その公爵令嬢は大気圏を突破する!~幼なじみから婚約破棄をちらつかされたけど、それでもボクは宇宙を目指す~

瘴気領域@漫画化してます

その公爵令嬢は大気圏を突破する!

「うーん、やっぱりこれだけじゃ、大気圏を突破できるような推力は得られないぞ」


 壁には金属の配管が大木の根のように這い、机にはガラスで作られた奇妙な器具や、種々の薬剤や魔法の品が乱雑に並べられている。

 書棚には古いものから最新のものまで雑多に魔導書が乱暴に詰め込まれていた。


 中央の大釜の前には謎の液体を煮詰める黒髪の少女がいた。

 長い髪はぼさぼさで、眼鏡の下の黒い瞳にはどす黒いクマが浮いている。

 漆黒に染め上げられているためわかりにくいが、法衣ローブには様々な汚れがついているようだった。


 黒い少女は大釜の薬液を少しずつすくっては金属缶の中に入れ、蝋燭ろうそくであぶって爆発をさせる作業を繰り返している。

 どこからどう見ても、魔女が怪しげな儀式に取り組んでいるようにしか見えない。


「うーん、足りない。砲によって初速を稼ぐってアイデアは間違いないと思うんだけど、それだけで宇宙まで行くにはまだまだ足りないんだよなあ……どうやって補うべきか……」

「いや。いまのお前に足りないのは、貴族令嬢としての自覚だと思うぞ?」


 独り言を洩らす少女に、部屋の入り口付近に立っていた少年が応じる。

 少年と言っても背は高く、その身体は引き締まった筋肉で覆われていた。

 神殿にある戦神の彫刻を思わせる凛々しい顔つきには、わずかにあどけなさが残るものの、独特の迫力を醸し出す怜悧な青い瞳が輝いていた。


「いやいや、足りないのはヒドラの血ヒドラジンだよ。あれは水中でも燃える。燃焼という現象には、普通なら火精霊だけでなく風精霊の力も必要だ。水中では風精霊の加護はほとんど働かない。これはどういうことか? つまり、ヒドラの血ヒドラジンは風精霊の力を借りずに燃えることができる。すなわち、風精霊の加護が薄い高空であっても……」

「そんな話をしているんじゃない」


 少女の早口をさえぎった少年こそは、オルドリン公爵家の嫡子であるニルヘルムである。

 今年で17歳という若さであるが、すでに初陣を済ませており、多くの魔族や魔物を討伐する武功を挙げている。

 貴族や領民の間では、その凛とした風貌と武勇によって、オルドリン公爵家の始祖である英雄の再来と言われ人望を集めていた。


「それなら、何の話なのさ?」

「貴族としての自覚の話だ! だいたい、どうやったら貸した部屋をたった3日でこんな有様にできるんだ!」

「え、普通に過ごしてただけなんだけど」


 少女の返答に、ニルヘルムは思わずため息をついた。

 一体、どう「普通に過ごし」たら、滞在からたった3日でただの客室だったはずの部屋が魔女の研究室のようになってしまうのか。


「なあ、ユリィ。公爵令嬢としての『普通』って何だと思う?」

「ごめん、ニール。悪いけれど社会学はボクの専門外なんだ。貴族令嬢における一般的な生活態度についての統計調査はやったことがないし、論文も読んだことがないな」

「頼むからもっと普通に考えてくれ……」


 少女――ユリアーナ・ボストーク公爵令嬢は、ニルヘルムの質問に申し訳無さそう顔で返事をしたが、それを聞いたニルヘルムもがっくりと肩を落とした。


「普通、普通か。普通というのはむずかしいな。中央値を取るべきか、平均値を取るべきかなんて簡単な前提でさえ時に論争の種になる。それが『公爵令嬢らしさ』なんていう定量的な計測がむずかしい問題となるとなおさら――」

