UFO軌道の凍結
サクラクロニクル
冬は冷え切った現実を見るのに最適な夜を演出する
前原とUFOを見に行くのは、通算で七度目だった気がする。
午前一時に家を出てから、何分経ったろう。待ち合わせた時刻までは、あと何分だろう。そう思いながら煙草を一本取り出して、ジッポのライタで火をつけた。不良のやることだな、と思いながら肺を満たす。吐き出した紫煙は、冬に吐き出す白い吐息よりかはずっと長く滞留した。その煙はときおり渦を形作りながら、ゆっくりとのぼっていく。夜空は十二月の空気に冷え切って、透明感が増している気がする。黒々とした闇に輝く星の数も、いつもより多い気がした。
前原は煙草の匂いが嫌いだった。煙のほうはそれに輪をかける。だから今のうちに吸っておかなければ、と思い、俺は二本目を取り出してくわえた。目前に流れる川の音が聞こえてくる。ただでさえ冷える。その上でこの川の音を聞くと、体がぬれたら凍死するのではないだろうかという思いになり、体が震えた。ライタの火ですら、暖炉に匹敵する熱を持っているようにイメージできた。
二本目の煙草が終わり、一本目と同様携帯灰皿に叩き込んだ俺は、それらと共にダッフルコートのポケットに手を突っ込んで待った。吐く息は煙草の煙よりも儚く消えていく。
前原と待ち合わせた時間は午前二時。携帯電話は絶対に持ってこないとの約束で、時間を確かめるには腕時計が必須だったが、俺は腕時計を持っていなかった。時間を確かめるすべはない。俺はただじっと空を見上げながら、川の流れに耳を傾ける。
前原はUFOが好きな女子だ。オカルト全般ではなく、UFOのみを好いていた。アダムスキー型のクラシックな形質を漫画的にデフォルメして描くのが得意で、俺はその絵が好きだった。俺でも描こうと思えば描ける気もしたが、意外と難しいもので、俺が描くそれは銀色の灰皿に見える。歪んでいたから、空を飛ぶことはおろか、灰を捨てるにも使えないしろもの。でも、前原はそれを見て微笑んでくれる。
「UFOなら、どんな形をしていても空は飛べるんです。笠井くんのUFOも、だからきっと飛べると思います。人間のちっぽけな航空力学では説明できなくて、それでも現実の宇宙を、空を、幻想的に飛んで見せるんです。だから、UFOは素敵なんです」
彼女の言葉にももちろん魅力というものはあるが、眼鏡の奥で輝いている闇の瞳や、白い手がものを描く時のこまごまとした動きなんかの方が目立っていた。俺はそれに惹かれた。あるいは、もっと別の何かに心を掴まれていたのかもしれない。
三本目の煙草が欲しくなった頃だ。前原が高校指定のダッフルコートを着てやってきた。俺のと同じコートだ。他には膝まで届く紺のスカート、そこから赤いジャージのズボンが伸びているのが見える。多分、制服のままで来たんだろう。そんなところまで、俺と同じだ。俺の方は学ランだが、似たようなものだ。
「お待たせ、笠井くん。時間に正確なんだね」
「そうかもしれない。女子を待たせるのが嫌いなだけだが」
俺はそんなことを気取って言ってみせた。女子を待たせるのが嫌いなのは事実だが、女子を待たせない自分が好きだという事実は否定できない。
「それより、行こうか」
前原はうなずいた。彼女は翻って、町外れにある丘までの道を歩き出した。
気のせいか。
前原の背中が、いつもよりずっと小さく見えた。
前原は小柄な女子だった。俺はそんな彼女の肩を抱いてやるのが好きだった。だが、彼女の頭にはその体の大きさに似合わず、壮大な世界が広がっているように思えた。無限に広がる夢幻世界のようにも思えたが、そんな世界でも、俺には共感できた。途方も無い話が彼女の口から飛び出して、それはときに日本語じゃない何かになることもあった。それでも何故か、共感できたのだ。
若者ならそういうこともあるんだろうと俺は思っていた。誰だって夢を見るだろう。それが現実的であるかそうでないかなど特に気にすることでもない。実現しなければそれは幻に過ぎないし、実現してしまえばそれは現実だと認めざるをえない。進路のことでも、UFOのことでも、それは同等ではないか。
