第24話

 帝の初見えの儀式は、叡条尚侍の言葉が伝わったのか、大朝会の翌日から行われた。

 最初のお渡りは、猫目の侍女が言った通り、朱雀の后宮だったらしい。

 その翌日、青龍の后宮へ、その次の日に白虎の后宮に無事お見えがあったと伝わってきた。

 そして次の日は玄武かと思われたが、何も知らせは来なかった。

 このまま玄武にだけ初見えがなければ、一の后に大きな恥をかかせたことになる。

 玄武公が弟宮を擁立したいのは、もはや隠そうともしていない周知の事実だ。このことが皇帝の抗議の意趣返しであるなら、后の恥だけにとどまらない大事件となりかねない。

 どうなることかと王宮内は騒然としたが、ぎりぎり十日の期限の日に帝がお渡りになるという先触れがきた。

「ああ、良かった……。このまま無視されるのかと思いましたわ」

「玄武だけ初見えがなかったなんて、しつけながら末代までの恥となるところでした!」

 壇々と茶民は、ほっと胸をでおろしているが、董胡はいよいよ来る時がきてしまったと、朝からゆううつな思いで儀式の準備に従うしかなかった。

 昼過ぎから湯殿で身を清め、いつもより念入りにお化粧をして髪を結い、これでもかと金細工のかんざしを差して真珠を垂らし、着物はうんもん黒地に鶴亀しゆうの縁起物だ。大小の八重菊をあしらった真っ赤な帯は前で胸高に結び、いつつぎぬの重ねたすそいっぱいに広げて座して待つ。

 帝のお渡りの日は、貴人回廊からそのままきさきの部屋に導くようにしよくだいが等間隔に置かれろうそくの火をともしていた。

 董胡の座る御簾の前の御座おましどころには帝が座るうんげんべりの厚畳ときようそくが設けられ両脇に燭台が立てられている。

 庭に面したふすまは開かれ、広縁ごしに空に浮かぶ月が中庭の池に映るのを眺められる。

 きんもくせいの枝を床の間に飾り、甘い香りが部屋を満たしていた。

 御簾の中にも燭台を一つ立てているが、手前に置いて董胡はなるべく奥に座った。

 燭台の周りだけがうっすらと見えているが、御簾ごしではお互いに影絵のようにしか見えない。

 侍女二人は董胡の御簾の隣にある控えの間に座して帝のお見えを待っていた。

 二人は御簾を出る前に「たとえどのようなぶ男であろうと、噂通りのうつけであろうと、くれぐれもご無礼な行動はせず受け入れてくださいませ」と念を押していった。

 それが貴族に生まれた姫君の運命なのだそうだ。

 だが初見えはあくまで顔合わせの儀式であって、この日はあいさつだけして帰る場合もあると聞いた。董胡としては、なるべく話だけで済ませる方向に持っていき、なんだったら、もう二度と来るまいと思うほど嫌ってもらえるとありがたい。最悪の場合、御簾の中に入ろうとするならば、茶民の入れ知恵の通り「急に月のものが来てしまい……」と言って謝るしかないだろうと考えていた。それでも無理に押し入ろうとされたら……。

 そうなったら、その時は覚悟を決めて投げ飛ばすなり受け入れるなりするしかない。

 今日で大きく人生が変わる覚悟だった。出来るものなら今すぐ逃げ出したい。

 ずいぶん待たされ、もう今日は来ないのではないかと思い始めた夜半に、ようやく「みかどのお越しでございます」と先触れの使者が告げた。

 董胡は緊張しながら、すでに御簾の中で三つ指をついて頭を下げていた。

 御座所の出入り口の襖が開き、再び閉じられた音がした。

 足音と共にしたがさねの裾が畳を擦る音が聞こえ、董胡はごくりと息をのんだ。

(ついに帝が来てしまった。ああ、どうしよう……)

 いろいろ覚悟は決めていたものの、皇帝陛下を前に緊張が高まる。やっぱり投げ飛ばすなんて無理に違いない。この方に逆らって、この国で生きていける場所などない。雲の上の皇帝様なのだ。

(なにがあっても従うしかないのか……)

 半分あきらめの境地だったが、男装がばれそうになった時もいつもなんとか切り抜けてきた。董胡には昔から窮地に打ち勝つ不思議な運のようなものがあった。

(大丈夫。きっとなんとかなる。今回も切り抜けてみせる)

 するりするりと部屋の真ん中に進む気配がして、ふっと息を吹く音がした。

 董胡はそっと顔を上げて、御簾の向こうをうかがい見る。

「?」

 驚いたことに御簾の向こうは真っ暗闇になっていた。

 燭台を二つ置いていたはずだが、明かりは消えせている。どうやらさっきの息を吹くような音は、帝が蠟燭の火を吹き消した音だったらしい。

(な、なにをするおつもりなのだ?)

 今では部屋の中の明かりは、董胡の御簾の中にある燭台一つだ。

 こちらからは何も見えないが、帝からは董胡の姿が見えているはずだ。燭台から離れて座っているため、はっきりとは見えないだろうが影の輪郭は映っているに違いない。

 空気が張りつめ、お互いのわずかな動きが風にのって伝わるような気がする。

(こちらを見ておられる)

 何も見えないが、帝が御簾の前に立ち董胡の輪郭を無言で見つめているのが分かった。

 そして、地の底から響くような低く澄んだ声が聞こえた。

「そなたは何者だ」

「!」

 初対面の后にかける言葉では到底ない。

(まさか私の素性がばれている?)