「ユリィ、お前、本当はわかってて誤魔化そうとしてるだろ?」

「さ、さあ、何のことかなあー」


 だらだらと冷や汗を浮かべるユリアーナに、ニルヘルムの視線が刺さる。

 ニルヘルムは知っている。

 ユリアーナは浮世離れしているが、決して世間を知らないわけではない。

 ただ、興味のない事柄には一切リソースを割こうとしないだけなのだ。


 冷や汗をかいているユリアーナに、ニルヘルムがずんずんと近づいていく。

 ニルヘルムの右手が上がり、ユリアーナの髪に触れた。


「本当はきれいな髪なのに、手入れをしないからこんなにボサボサじゃないか」

「ひぁっ」


 ニルヘルムのたくましい指が黒髪をゆっくりとくしけずると、ユリアーナはくすぐったさと恥ずかしさで思わず頓狂とんきょうな声を上げてしまった。


「この眼鏡もそうだ。わざわざ分厚いレンズのものを選んで。ああ、目の下のクマもひどいな。あとでメイドに乳液を持って来させるから、塗り込んでもらえ」

「ひゃ、ひゃい」


 眼鏡を取り上げられ、ニルヘルムの青い瞳がユリアーナの目を覗き込む。

 息がかかるほどに顔を近づけられて、ユリアーナの心臓は爆発しそうだった。


「で、今夜の予定はちゃんとおぼえているんだろうな?」

「えっ、今夜の予定って、なんだっけ?」


 眼鏡を返したニルヘルムに問いかけられて、ユリアーナは返答に詰まった。

 普段は明晰な頭脳がすっかり混乱していたのだ。


「舞踏会だ。舞・踏・会! そもそもうちの領に来たのもそれが目的だろうが」

「あっ、あーあー、舞踏会ね。舞踏会。もちろんおぼえてるって」


 ユリアーナの額に再び冷や汗が流れた。

 正直なところ、すっかり忘れていたのである。


 これは完全に忘れていたな……と察したニルヘルムは、真剣な顔でユリアーナに語りかけた。


「ユリィが社交に興味がないのはわかってる。だが、貴族としてそれは許されないことなんだ。俺たちに流れる青い血は、決して好き勝手を許してはくれない」

「はいはい、ボクだってわかってるよ、そんなこと」

「いーや、お前はわかってない!」


 真剣な問いに軽い調子で返されたニルヘルムは語調を強める。

 ユリアーナの性格は知り尽くしているので、ここはしっかりと釘を刺さなければならないと思ったのだ。


「俺たちの婚約を快く思っていない連中なんていくらでもいるんだ。社交を侮っていると、いつどこで足を引っ張られるかわからないんだぞ?」

「はぁい……」

「ただでさえユリィは象牙の塔魔術士連中と距離が近いと思われてるんだ。少しは愛想を振りまかないと、影でなんて言われるかわからないぞ」

「はぁい……」


 すっかり肩を落としてしまったユリアーナの姿に、ニルヘルムは思わずひるんでしまうが、ここは心を鬼にすべきだと思い直して言葉を続ける。


「とにかく、今夜の舞踏会には王族や他の公爵家も招待されている。だから、絶っっっ対に! 必ず! 天地神明に誓って! 舞踏会には出席するんだぞ!」

「はぁい……」


 ユリアーナの態度を見て、生返事になっているなと感じたニルヘルムは、ダメ押しの一言を付け加えることにした。


「もし今夜の舞踏会に出席しなかったら、婚約は白紙にさせてもらうからな」

「えっえっ、ちょっ、どういうこと!?」

「どうもこうもない。ただ舞踏会に顔を出せば済む話だ」

「それはそうだけど……」

「だ・か・ら、絶対に今夜の舞踏会には出席しろよ?」

「わ、わかったって」


 これならさすがにサボらないだろうと確信を得たニルヘルムは、ユリアーナの部屋を後にした。

 残されたユリアーナは、ひとり深いため息をついた。


 使い魔兼ペットの大蝙蝠オオコウモリを呼び寄せて、葡萄ぶどうを一粒与えながら愚痴をこぼす。


「社交が大事なのはわかるんだけどさあ……。正直、息は詰まるし、退屈で仕方がないんだよね。舞踏会に出てる時間でどれだけの実験ができることか……」

「キー! キー!」


 主人の心を知ってか知らずか、大蝙蝠は鳴き声を上げて葡萄にむしゃぶりついている。


「お前は生まれつき自由に飛べて羨ましいね。ボクも何のしがらみもなく、自由に空を飛び回ってみたいものだよ」

「キー! キー!」


 と、愚痴を言ってはみたものの、ああまで念を押されてはさすがにサボるわけにはいかない。

 正直まったく気は進まないが、ユリアーナは約束通り舞踏会に出ることを決めた。


 とはいえ、いまはまだ朝だ。舞踏会までにはまだまだ時間がある。

 気を取り直したユリアーナはぎりぎりまで実験を続けようと、大鍋に新たな触媒を加えるべく、薬棚を漁りはじめようとして、動きを止める。


 戸口を誰かがノックしたのだ。

 入室を許可すると、金糸銀糸をあしらった豪華なドレスを着て、豊満な胸元を大胆に露出した少女が入ってきた。


 少女は慇懃いんぎんなまでに優雅なカーテシーで挨拶をすると「ヒドラの血ヒドラジンが欲しいのでしたら――」と話を切り出した。


 * * *


(ああああああー!! ユリィのやつ、どうして来ないんだ!)


 綺羅びやかに着飾った貴族子弟たちが、美酒を片手にダンスや歓談を楽しんでいる会場の一角で、ニルヘルムは頭をかきむしりたくなる衝動を必死でこらえていた。

 社交にかかわる用事をすっぽかしてばかりいるユリアーナだが、これまでニルヘルムとの約束だけは破ることはなかったのだ。


(来なかったら婚約を破棄するとか、言わなきゃよかった……)


 婚約破棄云々は、あくまでも舞踏会に出席させるための方便である。

 オルドリン公爵家とボストーク公爵家は領地を接しており、互いに協力して魔族軍と戦っているということもあって関係は極めて良好だった。


 ユリアーナとニルヘルムも幼いころから付き合いがあり、政治的思惑が皆無とまでは言わないものの、お互いに好き合って婚約をしたのである。


「ニルヘルム様、お一人ですか? よかったらダンスのお相手をしてくれただけませんこと?」

「うん……? ああ、すまない。少し考えことをしていてね。何かご用かな?」

「い、いえ。なんでもございませんのよ」


 壁際で腕を組み、この世の終わりのような顔をしているニルヘルムには、他家の令嬢たちが入れ替わり立ち替わり声をかけていく。

 若くして数々の武勲を立て、容姿も整っているニルヘルムは多くの貴族令嬢たちから熱い視線を寄せられているのだ。


 貴族子弟同士の婚約など、政情が変われば解消されることが珍しくない。

 とくに、ニルヘルムの婚約者であるユリアーナは変わり者として有名だ。

 いまのうちに目に止まっておけば、いつかチャンスが巡ってくるとも限らないのである。


 しかし、ユリアーナで頭がいっぱいのニルヘルムは上の空で返事をするだけだ。

 これは脈なしだと諦めた令嬢たちは、軽く声をかけては諦めて他の貴族令息ターゲットに切り替えていくのだった。


 そんな貴族令嬢たちの思惑にはまるで気がつくこともなく、ニルヘルムは再び思考の海に没頭する。


(しかし、ユリィはなぜ来ないんだ……。宇宙開発とやらにばかり夢中になって……。はっ!? もしや、俺がうるさく言うものだから、嫌になって婚約を破棄したいと思っていたのか!?)


