第2話 まとも 日常 普通
冬が明けて鮮やかさが増した青い空に飛行機雲が伸びていた。
「綺麗だな」
白い線が作り出されていく。ごうごうと鳴る飛行機の音が窓越しに届いていた。
ぼんやり眺めていると廊下の先から人の話し声が聞こえてきた。
空から視線を外して灰色のラバー製の廊下を進み始める。
日差しはまだ少し冷たかった。
——————————
「いや、ほんとに構内広いのに10分しか休みないってきつすぎだろ! 」
「B棟って一番遠いじゃん!なんでここコマ繋がるんだよ! 」
「俺らが選抜外れたからだよ! 」
バタバタと小走りで廊下を駆け抜けていく。大学構内の広さを舐めていた。別棟にある自販機で飲み物を買っていたらもう次のコマに差し掛かっていた。腕に抱えているパソコンが地味に重い。
「そうだ、明人お前明日までの課題やった? 」
「えっ、何それ!? 」
隣を走っていた進藤に落とされた爆弾にゾッと背筋が凍って走るスピードが早まる。
「金曜に実験あるからコマまでに実験の仮説と必要になる計算しておけって言われてるじゃん!おま、連帯責任で怒られんだぞ?! 」
「うわ完っ前に忘れてた、あの教授の課題むずいんだよ……!」
ガヤガヤともう生徒が集まっているのがわかる実験室を通り抜けて廊下の角を曲がる。
B棟は渡り廊下のその先で講義室はそこを渡ってすぐだった。
渡り廊下が奥に見える。それよりも手前に人がいた。自然と目が追う。
心臓が鳴って、あぁ次のコマは葵は実験なんだなと先程走り抜けた実験室を思い出して思った。
どんな実験をするんだろう、レポートやるのかなと意識が持ってかれる。
そのまま言葉を交わさないどころか目すら合わずに俺たちは交差して通り過ぎた。
勢い良く渡り廊下に突入すれば強い風が自分達を押し返そうと躍起になって飛んできた。
「急げ急げ!やっぱ自販機でジュースなんて買わなきゃよかった! 」
進藤が慌てたように携帯を見る。
「B棟が遠いのが悪いんだよ! 」
向かい風なんて嘘だったようにほぼ無風のまま渡り廊下を通りきる。
そしてそのまま鐘が鳴る前に講義室へ滑り込んだ。
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「あれ、友人さんと一緒じゃないの」
昼
外にあるベンチで葵を見つけた。
意外と大きい手作りのおにぎりを食べながら本をめくっていた葵が自分に気づいて顔を上げた。
アカリ、と本当の名前で俺を呼ぶ。
ベンチの端に座って2限前に買ったコーラに口をつける。喉を刺激する炭酸は最初に飲んだ時とさほど変わっていないが、温度だけがぬるくなっていた。
「進藤は今日2限までなんだよ。さっき昼一緒に食べてそのまま別れた」
眼鏡を手の甲であげて指先についた米粒も食べながらそうなんだ、と返される。
「僕も今日は次のコマで終わりだから」
アルミホイルをくしゃくしゃに丸めて透明なビニール袋に放り込むとリュックサックの中に片付け始めた。
その様子を眺めながら、偶然見かけなければ連絡アプリで伝えていた内容を話そうと口を開いた。
「俺さぁ、明日までの課題があって」
それがさぁと先程進藤と話していたことを葵にも話す。えぇ?何それ、馬鹿じゃんとクスクス笑う葵に、俺はどうにも落ち着かなくなって頭をガリガリと掻いた。
それから、別の思惑も兼ねながら話の核心に迫った。
「それで、もし出来れば夜手伝ってくれないかと思って……」
「ごめん、それは無理」
顔を上げて葵を見る。先程とは違って眉を下げて悲しげともとれる笑みを浮かべていた。
言い換えるなら諦観を浮かべた笑み。
やっぱりかと掻いていた手を降ろした。
「……今日もまだダメか」
「……ごめん」
葵の瞳の中に頑丈な檻が見えた気がした。
「本当の家はこっちなのになぁ」
「…………」
俺から視線が外れて地面に向く。先程よりも下がった口角は無理に引き上げているように歪だった。
パッともう一度目があっていつもの表情に戻る。
「そっちの家に帰るのは多分もうちょっとかかるけど、授業終わりに課題なら見てあげるよ」
「そっちの家て。だから、お前の家でもあるんだから」
「あははっ、ごめんね」
口を開けてそれに連動して目を細めながら葵が笑った。
「それで、どう? もしよければだけど」
表情を変えないまま葵がもう一度聞き返す。俺としては願ってもない申し出だった。
「いや、めちゃくちゃ助かる。……なんで理学部が薬学部に物理教わってるんだって話だけどな」
「単純に明人が生物の方が得意ってだけでしょ。僕が物理苦手じゃなかったから話せるってだけで。別に変な話じゃない。それに、僕だって物理は使うしね」
頭を掻いて不甲斐なさに笑えば、葵は首を振ってそう反論した。
「それに、苦手でも生物が好きだからこの学部きたんでしょ。なら良いんじゃない」
「何が? 」
笑って目が細まり目の白い部分が隠れる。
「好きなことがあって、ちゃんと目的があって明人がやってることだから良いんだよ。その手伝いとして何かわからないことがあれば教えられる範囲にはなるけど教えるからさ」
そう言いながら葵は立ち上がった。リュックサックを持ち上げて背負ってからこちらを見る。
「じゃあ僕は戻るから。A棟のどっかの教室でいいよね? 明人の方が先に着くようなら場所連絡して」
「お、ん。わかった、その、サンキューな」
反射的に手を持ち上げてひらひらと手を振る。
「別に。ジュース一本でいいよ」
「えっ」
あはははは!と驚いた顔をした俺に向かって声をあげて葵が笑う。
いや、それ位どうってことないし寧ろ奢らせろって感じだけどな!?なんて歩いていってしまった葵に向かって叫べば、もう一度笑い声が返ってきた。
そのまま他の生徒と同化して小さくなって見えなくなるまでベンチに手をつきながら葵の姿を追っていた。
なんとも言えない虚無感を抱えて嘆息する。
この会話の最中、葵は笑っていなかった。
細められた目の中に隠された淀みを思い出す。
どうにもできなくてぼんやりと空を見上げた。
青が濃くなった昼下がりの空は春になって雲が多くなっていた。
「綺麗だな」
風が頬を撫でる。太陽の陽気が肌に当たってあたたかい。
眠いのと眩しいのが混ざって目を閉じた。
この大学に去年編入してきて、秋ごろにばったり出会ったのがきっかけでまた話すようになった。
中学で別クラスになってから段々と疎遠になり、別々の高校に進学してからまるで連絡を取っていなかった彼は、好奇心で輝いていた目が嘘のように凪いだ人間になっていた。
そして雑談もそこそこに笑ってない笑顔でこう言ったのだ。
「ねぇ、もし僕が薬物に手を出してたら君は警察に通報する? 」
それが始まりだった。
多幸感というものがなんなのか知りたいと彼は言った。
薬によって定義づけられている幸せが知りたいんだと笑い飛ばすように彼は話していた。
手を取ってしまう。ずぶりともう元には戻れないとその瞬間に直感した。
針の音が聞こえるそんな青い空間で、理性を失ってネジが外れたように泣いて笑っている彼を初めてあやした。
それからもう、半年以上。
優越感と背徳感に板挟みにされながら、この関係は今でも続いている。
葵が好きだ。
そう気づいて仕舞ったのだ。
針の音が聞こえるそんな青い空間で 唯乃蜜柑 @mikangadaisuki
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