 なんと答えていいのか分からず、董胡は無言のまま暗闇を見つめた。

「玄武公が目障りな私のもとに送り込んだのは、鬼か蛇か? 答えるがいい」

 りんとした声の響きに、董胡の心臓が早鐘を打つ。

(迷いのないそうめいな声の響き。この方が本当にうつけと呼ばれている方なのか……)

 途方もない威厳を感じる。これが帝と呼ばれる方の存在感なのだと体が震えた。

 なのか恐怖なのか、声を出そうにも言葉が出ない。

「ふ……。答えられぬようだな。図星ということか」

 激しい憎悪を感じる。初対面だというのになぜ? という思いが一層何を答えていいのか分からなくさせる。

 不意に動揺する董胡の体がふわりと浮き上がったような気がした。

(風?)

 月がくっきり見えるような静かな夜の室内に風など吹くわけがないのに。

 だが確かに下から突き上げるような風を感じた。そして次の瞬間。

「?」

 バサリと何かが畳の上に落ちる音がした。だが視線を上げた時には、御簾の中に一つだけ灯っていたはずの蠟燭の火まで消えて、闇だけが広がっている。

 中庭に浮かぶ月だけが遠くにくっきりと見えて、その月光を背に黒く照らされた人影が闇に慣れた目にはっきりと映った。

 頭に冠をつけ、正装姿の背の高い男性。

 腰まである長い髪が月の光をまとい、着重ねた衣装と帔帛が俊敏に動いた反動で半円を描くように揺れている。そして高く掲げた腕から長いそでとそれを縁取る組みひもが垂れていた。その高い位置にある手には信じられないものが握られている。

 董胡は月光に反射するように光るそれを、がくぜんと見つめていた。

(剣?)

 長い剣が切れ味を見せつけるように金属の輝きを放っている。

 そしてなぜこれほど闇の中ではっきりと見えるのかが分かった。

 御簾が切り裂かれていたのだ。

 さっきバサリと落ちた音がしたのは、切り裂かれた御簾だ。

 そして燭台に立ててあった蠟燭も一緒に切れて先がなくなってしまったらしい。

(な、なにを……。まさか私を斬り捨てるつもりなのか?)

 董胡はあまりのことにガクガクと震える手を畳についたまま目まぐるしく考えた。

 だが思考は停止してしまっている。もはや逃げる場所などない。

 相手は抜き身の剣を持ち、董胡は動きにくい着物を着て無防備に座してしまっている。

 まさか玄武公はこうなることを予想して董胡に一の后を命じたのか。

 余命の短い后だと分かっていたから侍女頭すらつけずに王宮に送り込んだのだ。

 はなから自分の娘だなどと思っていなかった。駆け落ち相手との間に出来た憎々しい娘にふくしゆうするつもりだった。董胡には何の罪もないというのに。

 この帝にしても、玄武公との間にどのような確執があるのか知らないが、董胡に復讐してどうなるというのか。なぜ董胡がそんな恨みをすべて引き受けねばならないのか。

 だが死とは、時に理不尽にあっけなく志半ばの命を無慈悲に奪うものなのだ。

 その無念さに心が震える。

(せめてレイシ様にもう一度会いたかった……)

 最期の時に考えたのは、家族のように暮らした卜殷のことでも楊庵のことでもなかった。結局、この宮から逃げ出そうと画策するのも、医師として男として生きたいと思うのも、すべてそのためだったのだと、今頃気付いた。

 専属やくぜん師として働きたいという以前に、ただ、もう一度レイシに会いたかったのだ。

 だが、それももうかなわない。帝の憎しみをこの身で受け止め、死ぬしかないのだ。

 董胡は観念したようにゆっくりと頭を下げ、額を畳につけた。

「…………」

 だが頭を下げる董胡を見て、帝はゆっくりと腕を下ろし、剣をさやにしまった。

「鬼なら風神となって成敗してやろうと思うたが……人間であったようだな」

 気のせいか、少し言葉が柔らかくなったように感じた。

「ただの捨て駒の替え玉であったか。そなたがどういう理由で一の后になったのか知らぬが、儀式のために仕方なく来たまでだ。そなたとむつむつもりなどないから安心するがいい。私に害をさぬ限り、そなたをどうこうするつもりはない」

 帝はそれだけ言うと、まだ頭を下げたまま震えている董胡を残して帰っていった。


 帝が去ったあと、部屋に入ってきた茶民と壇々が驚いたのは言うまでもない。

 真っ二つに切れたを見て青ざめていた。

「や、やっぱり噂通りのうつけでしたのね! 鼓濤様、お怪我はございませんか?」

「恐ろしや。姫君になんとご無体な! 許せませんわ。ああ、お可哀相な鼓濤様」

 二人はずいぶん同情してくれて、董胡をなぐさめてくれた。

 そして帝の評価は最下層まで落ちていった。

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皇帝の薬膳妃 紅き棗と再会の約束 尾道理子/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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