 絶望的な想像に囚われたニルヘルムの脳裏によぎるのは、ユリィと過ごした幼い頃の思い出の数々だった。

 城の庭園を一緒に駆け回ったり、虫取りをしたり、馬に乗って狩りをしたり、厨房に忍び込んで盗み食いをして叱られたり――。


(あれ? もしかして俺たち、男同士がやるような遊びしかしてない!?)


 ニルヘルムの脳内がさらに黒いもやで塗りつぶされる。

 ひょっとして、そもそも異性として意識されていなかったのではないかという疑問に襲われてしまったのだ。


(いやいや、そんなことはない。俺たちにだって吟遊詩人が歌うような思い出のひとつやふたつはあるはずなんだ)


 ニルヘルムが必死に記憶を漁ると、ある夜の思い出が浮上してきた。

 5年ほど前だったか。深夜に二人で城を抜け出し、鐘楼しょうろうに登って星空を眺めたのだ。


 * * *


「手を伸ばせば星をつかめそうな夜空だ。いつかあの星をつかまえて、ユリィにプレゼントしてあげたいよ」


 初春の空気は透き通っており、新月の夜空には無数の星星がきらめいていた。


「ニールって、案外詩人なんだね」

「た、たまにはこういうことを言ったっていいじゃないか」

「うんうん、似合わないけど、いいと思うよ」


 宮廷詩人から借用したセリフを決め顔でつぶやいたニルヘルムを、ユリアーナがからかうと、ニルヘルムの顔が真っ赤に染まった。

 その日はユリアーナの12歳の誕生日で、ボストークの城で正式な婚約を交わした日でもあった。

 ニルヘルムとしては、少し背伸びをしてでも格好をつけたかったのである。


「あの星空を自由に飛び回れたら最高だろうなあ」

「そうだねえ。ボクも風魔術を極めれば、飛べるようになるかなあ」

「ユリィは風属性だから羨ましいよ」


 ニルヘルムは照れ隠しに話題を逸らした。

 ユリアーナは風を操る魔術に高い適性がある。高位の風魔術士は、風をまとって空を飛ぶことができるのだ。

 一方、ニルヘルムは大地や金属を操る地魔術に適正があった。戦闘において有用性が高く、武門に好まれる属性であったが、空を飛ぶような真似は逆立ちをしてもできないのだ。


「ニールは、空が飛びたいの?」

「そりゃそうさ。反対に、空を飛びたくない人間なんているのか?」

「男のロマンってやつだね!」

「なんとでも言えよ。でもさ、あの星空を自由に飛び回れたら、絶っっっ対に気持ちがいいだろう?」

「うんうん、それについては同意だね」

「ほら、誰だって空は飛んでみたいのさ」


 ユリアーナは返事をせず、自分の肩を抱いてじっと考え込むような仕草をした。

 まだ春も浅い深夜だ。寒いのだろうと思ったニルヘルムが、自分の外套を脱いでユリアーナの肩にかける。

 すると、ユリアーナがぱっと表情を明るくして口を開いた。


「それなら、ボクがニールを空に連れて行ってあげる!」

「ははは、それは楽しみだな」

「冗談じゃないからね! 約束してあげるんだから!」

「ありがとう。気持ちだけでもうれしいよ」

「ボクは本気だからね! 約束ったら約束!」


 頬を膨らませてむくれるユリアーナの髪を、ニルヘルムはそっと撫でた。

 最高峰の風魔術士であっても、空を飛べるのは術者本人だけなのだ。

 自分を喜ばせようとけなげな約束をしてくれる婚約者を、ニルヘルムはたまらなく愛しく感じていた。


 そして、その夜からである。

 ユリアーナが魔術や錬金術の研究に没頭しはじめたのは。


 舞踏会や茶会などへの出席が激減し、自領に構えた研究室にこもりがちになった。

 王国中から貴重な書籍や素材をかき集め、怪しげな実験をして日々を過ごすようになった。


 気がつけば、それから5年の間にユリアーナは王国でも十指に数えられる風魔術の使い手となり、象牙の塔アカデミーの名誉准教授となるほどの才気を発揮したのである。


 魔術について、軍事向けの応用を求める貴族たちと、真理の探究を目的として基礎研究をやりたがる象牙の塔アカデミーの関係は率直に言って良好ではない。

 社交に熱心でなく、象牙の塔アカデミーに近いと見られたユリアーナは、貴族社会では浮いた存在になり、しばしば芝居に登場する悪役の如き扱いで陰口を囁かれるようになったのだった。


 * * *


(どうしてユリィはあんな研究馬鹿になってしまったんだ……って、俺のせいじゃねえかっ!!)


