プール

春雷

プール

 昔の話だ。僕はよく、近所の市民プールに行っていた。友達と行くこともあれば、一人で行くこともあった。古い市民プールで、建物の老朽化がひどく、客も少ないので、もうそろそろ壊されるのではないかという噂があった。僕は泳ぐのが好きだったから、その噂にいつも反論していた。でも噂に反論しても、何の意味もなかった。


 夏休み。僕はいつも通り、その古ぼけた市民プールに足を運んだ。更衣室で服を着替える。更衣室には、僕の他に一人、老人がいるだけだった。彼はタオルを首からかけて、白いタンクトップに青いトランクスという恰好で椅子に腰かけ、大きな扇風機の前を独占していた。

「おお、涼しいなあ」

 彼はその言葉を何度も繰り返した。

 僕は水着に着替えると、更衣室を出て、シャワールームに向かった。シャワーで身体を洗う。ひどく暑い日だったので、冷たい水が気持ちよかった。

 シャワールームを出ると、僕はプールに向かった。

 プールは室内にある。普通の25mプールで、7レーンあった。今日は平日ということもあってか、人はほとんどいなかった。家族連れが一組と、真剣にクロールをしている高校生、呆然と水の中に突っ立っている中学生が一人いるきりだった。近くにスポーツ施設ができた影響もあり、このプールに来る人はどんどん減っていた。

 僕は空いているレーンに入った。水はとても冷たくて、思わず身をよじる。 冷たさに身体を慣らしていく。僕はゴーグルをかけ、水中へ入った。水中は宇宙のようだ。身体が軽い。僕はそのまま、蹴伸びをして、平泳ぎを始めた。気持ちがよかった。どこへでも行けるという気がした。

 そのまま15分くらい泳ぐと、僕は一旦プールサイドに上がって、そこに腰かけた。足は水に入れたままだ。そうして身体を休めていると、誰かが僕に話しかけてきた。振り返ると、水中に突っ立っていた中学生だ。

 彼は髪を短く綺麗に切り揃えていて、爽やかな印象を受ける。顔も涼しげで、女の子に好かれそうな顔をしている。眉は力強くも穏やかで、鼻筋はすらりと伸び、唇は薄い。眼は半目で、一見何事にも無関心な感じがするが、その奥には情熱が灯っているように見える。

「君、中学生?」

 囁くように、彼は僕に尋ねた。

「うん」

「どこの中学校?」

「第二だよ」

「そうか」

「君は?」

「僕は第一」

 彼の身体は引き締まっていた。おそらくプールで泳いでいるうちに、自然と身体が鍛えられたのだろう。

「あの人、うまいね」

 彼はクロールをしている高校生を見て言った。

「うん。たぶん県代表とかなんじゃないかな」

「いや、県代表になるにはもっとうまくないといけないんだ」

「そうなの?」

「うん。そうだ」

 やけに断定した口調だった。

「君は泳ぎが得意なの?」

 僕は訊いた。

「全然。得意じゃないし、好きでもない」

「じゃあ、どうしてここに来ているのさ?」

「特に理由はないよ」

 彼は僕の横に腰かけて、足で水面を揺らした。

「君は泳ぐのは好きかい?」

 今度は彼が僕に訊いた。

「うん。うまくはないし、体力もないから、あまり長く泳ぐことはできないんだけどね」

「そうか」

 僕は昔から病弱で、体力がなかった。近頃はプールに通いだしたおかげで、徐々に体力はついてきたけれど、病気がちなのは変わらなかった。

「一緒に泳がない?」

 僕が提案すると、彼は頷いた。彼と競争もした。全然敵わなかった。彼は僕の何倍も泳ぎがうまかった。

「うまいね」

「全然だよ」

 僕らは互いに疲れ果てるまで、泳ぎ続けた。


 そのあと一週間くらい体調を崩して、僕は家から出ることができなかった。薬を飲み、安静にしていた。とても退屈な一週間だった。僕はプールで出会った彼のことを思い出した。彼は今どこで何をしているのだろうか。

