが視界に飛び込んできた。入学式を終え、その片付けに追われた在校生も疎らとなった校庭の片隅で、後輩と相対あいたいする。

「よう」

 春の柔らかな日差しに照らされた後輩の顔には、天気に負けない晴れやかな表情が宿っていた。

「ちゃんとわたしの要望通り、制服着てきてくれたんですね」

「あぁ」

 卒業式まで逃げたというのに、追いすがる約束は、制服を纏わせた。

 つい数週間前まで、在校生だったというのに、今では背徳感が身を縛る。冷えた指先をブレザーのポッケに突っ込んで、行く当てもなく、校庭の片隅を歩く。桜から早く離れたかった。

「大学の入学式、行かなくて良かったんですか」

 引退後はなるべく音楽室に寄り付かないようにして、進学先は福山にしか明かさず、逃げるように卒業したのに。今日が入学式と知っているということは、進学先もバレているのだろう。

「いい、お前との方が重要だ」

 その顔が眩しくて目を向けられない。罪が怖くて見れないのだ。彼女と桜に背を向けて歩き出す。

「ウソつき」

 ローファーで、入学式の集合写真のためにラインカーが遺していった石灰の白線を踏んでは、溶かして歩く。その声を聞かなかったことにして、応えた。

「用って何か? 言われてたブレザーの第一ボタンは持ってきたぞ」

「それは、あとで貰いますから」

 後ろからした砂を踏む音が、いつの間にか止んでいた。

「一年前の、あの約束、センパイは今でも覚えていますか」

 後輩の声が震えている。それともこの風のせいだろうか。

 罪を自覚することになるから、その顔を見たくなくて、強引に彼女の腕を取った。互いに無言で、人目に触れない校舎の影まで急ぐ。

 春の空気のように軽い腕から、その先の期待が透けた気がして、虚しくなった。

 これからこの期待を裏切るのだ。

 校舎の影まで駆けると息が切れて、薄っすらと汗が滲んだ。腕を引いて、後輩の華奢な肩を、雨滴の流れた痕が黒ずみとなっている校舎の壁に押し付けた。桜の花びらが絡まった簾髪すだれがみを掻き寄せる。

 後輩のいつもは涼し気な目が潤んでいた。その蠱惑的な瞳が、戸惑いがちに、こちらを見つめている。約束のつづき、唇を攫いにゆく。


 あの放課後の感触が今でも残っているのか、確かめようとした。

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