 良い思い出を探ろうとして、思わぬ闇を引き当ててしまったニルヘルムは、再び襲ってきた頭をかきむしりたくなる衝動を必死でこらえた。

 なんなら舞踏会を抜け出して、いますぐユリアーナの部屋に駆けつけたい気持ちにすらなっている。


 傍から見ても、そわそわと落ち着かない様子のニルヘルムに、またひとりの貴族令嬢が声をかけてきた。

 金糸銀糸をあしらった豪華なドレスを身にまとい、ニルヘルムの腕を取って豊満な胸元を押し付けてくる。


「何か心配事でもございますの? ニルヘルム様」

「ああ、いや、なんでもない。今夜の舞踏会は楽しんでもらえているかな、ネトリー男爵令嬢」

「お料理もおいしくて、音楽も美しい。あとはダンスのパートナーさえ見つかれば言うことなしなのですけれども」


 ネトリーは、長いまつげに縁取られた瞳でニルヘルムを上目遣いに見る。

 ネトリーの家はもともと平民であったが、商家として財を成し、没落した貴族家をほとんど買収するような形で爵位を手に入れた成り上がりだ。


 ニルヘルムに出自を卑しむような考えはないが、隙あらば利益を得ようとする飢えた野獣のようなその姿勢と、ことあるごとに言い寄ってくる態度に苦手意識を感じていた。


「俺は婚約者を待っているからな。ダンスの相手なら、アンドリアン子爵令息が手持ち無沙汰のようだ。彼を誘ってみたらどうだい?」

「アンドリアン様はわたくしを見る目が少し怖くて……」


 会場を見回してみると、ニルヘルムに腕を絡ませるネトリーに嫉妬のこもった視線を浴びせる貴族令息が何人もいることに気がついた。

 ネトリーはニルヘルムと同じ年頃のはずだが、それに似つかわしくない妖しい色気を身にまとっている。


 元が平民という奔放さも、貴族子弟たちを惑わせる魅力となっているのだろう。

 苦手な相手であったが、今夜の舞踏会はボストーク家の主催だ。

 来客をあからさまに冷たくあしらうわけにもいかない。

 一曲くらいは付き合うかと諦めかけたところで、会場の入り口付近から悲鳴が上がった。


「きゃぁぁぁ! 何か入ってきましたわ!」

「キー! キー!」

「魔物が紛れ込んだのか!? 衛兵は何をしている!」

「キー! キー!」


 黒い影が宙を舞い、ニルヘルムに向かって一直線に飛んでくる。

 咄嗟に腰の短剣を抜こうとしたが、黒い影の正体に気がついて思いとどまった。


「なんだ、ユリィの使い魔じゃないか」


 何か急用ができて舞踏会に出られなくなったことを知らせに来たのだろうか。

 無断欠席ではなくてよかった……とニルヘルムは内心で胸を撫で下ろす。


「キー! キー!」

「そんなに慌てて何があったのだ。ほら、ここに掴まれ」

「キー! キー!」

「これで少しは落ち着いたか。む、足に手紙が結びつけてあるな」


 頭上を飛び回る大蝙蝠は、ニルヘルムが差し出した右腕にぶら下がった。

 その足首に紙片が結ばれていることに気がついたニルヘルムは、それを手に取り内容を確認する。


「白骨の森に九つ首のヒドラが現れただと……!? おい、至急騎士団を招集しろ!」


 突然の知らせに、舞踏会の会場が騒然とした空気に包まれた。

 衛兵や従者が伝令に駆け回り、事情のわからないものたちはおろおろと戸惑う。


 そんな中、ネトリーが密かに舌打ちしていたことに、気がつくものはいなかった。


 * * *


 ヒドラ――それは、魔物の一種である。

 巨大な蛇の姿をしており、水棲の竜属ドラゴンの仲間とされる。

 湖沼や湿地などの止水に棲息するが、旺盛な食欲を満たすため、水場から遠く離れて活動することもある。

 捕食量が多く、また縄張りも広いため、個体数は少ない。


 強力な毒を持ち、それを高温のガス状にして吐き出す。

 最大の特徴は首の数だ。

 幼生のヒドラは1本の首を持つ大蛇にしか見えないが、成長につれて首の数が増えていき、危険度も増していく。

 大きく成長したヒドラは、高位の魔族の使い魔として好まれるという。


 もっとも、増えた首は本物ではない。

 どの首も毒の息ブレスを吐き、鋭い牙を持つ口で噛みつき、長い首で巻き付こうとしてくるが、本物の1本以外はすべて擬態である。

 擬態の首を落としても効果がないが、ただひとつある本物の首を落とせばヒドラはたやすく仕留めることができるだろう――。


「――っていうのがセオリーだけど、本物の首を狙うのがまず難易度高すぎなんだけど!?」


 ユリアーナは殺到する毒の息ブレスを風魔術で弾き飛ばし、襲い来る牙を地面を転げ回って回避する。

 客室ラボを訪れた少女から、白骨の森にヒドラが現れたと聞いたユリアーナは、矢も盾もたまらずに城を飛び出して現地へ向かっていたのだ。


 ボストーク公爵領は幼い頃から何度も訪れた経験があり、土地勘はある。

 飛行魔法が使えるユリアーナにとって、白骨の森との往復程度であれば、軽い散歩程度の感覚だったのである。


 ヒドラにしても、相対するのは初めてのことではない。

 研究用の素材を得るために、自ら狩った経験もある。

 その実験により特性を知ったからこそ、ヒドラの血ヒドラジンを求めていたのだ。


 ただし、ユリアーナが狩ったヒドラは三つ首である。

 そして、いま対峙しているヒドラの首は九つだ。

 体高はゆうに数倍はあり、もはや生物というよりも塔のような建造物に近い迫力を感じさせる巨大さである。


「少しは効いてよねっ!」


 ヒドラの猛攻をかいくぐり、ユリアーナは杖に込めた魔力を解放する。

 円筒形にくり抜かれた杖の先端から、金属製の弾丸が射出され、九つあるヒドラの頭のひとつに突き刺さった。


 これは、ユリアーナが開発した魔道具のひとつである銃杖だ。

 圧縮した風魔術によって鉄の筒に詰めた金属弾を発射する武器である。

 風魔術は攻撃には向かないという定説を覆した大発明であった。


 だが、ヒドラの勢いは止まらない。

 ユリアーナを打ち据えようと、大人の両手でも抱えきれないほどの太い首を鞭のように振るう。

 白骨の森の白い木々が軽々となぎ倒され、土煙が立ち込める。


「くそう……せめて飛びながら攻撃できたらよかったのに……」


 この九つ首のヒドラの弱点はすでにわかっているのだ。

 一本の首だけは攻撃に参加せず、他の八つの首で攻撃を仕掛けてきている。