 体調が回復すると、僕は親にプールに行きたいと言った。でも親はプールに行くことを許さなかった。また体調を崩すといけないから、家で遊びなさいと言われた。僕はとにかく外に出たいと言い張り、親は妥協案としてゲームセンターに行くことを許した。僕はお金を貰って、ゲームセンターに行った。近所の大型ショッピングセンター内にあるゲームセンターだ。中には大勢の中学生と小学生がいた。高校生もちらほらいた。みな暇を持て余していたのだろう。シューティングゲームを二回ほどやって、飽きると、他に何か面白いゲームはないかと、僕はゲームセンターの中を歩いて回った。すると、プールで出会った彼を発見した。僕は声をかけた。

「偶然だね」

 彼の声は涼しげだった。僕は彼と一緒に、ショッピングモールを出て、市民体育館へ行った。どのコートも使われていたから、仕方なく、僕らは卓球をすることにした。

「僕は昔からスポーツが得意だった」

 ラリーをしながら、彼は話し始めた。

「親が教育熱心で、僕が小さい時から体操教室に通わせたり、プールに通わせたりしていたんだ。小学生の時はサッカークラブとテニスクラブを掛け持ちした。特にテニスはまあまあ上達して、代表に選ばれたりもした」

「すごいじゃないか。才能があるんだなあ」

「才能、か。僕には呪いにしか思えないんだけどね」

 小気味よい音を立てて、ラリーは続く。だんだん、汗ばんできた。

「僕は中学に上がり、水泳部に入った。毎日練習した。コーチが厳しい人で、何度も怒られた。褒められることなんてまったくなかった。親にもどうしてもっとうまくならないのかと、叱られてばかりいた」

 彼はスマッシュをした。僕は返すことができず、ボールは部屋の端へと飛んで行った。僕はボールを拾いに行き、小走りで彼の元に戻ってきた。

 僕がサーブをしようと思っていると、彼はこう言った。

「もうすべてが嫌になったんだ」

 え、と僕は訊き返した。彼は何でもないとだけ言って、僕にサーブを促した。ラリーは続いた。でも会話はそれきり途絶えてしまった。


 夏休みが終わると、市民プールは壊されることになった。僕は思ったよりも冷静に、その事実を受け入れることができた。泳ぐことに対する興味を失いつつあったことも影響していたのだろう。学校が始まると、彼に会う機会はまったくなかった。僕は時々、彼の消え入りそうな美しい姿を思い出しては、彼の心の内奥に迫りたいという衝動に駆られた。僕はそのたび頭を振って、そうした衝動を理性の力でねじ伏せた。だんだんと心の奥底に澱のように溜まった彼への思いは、ひとたび掻き乱されると、雨後の川のように濁った。僕は時間をかけて、彼への思いを沈めなければならなかった。僕は部屋に籠って、じっと耐え続けた。プールのように、水を絶えず入れ替え続けなければならないのだと思った。そうしなければ、水は腐っていく一方だ。淀んだ僕の思いは、彼と再会することでしか、元の透明な思いへと戻すことができない。僕は彼に会いたいと強く思った。

 ある日、休み時間にこんな話を聞いた。

「なあ、不登校だったやつが、となりのクラスに戻って来るらしいぞ」

 話を聞いてみると、不登校だった生徒が、約1年ぶりにクラスに復帰するかもしれないということだった。噂話に弱い僕は、彼らが会ったことのないその生徒についてあれこれ評するのを、耳を塞ぎたい気持ちで聞いていたのだが、ある言葉に引っかかり、ついに耳を塞ぐことができなかった。

「そいつはもともと、スポーツマンだったらしい。水泳部に入っていたとか」

 スポーツマン? 水泳部? 