夏休みの夜、彼女に連れられてUFOを見に行った。正確に言えば、UFOを呼びに行った。彼女はノートいっぱいにUFOを呼ぶための呪文などを書き並べていた。日本語じゃない説明文だったので、挿絵で判別するしかなかった。かわいい絵が並んでいて、その絵だけ見れば分かりやすいとも言えたが、やはりそのノート単体で何かをするのは、俺には無理だった。
前原に手を引かれて、たどり着いたのは町外れの丘。夜の空はむやみやたらと晴れ渡っていて、星が綺麗だった。彼女は呪文を詠唱するように、日本語とも英語とも言えない発音で何かを呟いた。そして、俺に一緒にUFOを呼ぶ踊りをしましょうと促した。少し抵抗があったが、彼女が踊り始めたので、俺はしぶしぶと従った。
思いのほか面白かった。誰もいない夜の丘で、きらきらの空を見上げながら、天に手を伸ばしたり、深く腰を落としてくるりと一回転したりした。前原がときどき「ふぃーふぁーふぃーふる」と言った気がする。それは俺の耳が捉えた音の輪郭に過ぎない。精一杯声を張り上げていたようにも見えたが、俺がちょっと叫ぶだけでかき消せるような小さな声だった。前原の恍惚とした表情に酔いつつ、踊り続けた。
UFOは結局来なかった。二人とも、夏の夜の暑さと、踊りのせいで、汗だくになった。その汗を流しに、ホテルに入った。そのままもう一回汗をかくことになった。彼女から誘ったのだ。俺は男のくせにどぎまぎしてしまった。はじめてだったから。彼女はまったく怖気ず、俺を導いた。赤い雫が零れ落ちて、彼女も同じだったことを知ることになる。
俺はそのときに思った。前原の頭の中には、本当は、夢なんか詰まっていない、と。そこにあるのは強靭な形を持った現実で、UFOもその延長線上にあるものではないかと。俺なんかよりもよほど肝が据わっていて、現実的なことを言ったのだ。
「君は怖気無くていいんです。男の方は痛くないんですから。痛い私が怖気て無いんだから、どうどうとやればいいんです。安心してください」
唖然という状態は、興奮によってすぐ掻き消えた。あの夜の彼女は、大きく見えたものだ。俺よりもずっと。大人だった、とも言えるかもしれない。女子の精神が進んでいるとはなんとなく聞いたような気がしていた。それを実感する夜だった。
丘までの道の途中、彼女は口をきかなかった。なにかがいつもと違っていた。
前原とUFOを見に出る夜は、よく晴れていて、星の輝きが宝石の如しといった様相を呈する。彼女は天気について敏感だ。彼女が呟く天気予報は外れたことがない。もしそんなことがあればしっかりと覚えている。的中率百パーセントを示すのだから、途切れれば記念に覚えているはずだ。だから、何故彼女と出かける夜がよく晴れているのかは深く考えずとも分かる。派生的に、UFOはよく晴れた日に来るんだなとおぼろげに考えていた。
UFOが来たことは一度もない。
UFOが来なかった夜、俺達は肌を撫であって、お互いの接点がUFO以外にもあるのだと確かめ合った。いや、俺だけが確かめるように行為に没頭していたのかもしれない。
彼女は何故俺と一緒にUFOを見に行くのだろう。時にそう思うことがあった。
俺は前原が好きだったから、神秘的だが現実的な彼女が好きだったから、彼女を抱くのに、キスをするのに、遠慮なんかしたくないと思った。思っている。だけど、彼女はどうなんだろう。俺の何が好きなんだろうか。俺の、どこが好きなんだろうか。それをいままで確かめたことはなかった。
彼女はこう言うだけ。
「君のことはUFOより好きです」
ただ、それだけ。
川から丘までは一〇分ほどの距離だ。俺は足をはやめて前原に追いつく。肩を並べて歩きたいと思ったからだ。彼女はこっちを向いて、よわよわしく笑った。彼女の口から漏れる白い息は、速やかに消失していく。
俺は声をかけようとして、やめた。
前原の眼鏡。その奥にある瞳に、輝きが感じられなかったから。