 垂直に鎌首をもたげている中央の首こそが、擬態ではない本物であるということは明白であった。


 本物の首さえ攻撃できればどうとでもなるのだが、他の首が邪魔をしてそれができない。

 ユリアーナが愚痴をこぼすように、飛行しながら攻撃ができるのであれば苦労はなかっただろう。

 上空から本命の頭を攻撃してしまえば済む話なのだ。


 しかし、飛行魔術は高位魔術士であっても深い集中と多量の魔力を求められる大魔術である。

 宙を飛びながら攻撃魔法を展開できるような魔術士は、少なくとも王国にはひとりも存在しなかった。

 天才の名をほしいままにするユリアーナであっても、飛行魔術と攻撃魔術を両立させるような離れ業は不可能だったのだ。


「何もなければ、逃げて済ませればいいだけなんだけど――」


 ここに飛んでくる途中、眼下にいくつもの農村を見かけている。

 人間の匂いでも察知したのか、ヒドラはそれらの村に向かって真っすぐ進んでいたのだ。


 使い魔の大蝙蝠を使って危機を知らせる連絡はした。

 だが、住民たちが避難を終えるには半日以上を要するだろう。

 打ち倒せぬまでも、避難に必要な時間くらいは稼がなければならないと考えていたのである。


 愚痴をこぼしながら猛攻をしのいでいると、首のひとつが凶悪な口を開いた。

 口腔の奥に、青白い炎が揺らめく。


「くっ! 風の精霊よ、我が身を守る盾となれ! 風のヴェントゥス護りスクトゥム!」


 ヒドラの擬首のひとつから放たれた高熱の蒸気が、2つに分かたれて背後を焼く。

 白樺しらかばの生木が何本も、瞬く間に消し炭となって溶けて消えた。


「高温と猛毒の合わせ技……あんなの食らったら、ひとたまりもないね」


 額に浮いた冷や汗を、法衣ローブの裾で拭い取る。

 魔力も尽きる寸前だ。足止めするどころか、逃げ去るだけの余力もない。


 再び、ヒドラが毒の息ブレスを吹き付けてくる。

 今度は2本の首から同時に放たれていた。

 ユリアーナは風のヴェントゥス護りスクトゥムを発して耐えるが、疲れ切った身体ではいつまで持ちこたえられるかわからない。


 いっそのこと、残る魔力をすべて使って大技に賭けようか……と考えはじめたそのときだった。


「このクソ蛇がっ! ユリィに何をしてくれてるんだッッ!!」


 耳慣れた声がしたかと思うと、次の瞬間、長大な槍がヒドラの首を2本まとめて串刺しにしていた。


 * * *


「ニール、一人で来たの!?」

「馬より速く走れるやつは他にいないからな!」


 肩で息をするユリアーナをかばうようにニルヘルムが前に出る。

 腰の剣を抜き、ヒドラに向かって切っ先を向ける姿は絵物語の英雄のようだった。


「ここは俺が時間を稼ぐ。ユリィは逃げろ」

「一人じゃ無理だって!」

「なに、時間稼ぎくらいなら俺ひとりでも――大地の壁ムルス ラピス!」


 二人が言い争うわずかな隙に、槍を振り払ったヒドラがまたしても毒の息ブレスを吹き付けた。

 それに気づいたニルヘルムが咄嗟に防御魔法を展開。

 大地が隆起して石の壁が出現し、ヒドラの毒の息ブレスを遮った。


「ほら、なんとかなるだろう?」

「それだけじゃダメなんだって! 風のヴェントゥス結界スパエラ!」


 ユリアーナが魔術を放つと、二人を中心に突風が巻き起こる。

 それにより、石壁を回り込んできていた黒いガスが吹き散らされた。


「ヒドラの息は毒だから。直撃を防ぐだけじゃ足りないんだよ」

「ったく、厄介な魔物だな……」

「ちょっと吸うだけで肺がただれるから、気をつけてね」

「気をつけようがねえな、それ」


 軽口を叩きつつも、ニルヘルムは大地から石槍を生成してヒドラに投げつける。

 はじめの一撃に懲りたのか、ヒドラは首を振るってそれを叩き落とした。


「ちっ、急ごしらえの石槍なんかじゃ通らないな」

「相当硬いよ、銃杖もぜんぜん効かなかったし」

「援軍が来るまで守りの一手か」

「どれくらいで来る?」

「小一時間ってところだな」

「それならなんとかなりそうだね」


 ヒドラの直接攻撃はニルヘルムの地魔術でことごとく防ぎ、毒の息ブレスはユリアーナの風魔術で吹き散らすという分業が成り立っていた。

 ユリアーナのみで耐えしのいでいたときに比べ、大幅に負担が軽くなっている。

 小一時間程度であれば、余裕を持って持ちこたえられそうだった。


 そのとき、二人の背後から女の笑い声がした。


「うふふ、このまま乗り切られたのでは、面白くありませんわね」

「誰!?」

「ネトリー男爵令嬢!?」


 ヒドラの攻撃を警戒しつつ、二人は背後を振り返る。

 そこには、金糸銀糸であしらったドレスに身を包んだ少女が立っていた。

 魔物の潜む白骨の森にはどう考えても場違いな姿であった。


「ごきげんよう、ニルヘルム様。ユリアーナ様はわたくしの名もおぼえていらっしゃらないのですね、残念ですわ」

「こんなところで何をしている?」

「それはもちろん、わたくしの可愛い使い魔ペットの応援に参ったのですわ」

「使い魔だと……まさか!?」

「そのまさかですの」


 その言葉とともに、ネトリーの背に黒い粒子が集まり翼をかたどった。

 一回、二回と羽ばたくと、ふわりと宙を舞ってヒドラの本物の頭に降り立つ。


「ネトリー、貴様、魔族だったのか!」

「ご明察でございますわ。内側から人間たちを崩してあげようと思っていましたのに、ニルヘルム様がつれない態度ばかり取られるので実力行使をすることにしましたの」

「なんだと?」

「ユリアーナ様が亡くなれば誘惑する隙もできると思いましたのに。まぁ、これも良い機会ですの。王国の未来を担う人材と名高いお二人が亡くなれば、それはそれで問題ございませんわ」


 ネトリーは、ヒドラの頭上で手の甲を口元に当てて高笑いをする。

 それを見たユリアーナが、何か閃いたとばかりにネトリーを指さした。


「わかった! あなたはボクにヒドラの居場所を教えてくれた人だね!」

「いまさら思い出したんですのっ!?」

「……ユリィ、さすがにそれは可哀想な気がするぞ」


 ネトリーの顔が紅潮し、ぎりぎりと歯ぎしりをする。


「まったく……人間風情が調子に乗って! いいですわ、これからわたくしと、この九頭の魔獣ノヴェム ヒドラの本気を見せて差し上げますの。冥土の土産によーく目に焼き付けておくことですわ!」


