女神さまにおはよう

霜月ノナ

第1話 聖女の目覚め

あの日のことはよく覚えている。


目を開けた時には、何もかもが違っていた。

砂と小石を払って立ち上がる。

叩きつける風が痛かったのに、澱んだ空からは沁みる雨が注いでいたのに、まるで奇跡のように晴れ渡る。


こんな空は知らなかった。

晴れ間というのは怖い鳥が人の子をさらうのに絶好のチャンスだったというのに、錆びた金属を擦るような鳴き声がこの谷に響くことはない。

この世界には、やっと本当の意味で朝が訪れたのだ。


気を失っていたのはきっと数十秒、長くたって十分もないだろう。

たったそれだけの時間だったはずなのに、朽ちて折れた木が新芽を吹き、砂の間から黒土が覗き、草花が目覚めている。

それは奇跡。

昔話で聞いた、女神様の奇跡だった。

君と旅に出て、ちょうど五百日目のことだった。


けれど、

「イクト?」

そこにいたはずの君はいなかった。



――――――


女神は五十年眠り、そして目覚めから五十年の豊穣と繁栄を約束する。

女神が眠っている間、荒天が続き、収穫は少なく、獣は争うために狂暴化して、人には生きづらい時代が続く。そして、女神の起きている時代にはいないような獣、魔物と呼ばれるものがどこからか現れる。おとぎ話では、魔獣とは、女神の悪夢の化身なのだと語られる。特別な力を持って生まれるこどもがいるのは、悪夢の魔獣に苦しむ人の子を憐れんで女神が流した涙が宿るからだという。

それもあって、女神の起きている間を女神の昼、眠っている間を女神の夜とも呼ぶ。


女神の夜を生きる人間は、都市を守り、都市を放棄し、逃げ延びる日々を過ごすことになる。

特別な力を持って生まれるこどもがいるといっても、素手で魔獣が倒せるわけでもなければ、歌で従えることができるわけでもない。ほとんどは道具なしに種火を調達できるとか、私のように真水を生み出すことができるとか、そういった能力でしかない。そしてイクトのように何の能力もない方が圧倒的多数だった。

それでも荒れた土地では真水はとても貴重なものだったから、水が尽きれば私の能力で調達し、身を寄せる小さな集落では私の能力の水と引き換えに食料を調達する、そんなことだってあった。

だから自分の覚悟はしていても、イクトがいなくなるなんて思っていなかった。


彼がいなくなってしまったら、きっと涙が涸れるほど泣くんだろうと思っていたのに、現実味のない消失のせいか、確信しているのに認めたくないからか、一滴だって落ちては来なかった。

落ちていたイクトの荷物を抱えると、それのあった場所に、見慣れない腕輪のようなものが落ちていた。

石のような灰色だけど、わずかに発光するそれは、見覚えのないものだった。重く、冷たく、艶のある表面。

ただ、腰が抜けたように座り込んだまま、ただ腕輪を手の内で転がして眺める。

漠然と、もう彼には会えないのだと、誰が言うわけでもないのにわかってしまった。彼の遺体があるわけでも、彼の書置きがあるわけでもないのに。

脳裏によぎるという言葉に、思わずそれを抱きしめた。もしかして、これは彼が用意していたものだろうか。

試しに一度嵌めるとはずれなくなってしまった。でも、この先、ほかの誰かにそんな贈り物をもらうこともないから、外せなくても問題ないだろう。

彼の用意したものなら、サイズが合うのも当然だ。一年以上も一緒に寝起きしていたのだから、手首をちょっと測ることくらい造作もないことだったろうし。

そうしているうちに変な笑いが込み上げてきた。

自問自答したって、答えなんかないから、ただ自分を笑うことしかできなかった。


なんで私だけがここにいるんだろう。

一緒に来たはずなのに。

同じ景色を望んでいたはずなのに。

世界の果てまで逃げるつもりだったのに。

追いかけてくる痛みに目を背けて、終わりまで走り切れるんだと、信じていたのに。


そこまで思い至って、やっと、涙があふれてきた。


ここが、君との旅の終わりなのだ・・・・・・と。



――――――


荷物を全て抱え、腕輪を袖に隠した。袖をすかしてまで光ることはないことに安心する。目立つことがどれほど恐ろしいか、身に染みて知っている。守ってくれた彼はもういないのだ。

重い体を引きずって立ち上がり、最後に谷底を覗き込んだ。

彼もここで後追いなんてしてほしくないだろうとはわかっている。

どれだけの犠牲で生き延びてきているか、女神の夜に生まれた私たちは、痛いくらい知っている。

ただ、彼のいた証拠を見つけたかった。

見つかったところで、胸の痛みが軽くなるわけでもないけれど、ただどうしようもなくもう一度会いたかった。

けれどそこには、何もなかった。

世界に朝をもたらしたはずの彼の、確かに生きていたという証拠は、どこにもなかった。



そこからどうやってか、谷から這い上がり、下山した。

気候は良くなったとはいえ、険しい道だったはずだけれど、道中のことは必死だったせいか、よく覚えていない。

ただそうしなければ生きられないから、きっと体が勝手に頑張ってくれたのだろう。

自分と彼の荷物と、それから遺品のようにそこにあった腕輪だけを旅の道連れに行き、夕暮れまであとわずかというところで、集落が見えた。

数十人ほどが住まう小さなその村は、彼と最後に立ち寄った場所だった。


出立の挨拶をした時と全く同じ姿の村長が、待ち構えるように立っていた。

細く日に焼けた姿は枯れたよう、白茶けた髪はごわごわで、しかし目だけはギラギラと生命力を感じさせる。

あの時も、そんな彼を見て、この岩と砂ばかりの土地で生きるには、生に貪欲でなければならないのだろうと思ったものだ。

この村には数日滞在したのだから、村長とは全くの知らぬ仲ではないけれど、ふたりで出掛けてひとりで帰ってきたのだ。何と声をかけていいかわからなかった。

言葉を探しながらも見つからず、黙って立ち尽くしていると、彼はそのまま、一歩、二歩と近づいてきた。

そして、おもむろに頭を下げ、こう言った。


さま、お帰りなさい。」

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