六
シエナにとって何より困難だったのは、意思疎通に困難のある幼子を養う経験が、彼自身に一度もなかったことというよりも、むしろ内戦以降の彼の生活が孤立していたことに起因する、救いようのない寄る辺のなさだったと言える。彼自身は人との繋がりを粗雑に扱うほうではなかったし、これまでのことからもわかるように、人からの恩や義理をいちいち丁重に返す几帳面な性格が強い人間であった。それは内戦を経ても変わることはなかったものの、首都を離れてからの生活によって、彼がそれまでにどれほど人との繋がりを重んじてきたかに関わらず、避けようのない孤立へと追いやられていったのである。
サルーズという孤児は、おそらく五、六といった年頃だったが、その年の子供にしてみればずいぶん大人しいほうであったし、手のつけられないほどの傍若無人さを見せることも殆どなかった。しかし、それでもここでの生活に慣れてきた頃には、夜になると寝台からうめき声をあげていたり、時々食事を嫌がったりといった、理屈の通用しない素振りでシエナを困惑させることも増えていた。
それはおそらく、ここでサルーズが受けていた過剰なまでに丁重な扱い、つまりこのくたびれた中年の要領を得ない彼に対する世話が、彼に危害を及ぼそうとする大人たちのそれと全く異なるということを、時間を経るにつれ彼が体感で理解しつつあったために、彼の意識を支配していた警戒心に綻びが生じはじめていたことの表れであったのだろう。自らの意思というものを、恐怖によって押さえつけられる状況ばかり強いられてきた彼にとって——つまり、内戦の混乱のなかで一人当て所なく逃げながら、心寂しさと空腹に涙しても、歓迎され得ない人種として幾度となく拳を振り下ろされ、木枝で叩かれてきた彼にとって——何か後ろ向きな心境になったことを態度にするとか、望まれていない言動をとるとか、そういった年頃の子供らしい振る舞いはむしろ困難になっていた。そう考えれば、サルーズがシエナを困らせるような行動をとるようになったことは、いくらかの信頼を示す態度であったともいえる。しかし、このしかつめらしい元学者の、幼稚という理不尽に対する不器用さというのは殊に顕著であったし、しかも彼の限りなく誠実な人柄によって、その幼稚な行動のいちいちすべてに、何かしてやらねばならないという責任を感じとってしまうのであるから、結果として二人の間で交わされる意思の伝達というのは、ますますおぼつかなくなりつつあった。
ただ、そのなかでも幸いだったのは、この物言えぬ幼子に天性のものというほかにない聡明さが備わっていたことだった。というのも、シエナが彼に初めて意思を受けとったあの日以降、シエナが彼に向かって話す言葉を、正しく発音できるわけではないにせよ、その意味するところを把握しているらしい様子で復唱してみせるということが、幾度となくあったのである。シエナは語学を自らの生業としていたために、サルーズのそうした知性の高さにはいち早く勘づいて、日中の彼が起きている間に、日常会話で頻繁に用いるソロキドス語の教示を試みることにしたのであった。
そして、シエナの見立てどおり、その試みは実に順調に進んでいき、サルーズは数週間で自らを世話する中年がシエナという名前であることを覚え、台所にある食材の名前も半分ほどは覚えてしまったのである。シエナはこのことを喜んでいたし、これまで悩みの種であった意思疎通についても、先に光明が見えたと安堵していたが、何よりそのめざましいほどの英知、ある種幼さの持つ素晴らしい特性のひとつである、柔軟で優れた適応力というものに、大いに驚いていた。
さて、そうして、シエナとサルーズとの生活が始まって二ヶ月以上が経過した頃、また新政権の情報将校であるグラウは、彼らの住まうぼろ屋にたずねてきた。より正確にいえば、この二ヶ月の間も彼は一定の間隔、つまりシエナに任せている仕事の期限が近づいたときには、決まってそこを訪れていたのだが、シエナが口をきかないで追い返したり、グラウもその態度に何も言わなかったりしたものだから、これまでの二人にあったようなささやかな会話は、一度も交わされることがなかった。
シエナは無論、彼に対してこうした反抗的な態度をとることが、自分の益に——ひいてはサルーズの益に——ならないことを理解していた。しかし、グラウという軍人に見た幻想的な義の在処というものは、シエナにとって想像するよりもはるかに、諦めをつけることが困難であった。それゆえにシエナは、彼に自身との間に壁があることを知らしめることで、軍人の行動の何かが改められるのを期待し、その無益な反発を繰り返してしまっていた。
しかし、その状況にも結局、潮目がもたらされることになった。というのも、サルーズの様子に明らかな変化が認められたこと、とりわけサルーズが時折見せるようになった不安定な振る舞いのことについて、シエナ自身があまりにも無知であり、加えて誰に問うこともできないという状況が、次第に彼を思いつめさせていたためである。シエナは、一切誰に頼ることもなく何もかもこなせるほど要領のよい人間ではなかったし、かえってその欠落こそが彼の交友関係を保たせていたともいえるほどであるから、言ってしまえば、自分で始めたグラウへの無愛想が、最終的には彼自身を苦しめていたと認めざるを得なくなったのである。
それで、この日軍人がいつもと変わらない様子で彼のもとをたずねてきたとき、シエナは実に不満足な顔ではあったが、久しくしていなかったように玄関の扉を開けて彼と対面し、家にあがるのを許すことにしたのであった。