 そう叫ぶと、ネトリーの下半身がぐずぐずと溶け出し、沈み込むようにヒドラの頭と融合した。

 ヒドラは巨体をブルリと震わせ、一層禍々しい気配を全身から放ちはじめる。


「魔族の使い魔は、主の魔力を吸収することで大幅に強化されますの。さて、援軍がやってくるまで持ちこたえられるかしら?」


 ヒドラの八つの首から、それまでとは比較にならない勢いで毒の息ブレスが一斉に吐き出された。


 * * *


「はぁ、はぁ……さすがにキツイね、これ」

「ああ、1時間どころか、30分もつかも怪しいな」


 焼け野原と化した森の中に、息を乱したユリアーナとニルヘルムが立っていた。

 木々は消し炭となり、大地は毒に侵されて汚らしい緑色に変色している。

 もはやそこは森と呼べるような状態ではなかった。


「オホホホホホホホ! どうなさったのかしら? 先ほどから守ってばかりで、わたくし、少し退屈してしまいますわ」


 ヒドラと一体化したネトリーは、嘲りながらも攻撃の手を休めない。

 毒の息ブレス、牙、擬首と尾による薙ぎ払いを組み合わせ、二人が息つく間もない連撃を繰り出している。


 ネトリーから魔力供給を受けたヒドラは、格段に強力になっていた。

 身体能力が引き上げられたのみでなく、ネトリーが操ることで知能の低い魔獣では不可能な狡猾な攻めを実現していたのだ。


「たしかにこのままじゃジリ貧だな。ユリィ、やっぱりここは俺が引き受けるから、お前だけでも逃げろ!」

「ひとりじゃ1分も耐えられないよ。むしろボクが残った方が時間を稼げる」

「馬鹿! お前を置いて逃げられるものか!」

「あはは、ボクの婚約者様は頼もしいね」

「冗談を言っている場合じゃ――」


 頭上からヒドラの巨大な尾が振り下ろされ、二人は横っ飛びに避ける。

 大地が砕かれ、轟音と土煙が撒き散らかされた。


「こんなときにまでイチャつくなんて、まったく見せつけてくださいますのね。そうだ、どちらかひとりだけ助けてあげることにしますの。先に逃げた方は追いかけませんわ」


 ネトリーが、ニヤニヤと笑みを浮かべる。

 その顔は、蛇を思わせる冷たいいやらしさがあった。


「だってさ! ニール、先に逃げて!」

「簡単に信じすぎだろっ! 絶対に嘘だろそれ!」

「えっ、嘘だったの!?」

「当たり前だろっ!」

「だーかーらー! わたくしを差し置いてイチャつくんじゃないですのっ!!」


 自らの嗜虐心を満たすための提案を、夫婦漫才のようなやり取りで返されてネトリーは激高した。

 八つの首をめちゃくちゃに振るい、二人に向かって何度も振り下ろす。

 土煙がもうもうと舞い上がり、二人の姿が見えなくなった。

 もしまともに受けていたら、肉片すら残らず粉々になっていただろう。


「はぁ……はぁ……まったく、苛立たしい方たちですわ。もう絶対に生かして帰しませんの」


 大暴れをして多少気の晴れたネトリーが攻撃の手を休め、土煙が晴れるのを待つ。

 やがて、土煙の隙間から姿を見せたのは、岩でできた半球形の物体だった。


「地魔術で作ったシェルターに立てこもったのですね。うふふ、苦し紛れですわ。それなら外から蒸し焼きにして差し上げますの」


 ヒドラの首がぬるぬると蠢き、岩のシェルターを取り囲むように動いた。

 一斉に毒の息ブレスを吐き出そうと魔力を溜めはじめたそのとき、シェルターが変形を開始した。


 * * *


 ほんの少しだけ時は遡る。

 ヒドラが暴れだした際、ニルヘルムは咄嗟に術式を展開して半球状のシェルターを作り出した。

 こうした応用力の高さこそが、土魔術が戦闘に優れるとされる理由である。


「ひとまずはしのげるが、篭もりっぱなしってわけにもいかないな」

「うん、外から毒の息ブレスを浴びせられたら、蒸し焼きにされちゃうね」


 絶え間ない衝撃音を聞きながら、二人は作戦を練る。

 絶望的な窮地ではあるが、簡単に諦めるような二人ではない。

 片や武門の誉れ高いオルドリン家の嫡子であり、片や王国でもきっての風魔術士と言われる天才なのだ。


「なんとか近づければ、この剣で斬り捨ててやるんだがな……」


 ニルヘルムが悔しげに唇を歪める。

 土魔術で作った武器と、職人が丹念に仕上げた武器とでは性能に確たる差がある。

 初撃でヒドラの首を貫いた投げ槍も、オルドリン家お抱えの鍛冶師が鍛えた名槍であったのだ。


「近づければ、いけるの?」

「ああ、自信はあるぜ。あの強度なら、剣の間合いにさえ入れば一撃で両断できる」

「そう……それなら、空を飛ばない?」

