それからまた時が流れ、一つの季節を跨いだ頃になっても、ソロキドス国内の事情は相変わらずであった。内戦によって誕生した新たな政府に対し人々はなす術もなく、あるいはその不安定さから目を逸らして、続く混乱にすら抗うことができない崩れかけの日常を甘受していた。つまりは、国や政治には極力関わらないよう生活し、目の前の小さな日々の営みとその循環だけに努める、そういう国民を何人とも数えきれぬほど産んだのが、新しい「政権」の政治であったといえる。

 クレーゼンの街外れで、ささやかな抵抗のために奔走するシエナにとって、そうして耐えがたい支配に力なく瞼を伏せる民衆の光景は、何にもまして悲痛なものだった。彼にとって民衆の意思とは、少なくとも内戦より以前には確実に、その真偽の不明瞭さに関わらず、信じるべき対象であった。しかし、それこそがまさにシエナの追いかけていた理想にある脆弱性の原因となっていたし、現実に内戦というものがその脆い点を突いたときには、民衆の意思などというものは、窮地に光を見出すのにはあまりにもおぼつかない存在なのだと、そう思い知らされる状況にまで追い込まれていたのである。

 ソロキドスに残っていた善良な民衆の名誉のため、無力ながらも断りを添えておくと、無論暴力と恐怖による不当な支配に抵抗した国民も確かに存在した。その勇敢さと誠実さを差し置いて、ソロキドス国民が示した民衆の意思というものを語るのは、不正確なだけでなく不必要な冒涜を記し残すに等しい。しかし、そうした善良で誇り高き人々が、「新政権」として支配を手に入れたあとのオクトリタズやその軍部と対峙するのに、どれほど短い刃で挑まざるを得なかったかということは想像に難くないだろう。内戦から時間が経つにつれ善良な意思は無情に奪われていき、その様子を目の当たりにした人の多くが、伝播する恐怖によって沈黙を選ばさせられたこともまた、ソロキドスに起きた大いなる悲劇の一端であった。このことは、民衆の意思というものが結束しない意思の総体である以上、その一つでしかない善良な意思がどれほどの正義を有していようとも、人々とその生活を押さえつけるいくらかの要素によって、いかにも容易に削り落とされてしまうという端的な事実を示していた。

 シエナが目にすることになった、人を蝕む病理、その足をとらえる汚泥、その空気に流れる腐敗とは、つまり人の人たる心理の忘却とそれに由来する無関心であり、しかもそれらは一度根を張った居場所に頑として居座り続けるしつこさをもって、流動する人と時代の最中の普遍として存在するものであった。言い換えれば、無知や無関心というあまりにも触れやすい存在は、人が善良さを失ったとき、そこに生まれる隙間にたちまち流れこみ、しかもそれを人に覚えさぬまま、彼らの身体から意識に至るまでを支配し得るものであったのだ。

 そうして彼らの目や口を塞ぎ、不当な支配の黙認を増長させた病理は、内戦の終結から半年以上が過ぎた今、その勢力を増すことはあれど、退く気配は一向に見せぬままであった。窓外の景色に緑が戻り始めた時節、今もまだ病理に侵されずささやかな抵抗を続けていたただ一人の弱々しい中年は、支配への賛辞に尽くされた紙面の文字を一瞥し、疲れを帯びた嘆息を吐くばかりであった。


 さて、このような国の状況下で、シエナのそうした心理的苦悩とは関わりなく、サルーズのほうはなんとも伸びやかに成長していた。相変わらず二人の間は不整合というほかない関係が続いていたが、しかし言語の習得という点において、唯一ともいえる共通の意識が存在していたおかげで、その綻びもわずかながらに改善の兆しが見え始めていた。そのような意味においては、シエナも次第に養育者としての自覚を持つようになったとか、あるいは理不尽な存在と向かい合う上で必要とされる緩やかな心理を理解し始めたというような、この中年の健気な努力を認めるべきであろう。

 無論、そうした前向きな変化には、老いた軍人のグラウによる助言も少なからぬ影響があったと言える。言語を介した認知の共有には依然難のある、幼い知性との交流について、シエナがグラウの助けなしに努めていたとすると、彼の神経がどれだけすり減ることになっていたのかなど、もはや想像もし得ないほどである。いずれにせよ、シエナが断絶の深さに耐え忍んででも続けた軍人との関わりは、結果として彼が最初に期待したよりも遥かに、彼の支えとなったことは間違いない。ただ、そのように状況の好転が見られるいっぽうで、新たな問題も同時に可視化され始めており、その問題というのがほかでもない、サルーズとグラウの対面——つまり、彼ら同士の交流を認めるべきか否か、ということであった。

 無論、シエナはグラウの助力の影響を正しく理解していたし、それにわずかとは言えない恩義を感じていたのも事実である。しかしながら、グラウが時折この隠れ家を訪問するたび、シエナは感染病の罹患者から健常者を遠ざけるときのように、慌ただしくその子供を抱えて奥の書斎に運び入れ、まだ幼い子供を一人にすることへの苦しさを覚えながらも、部屋の鍵を閉めていた。サルーズはシエナのそうした態度について、特に動揺もしていないらしく、むしろ普段は殆ど立ち入らない書斎のものを珍しげに触っては一人遊びにふけっている様子であったものの、シエナにとってはそれも新たな懸念の材料にすぎず、ただ気が気でない時間となることに変わりはなかった。グラウのほうはというと、当然ながら件のメルカ人の子供が、特段事前に決めているわけでもない訪問のたび、なんとも巧妙な偶然によって自分と顔を合わせずにいることに気づいていたし、その偶然のために、不器用な中年がわざわざ手を焼いていることなども、最早気づくまでもなく察していた。しかし、彼がシエナに子供との面会を望むことはなかったし、却ってその人為的な偶然は彼を助けてすらいた——メルカ人の子供に対して彼が負う責務を考えれば、それはいかにも単純な帰結であろう。

 ただ、シエナにとって苦悩すべき点はもっぱらサルーズのことであり、時として彼の不利益とすらなり得るほどのその誠実さにおいて、サルーズがシエナ以外の人間と関わることの重要性、言い換えれば、交流関係を選択するサルーズ自身の自由について、無視することができなかったことであった。

 別の観点から考えると、あるいはこうしてまだ判断力の拙いうちから、大人の想定するいくつかの将来というものの難解さを考慮せずに、可能性について何をか自身で選択させようなどという試みは、いかにも厳格すぎるとも言える。しかし、少なくともこの時点のシエナに、その厳しさについて俯瞰できるほどの養育者意識を期待することはできなかったであろうし、あるいは人の自由にある特定の理想を持つ彼にとって、子供という小さな知性を例外化することへの抵抗を勘定すれば、養育者意識などあっても役に立たなかったかもしれない。いずれにせよ、彼がサルーズとの心理的距離を縮めるにつれ、またグラウの子供について語る際の穏やかな表情を理解するにつれ、シエナにとってその問題はいよいよ大きなものとなっており、それが次のグラウの訪問までに結論を出し得なければ、今後いつになろうと機を逃し続けるであろうということも、もはや疑いようのない状況であった。

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春、戦争があった 菊地真子 @KikuchiMako_

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