前原と将来の話をすることがある。彼女は大学に入ったあと、小説家になりたいと言っていた。UFOを題材にするのかと聞いたが、趣味を仕事にしたくないんですと彼女は言った。じゃあ、何をするんだ。
「夢を書くんです。現実なんて、小説に書いたって仕方がないと思いませんか。現実なら、自分で体験すればいいんです。もっと突拍子がない、荒唐無稽と思えるような、現実感覚を吹き飛ばす、そんな夢小説が書きたいんですよ、私は」
俺は感心して聞いていた。現実なら自分で体験した方が楽しい。確かに、その通りだと思う。他人の色恋沙汰など、小説でまで読みたくはない。俺と前原のことを、小説にされたくはない。
それに、前原と一緒に過ごすUFOの夜は現実でしか味わえない。彼女のUFOを呼ぶ踊りは現実にしかない。俺の思考をミルクのように白く溶かしていく甘い声は、決して現実以外からは聞こえてこない。俺がいるのは、現実世界なのだ。
ただ、現実と言うのは楽しくないこともある。成績の悪い俺は、どこの大学に入ろうかと数少ない道を模索するだけだ。就職も視野に入れてある。水道管をいじる仕事とかなら、できるかもしれない。それさえも、安易な妄想に過ぎないと心のどこかで思っている。
俺の描く未来は暗く歪んでいる。前原の描いた未来が、輝いて見えるのは当然だろう。感傷的に過ぎる話だ。俺の努力が足りないだけなのに。それだけで他人を妬むのはよくない。俺は前原を妬みたくない。
丘はいつもUFOを見るときと同様、静まりかえっている。丘から見える町は、ぽつぽつと灯る街灯が白く見える以外、暗い。星が目立つわけだ。地上の灯りが少なければ、絶対的な光の量が減り、空の闇が深まる。空からやってくる星の光が目立つようになる。理にかなった話だ。
しかし、それだけなのだろうか。今宵の空はやはりどこまでも深い闇をたたえている。その分だけ星が綺麗だ。冬の空は透明感がある。俺は右手が煙草の箱を握りつぶしているのに気がついた。
「星が綺麗ですね」前原が言った。「冬の空は、わたしの経験上、UFOを呼ぶのに最適なんですよ」
かすれるような声。痛々しいほどだ。
そういえば――学校でもこんな調子ではなかっただろうか。俺は思い出そうとした。何故か、うまくいかなかった。
前原と付き合っているのは公然の事実で、男友達にはよくもまあ、という評価をい受けている。お前らに前原のよさなど分からない。そう言い返すと、そりゃそうだとそいつは言った。そして、携帯の壁紙を見せてこういった。人の趣味ってのは分からないものなんですなあ、と。確かに、俺の趣味とはかけはなれた女性の姿がそこにあった。
そうしたどうでもよい思い出の中から、俺は何かを摘まみ上げようとする。
前原はノートを何冊も持っていて、俺とUFOの絵を描くときは、新しいノートを使用した。彼女はいつでも冷静で、テスト前なんかに教科書と無二の親友となる俺とは大違いだった。数学の授業前、一つでも多く公式を覚えようとする俺に対して、彼女は青空を見上げて何かを数えていたりする。それで成績は抜群。
三回ほど彼女の家に上がりこんだことがある。彼女の両親は常に不在だった。共働きらしい。片方は海外出張だと聞いたこともある。このことを俺の母にちらと話した。――そう、だからUFOなんかに興味があるのかしらねえ――と母は言った。俺は黙っていたが、それは違うだろうと心の中で鉄拳を振るった。彼女はリアリストだと俺は信じている。彼女にとってのUFOとは、そんな逃避に使用する幻想じゃない。現実なんだ。前途有望な奴らが描く未来と、どこも違いはしない。
前原はゆっくりと腰を下ろした。いつもなら、すぐに呪文を唱えて、UFOを呼ぼうとするところなのに。
「ねえ」と彼女は俺を見ないで言った。「UFOってなんだと思う」
俺はしばらく黙ってから、答えた。「現実」
「そうかな。幻想かもしれないよ」
俺は言葉を放つことができなくなった。