「は? 空を? こんなときに何を言ってるんだ」

「形になるまで秘密にしたかったんだけど、今から作戦を説明するね――」


 ユリアーナの語る作戦を、ニルヘルムは真剣な面持ちで聞いた。


「――ってかんじだけど、いけそう?」

「俺を誰だと思ってるんだ。天才風魔術士の婚約者、ニルヘルム様だぞ? ユリィ、お前の方こそ魔力は足りるのか?」

「ニールこそボクを侮らないでほしいね。ボクはあの英雄の再来と名高い貴公子の婚約者なんだからね?」

「ははは、そういえばそうだった。それじゃ、準備をはじめるぞ!」


 短い軽口を交わした後、二人は全力で魔力を練りはじめた。


 * * *


「自らシェルターを解除するなんて、やっと観念したのかしら?」


 毒の息ブレス用の魔力を溜めつつ、ネトリーは変形する岩のシェルターに注意を向けていた。

 安全策を取るのであれば、一旦毒の息ブレスを止めて本首の防御を厚くするべきであったが、そういうわけにもいかない。


 終始余裕で二人をいたぶっているように見えたネトリーだったが、内心には焦りがあった。

 二人の抵抗が予想以上に長引いたため、そろそろ援軍が来るのではないかと気が気でなかったのだ。


 九頭の魔獣ノヴェム ヒドラは強力な魔獣であったが、精強を誇るオルドリン家騎士団に囲まれてしまってはさすがに太刀打ちできない。

 この一撃で決着をつけるべく、ヒドラに己の魔力を注ぎ込んでいく。


 その間にも、シェルターの変形が進んでいく。

 防御用の外壁が取り払われると、中から巨大な岩の筒と、隣に立つユリアーナの姿が現れた。


「なんですの、それは!? それにニルヘルムはどこに!?」


 ユリアーナの周囲にニルヘルムの姿が見当たらない。

 もしや、土魔法でトンネルを掘り、地下から奇襲してくるのではないか――そんな不安に襲われたネトリーは、自らの足元に注意を奪われた。


「俺はどこにも行ってねえよ」


 筒の中から、ニルヘルムのくぐもった声が聞こえた。


「はあ? どうしてそんなところに?」


 ニルヘルムの行動の意図が読めないネトリーが、間の抜けた声を上げる。


「ユリィ! 準備は万端だぞ!」

「了解! では、ニルヘルム・オルドリン砲発射ぁぁぁあああ!!!!」

「変な名前をつけるなぁぁぁあああ!!!!」


 筒の奥でユリアーナの風魔法が炸裂する。

 逃げ場のない風は凄まじい圧力を生み出し、下半身を土魔術で防護したニルヘルムの身体を加速する。

 常人なら瞬時に気を失うような重力加速度に耐えながら、ニルヘルムは音を置き去りにして空に向かって飛び出した!


 音速の弾丸と化したニルヘルムは、すれ違いざまにヒドラの頭部をネトリーもろとも横薙ぎに両断し、青空の彼方へと消えていった。


 * * *


 事件から数カ月後。ボストーク公爵家の城にて。

 新月の夜空には星々が瞬き、そのかすかな光に照らされて、金属製の巨大な筒が天に向かって伸びている。


「なあ、ユリィ、これ本当に大丈夫なのか……?」


 狭い座席に押し込められたニルヘルムが、青い顔で隣のユリアーナに話しかける。


「もちろん大丈夫だって! 筒も機体も、地霊族ドワーフの職人に特注した一級品だし、なにより、今度はボクも一緒に飛ぶんだから!」

「お、おう……」


 機体とは、筒の中に設置された円錐状の物体のことである。

 鈍い銀色に光るその中に、ニルヘルムとユリアーナは並んで入っていた。


「これで飛んだ後、着地はどうするんだ?」

「もう、何回も説明したじゃん。下級飛竜ワイバーンの皮膜をつないで作った傘が仕込んであるからね、それで風をつかんでゆっくり降りれるようになってるんだよ」

「そ、そうか。そうだよな。何度も同じことを聞いてすまなかった」

「ニールらしくないなあ。もしかして、ビビってる?」

「誰がビビるか! ほら、家の者どもが気がつく前に、さっさとはじめるぞ!」

「うんうん、それでこそ我が愛しの婚約者様だ。それじゃ、舌を噛むからしばらく黙っててね」


 ビビっていない――というのは率直に言って強がりである。

 先日の事件で、風魔術士以外ではじめて空を飛んだ人間となったニルヘルムだが、その勢いのままに湖に墜落し、危うく溺れるところだったのだ。


 とはいえ、常人であれば原形も残らない惨事となっていたのは間違いなかった。

 並外れた魔力を持ち、土魔法によって強化された肉体をもつニルヘルムだったからこそその程度で済んだし、ユリアーナもそれを信じてニルヘルム・オルドリン砲を発射したのである。