 僕の頭に浮かんだのは彼のことだった。しかし、僕はその考えを打ち消した。彼は自分の所属を第一中学校と言っていたじゃないか。僕は彼らの話に割って入り、その生徒の名前を知らないかと尋ねた。返ってきた答えは、彼の名前だった。


 その日の放課後。僕は偶然彼に学校で会うこととなった。学校の玄関で彼と会ったのだ。母親と一緒だった。色々と手続きや相談事があって、学校を訪れたらしい。彼と目が合った。夕暮れに染まる横顔が、美しかったのを覚えている。

 長いまつげが風に揺れた。彼は一直線に僕を見つめている。

「やあ」

 やがて彼が口を開いた。彼が言葉を発するまでに、一兆年が経過したように感じられた。

「どうして」

 僕は言葉を飲み込んだ。彼が通っている中学校を偽っていたことについて、問いただそうとしたのだ。でもそれは訊いてはいけないという気がした。彼に悪いと思った。だから、彼に問いかけるのは途中でやめた。

「プール、なくなるらしいね」

 彼は切なげに呟いた。本当に切ない思いを込めて言ったのだと思う。

「うん」

 実際はプールがなくなることに対してたいした感慨は抱いていなかったのだが、彼が切なそうに言うので、それは切ないことだという気がした。本当に切ない気持ちになれた。

「ちょっと待っていてくれないか」

「待つ?」

「うん。君に見せたいものがあるんだ」

 僕は待つ、と言った。


 空が紺色に染まりだしたころ、彼は学校から出てきた。母親は一緒じゃなかった。一人で出てきた。

「じゃあ、行こうか」

 優しい声音だった。

 彼と15分くらい歩いた。その間、ほとんど会話はなかった。あったとしても、途切れ途切れだった。僕らの間に言葉は要らないという気がした。

「ここだ」

 そこは、壊された市民プールだった。

「行こう」


 プールは跡形もなかった。すでに更地になっていた。僕と彼は、プールがあった場所に腰かけて、夜空を見上げた。星が無数に見えた。

「空を泳げたらいいのになあ」

 彼は言う。その瞳には、光の粒が浮き出ていた。

「僕は、君とまた泳ぎたい」

 僕は言った。彼は微笑んだ。

「そうだね。また一緒に泳ぎたいね」

 沈黙が流れた。不思議とその沈黙は苦痛ではなかった。むしろ心地よかった。世界には心地よい沈黙があるのだと、僕は初めて知った。

 長い沈黙の後、彼は呟くように話をし始めた。

「僕らの泳ぎ方はひどく滑稽で、全然洗練されてなくて、時々溺れてしまうこともある。息継ぎを忘れてしまったり、みんなプールから上がっているのに、気が付かずにずっと泳ぎ続けてしまうこともある。人知れず水の底に沈んでいることもある。でも僕らは、泳ぎ続けなければならないんだ。今はプールで泳いでいるけれど、いつかは海に出なければならないんだ」

 僕は彼の言っていることが理解できなかった。独り言だったのかもしれない。

 夜空には、流星群が光っていた。

「星のシャワーだ」

 僕は上機嫌に言った。

「願いが叶うといいんだけど」

 その時、不思議なことが起こった。僕らはプールサイドに腰かけていたのだ。いつの間にかプールが元に戻っていた。

 彼と僕は顔を見合わせた。

 僕らは疲れ果てるまで、プールで泳ぎ続けた。


 何かにつけ、その時のことを思い出す。僕らは一晩中プールにいたから、早朝に家へ帰ったとき、親にこっぴどく叱られた。でもそんなことはどうでもよかった。彼とまた泳ぐことができた。それだけで僕にとっては十分すぎることで、どんなに叱られても平気でいられた。

 この話をすると、聞いている人は顔をしかめたりする。でもそれも平気だ。確かに妙な話ではあるのだ。

 彼との思い出は色々あって、関係は今でも続いている。僕らは時々プールで一緒に泳ぐ。僕らだけの世界が、そこに確かな形を持って存在している。



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プール 春雷 @syunrai3333

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