俺は、彼女と、彼女の頭の中から生まれたと思われるUFOの話と、どっちが好きなんだろうか。俺は間違いなく彼女を好きだと思っている。だが、それがいったい何を対象としての好きなのかが、揺らいでいた。
俺は彼女の何に惚れ込んでいたのか。逃避のように、考えていた。
考える以外の方法を喪失してしまったかのようだった。
彼女は誰にともなく言い続けた。
「お母さんとお父さんが離婚するそうです。わたしはお母さんに連れられて、この町を離れることになりました。現実って厳しいですね。わたし、多分笠井くんとは一緒にいられなくなると思います。自活能力がないものですから、独り暮らしなんてとてもできなくて。だからお母さんの田舎のにある大学にでも通うことになるのかなって。おかしい話ですよね。UFOに現を抜かしすぎたんでしょう。もっと現実を見ていれば、ちゃんと現実への準備ができていたかもしれないのに」
俺は沈黙の只中でもがいている。
「お母さんが浮気してたんです。まあ、ありていな話ですよね。わたし、なんとなくそれに気づいていたんです。でも、それでもなんとかなってしまうと思ってました。どうにかお母さんが隠し通して、お父さんが気づかなくって。そんな夢ばかり見ていた」
前原が俯きながら呟く。
「わたしってダメな女子だよね。現実を見ることができなくて、UFOなんかに現を抜かすダメな女の子。なんで笠井くんと居られるんだろう」
「ばか、いうなよ」
俺はようやく口をあけることができた。
だが、それ以上声が出ることはなかった。
前原は自嘲の微笑を空に向けながら、白い息を吐いている。
彼女の横顔から、俺は目を離せなかった。頬が濡れていく様子を眺めていた。一体どんな悲しみでできているのかはわからない。色々な感情が成分として溶け込んだ涙が流れている。俺はその涙を拭いてやることすらできない。いま、左のポケットに入っているハンカチを投げてやることすらできない。足も手も、動かない。感情の作り出した雫がぽろぽろと落ちていく様子を見つめる以外の何事も、できないままで立ち尽くす。
そして俺は、前原から視線をそらしてしまった。もうそれ以上見つめていられなかった。どうして逃避はできるのにと、悔しかった。涙をこらえたのはせめてもの抵抗だ。
星が綺麗だ。
空気は冷え切っている。
眼下の町ともども、静かな時間が過ぎる。
俺はどうしようもなくなった心をどうにかするために、右手を高く突き上げた。「ふぃーふぁーふぃーふる!」
突き上げた右手に左手を絡め、頭上でぐるぐると三回転。腰を落として地面と水平になるよう大きくさらに二回転。
彼女がこちらを見た気配があった。
俺は構わずに踊りを続ける。混乱が渦巻く俺の思考が、それをすることを選択したのだ。なら俺はそれをやり遂げるだけ。それしかできやしないのだ。
なにが原因で壊れてしまったのかは知らない。
知らないが、実現した現実を否定することは誰にもできない。消し去ることは誰にもできないはずだ。
俺はその思いを込めて踊った。
前原がゆっくりと俺の隣まで歩いた。
彼女も天に向けて右手を突き出した。
「ふぃーふぁーふぃーふる……」
涙声が聞こえる。
もう彼女の涙は冬の空気で冷え切ってしまっているだろう。
それでもいい。
現実をつかむために、呼ぶのだ。
あらんかぎりの力を尽くして、UFOを呼ぶしかない。
「現実なんて」
呟く声が、冷え切った空気の中に飛び込んでいった。
続く言葉は霞の如くおぼろで、聞き取れなかった。
もう返ってこないだろう。
「UFOよ」
俺が呟いた。
届くはずもないのに。
刺すような冬の空気の中、俺達は踊り続けた。UFOが来るまで、俺はあきらめようとは思わなかった。彼女が同様に思っていたかは、分からない。
疲れが、俺の動きから力を奪った。
静寂の中、流れ星が過ぎていった。
前原の嗚咽が届いてくる。
俺の頬がぬれ始めている。
いつまでも、なにも起きない。
冬に冷やされた現実が、俺達の前にいる。
俺達に、UFOは来ない。
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