「では準備万端! 秒読み開始! 10、9、8……3、2、1。ユリアーナ・ニルヘルム砲発射ぁぁぁあああ!!!!」

「これも砲なのかよぉぉぉおおお!!!! んぎゃっ!」


 何週間もかけて仕込んだユリアーナの儀式魔術が筒の底で炸裂し、二人が乗り込んだ銀の機体を瞬時に超音速にまで加速する!

 こらえきれずにツッコミを入れてしまったニルヘルムは思い切り舌を噛んで悶絶していた。


 打ち出されて少し経つと、今度は緩やかに身体が軽くなっていくような感覚がやってくる。

 舌の痛みから解放されたニルヘルムが丸窓に視線を移すと、点々と照明の灯った城や城下町が暗闇に浮かび上がり、精緻な絵画のように眼下に広がっていた。


「すごい光景だな……これは……」


 一度だけ空を飛んだニルヘルムだが、その光景にすっかり絶句していた。

 あのときよりも遥かに高く飛んでおり、何より、ゆっくり景色を楽しむような余裕もなかったのだ。


「ふふふ、こんなのはまだまだ序の口さ。そういえば、なぜボクがヒドラの血ヒドラジンを欲したかは説明していなかったかな?」

「高空では風精霊の力が弱いからなんとかとは話していたな」

「そうかそうか。それなら改めて説明しよう。ヒドラの血ヒドラジンは水中でも発火する。その後の実験によって真空中でも燃焼することが確認できた! つまり、風精霊がほとんど働かなくなったこの高度であっても、ヒドラの血ヒドラジンは問題なく燃料として使用できる! というわけで、ヒドラ・ブースター点火ぁぁぁぁあああ!!!!」

「ぬわぁぁぁあああ!!!!」


 銀の円錐から真っ赤な炎が吹き出されると、打ち上げ時にも勝る勢いで加速!

 ニルヘルムの身体は再び座席に押し付けられ、ろくに身動きも取れないほどだ。


「な、なああ? ユユリィ?」

「なななななんだいい? ニニニニール?」


 機体の激しい振動でまともに話せていないが、嫌な予感に耐えきれなくなったニルヘルムが疑問を口にした。


「ききき気のせいだといいいんだが、きき金属がきしむ音ががが」

「ははっははは、ミミミミスリルまでね練り込んだ、と特注のき機体だぞ? そそそそ、そんなわけががが……あ、あれ?」

「いいいいまっ! お前も気がついたよなああああ!!??」


 直後、機体は爆発四散し、星空に大輪の花を咲かせた。

 それは遠く離れた王都からも観測され、見たことも聞いたこともない前代未聞の天文現象に、占星術師たちはこれが瑞兆ずいちょうであるのか凶兆であるのか何週間にもわたって寝ずの議論を繰り広げたという。


 * * *


 またまた数ヶ月後。ユリアーナの私室にて。


「やあ、ニール、2号機の試作ができたんだが、乗っていかないか?」

「乗馬の誘いみたいに気軽に言うんじゃない」

「むぅ、残念だ。せっかくまた二人乗りにしたのに」

「あのなあ、ユリィ。星空を飛びたいって俺の夢はもう叶えてくれたんだ。もう、そんなに無理をする必要はないんだぞ?」

「ニールの夢……?」


 ユリアーナはしばし首をかしげ、それからポンと手を打った。


「ああ、そうか! ニールが宮廷詩人を丸パクリしたときの約束!」

「それはもう忘れろ! って、宇宙開発にのめり込んでたのはあの約束のせいじゃなかったのかよ!?」

「ううん、いや、たしかにきっかけはそうだったんだけどさ」


 ユリアーナはぽりぽりと頬をかいた。


「やってるうちにどんどんのめり込んじゃって。いまやボクの夢になってるっていうか、もういっそ月まで飛んでいけないかなあとか」


 それを聞いたニルヘルムは、がっくりと肩を落としてため息をついた。


「そんな気もしてたよ。まあいい、それじゃ2号機とやらに乗ってみるか」

「えっ、えっ、いいの?」


 部屋を出て庭へと向かおうとするニルヘルムの背中に、ユリアーナは問いかける。

 ニルヘルムは足を止めて振り返り、戸惑うユリアーナの黒髪をそっと撫でた。


「ユリィの夢は、俺の夢だ。夫婦はなんでも分かち合うものらしいぜ」


 ニルヘルムの言葉に、ユリアーナの頬が真っ赤に染まる。

 そして、しどろもどろになりつつも言い返した。


「ふふふ、今度のセリフは詩人のパクリじゃないみたいだね」

「だーかーら! そのネタを掘り返すのはもうやめてくれ!」


 ボストーク城を見下ろす星空に、仲睦まじい笑い声が響き渡るのだった。


(了)

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その公爵令嬢は大気圏を突破する!~幼なじみから婚約破棄をちらつかされたけど、それでもボクは宇宙を目指す~ 瘴気領域@漫画化してます @wantan_tabetai

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