一方のグラウは、自分を迎える仏頂面の中年を前に、少し目を開いた程度で、特にいつもと変わらない貼りついた薄ら笑いを浮かべるばかりであった。
「——しばらくだな」
「……帽子と外套、そこで払ってから入ってください」
幸いにして、その日は雪が降っており、グラウはその軍帽と外套に雪をまとわせ、顔から血色を失わせていた。シエナはそれを自分への言い訳にしてしまったことに落胆したような深いため息をついてから、投げやりな調子でそう言い放つと、グラウを待たず紅茶を淹れに台所へと入っていった。グラウは彼のそうした態度を理解しているのかいないのか、その表情に変化はなかったが、どちらにせよ言われたようにまとわりついていた雪を軽く払ってから、居間にあがることにした。
シエナが彼のもとに紅茶を運んでくるまでの間、グラウは居間の暖炉に近い椅子へ腰掛けながら、机上に置かれたままの書類を何とはなしに眺めていた。無論、ここにメルカ人の子供——彼が拘束、あるいは殺害する使命すら負っている対象——が匿われていることについて、彼も気にしていないわけではなかっただろうが、しかしそれによって焦慮に駆られるような状況であったなら、そもそもこの二ヶ月ほどシエナの反発を受け入れてやることもなかっただろう。この初老の軍人には、自らの立場を脅かしかねない存在に対しても、悠然と見過ごせるだけの何か確信というものがあった。
台所から居間に出てきたシエナは、グラウに紅茶の入ったカップを運んで、特に何をするでもなく書類を眺めている、その横顔を一瞥した。
「……前回の仕事なら終わってますよ。そこにあります」
「ああ。どうも」
「グラウさん、今日はなんですか。また仕事なら、勿体ぶらないで出しておいてください」
「うん?ああ……そうだな」
グラウはシエナのほうに視線を上げる。
「しかし、今日はお前のほうこそ何かあるようじゃないか?あの子供はまだここにいるんだろう?」
シエナは、軍人のその言葉によって、明らかに動揺した表情で口を小さく開閉させた。この泰然とした年寄りが、時折彼の心理について見透かしたように的確な理解を示してみせるとは知っていたものの、しかし彼が想定するよりもはるかに、軍人の考察は正鵠を射ていたのである。
返答に窮するシエナの顔を見、軍人は椅子に背を預けて目を細めた。
「わかってるだろうが、俺は上に言ってないし、俺自身がどうこうするつもりもない。とはいえ、俺にも立場があるからな。お前に払ってる仕事の報酬は減らすしかない」
「……報酬のことなんか、どうしてくれたっていいですよ。それよりも、私はあなたの——いや、グラウさん、あなたはどちらなんですか?本当に、人種や民族の別で生命に差があるなどと、あなたもそう考えるんですか」
軍人は口を噤み、細めた目をシエナに向けるばかりで、その問いに対する答えらしいものを何も提示しないようにしていた。シエナがまた感情を昂らせそうになったちょうどそのとき、奥の部屋から声がした。
「セ、ナ……」
サルーズに呼ばれたことに気づき、シエナは慌てて振り返って奥の部屋へと去っていった。グラウはその様子を見ていたが、シエナが見えなくなるとふっと表情を緩ませて目を伏せ、微笑みながら紅茶に口をつけた。窓の外でいっそう降り積もっていく雪の、音を隔てるような静寂を眺めて、彼は何か考え事をしているようであった。
シエナがサルーズの様子を確認して、呼ばれた理由がわからないまま呆けた顔の子供のそばで戸惑っているうち、彼が眠りにつくのを見届けると、シエナはため息をついて居間に戻ってきた。しかし、そのことでようやく、シエナは自分が頼る人間を選べる立場にないのだということを、冷静に思い返すことができた。
「——グラウさん」
居間に戻ってくると、暖炉のそばの椅子に腰掛けたグラウは、砂糖も入れていない紅茶をスプーンでかき混ぜながら、いつもよりいくらか穏やかな表情で微笑んでいた。
「……どうかしたんですか」
「うん?いや」
彼はシエナのほうを見ることもなく、手元に落としていた視線をそのまま伏せる。
「ずいぶん他人行儀だな、と思っただけだ。お前の、妙なことに固執するところは、数年前から変わらないようだ」
グラウはそう答えると、手にしていたスプーンを置いてシエナのほうに視線を上げた。
「それで、先生。そちらの聞きたいことは」
「——グラウさんには、お子さんがいらっしゃったと思うのですが」
「ああ。末の子ももう大人だがね」
「なら、グラウさんも……理由なく呼ばれたり、泣かれたりしたものですか」
グラウは自分のそばに立っているこの実直な旧知の、妙に落ち着かない態度の原因を理解し、ふっと小さく和やかに笑ってみせた。
「……ああ。それはどの子でもそうだった。幼い子供っていうのはそういうものなんだろう」
グラウの返答を聞き、シエナは何かを考えているらしい表情で、わずかに目を逸らした。何がシエナを不安にさせていたのか、この老人には既に正確な理解が得られていたし、それが確かめられたことによって、かえって彼の懸念——シエナが仕事すら受けなくなり、あるいは国外に逃亡するなどして、関係が完全に断絶するという可能性——について、考慮する必要がなくなったのは、老人にとっての利であったといえる。
だからこそ、グラウはその表情に安らかささえ認められるような、普段より温和な微笑みを浮かべていた。シエナには、いつものように彼の不器用さを面白がっている様子としか映らなかったことだろうが、しかし彼らの関係に今以上の分断が入らないというのは、殆ど唯一といえる彼らの共通認識であった。
「子供の言動を気にかけるのは仕方のない話だが、お前のことだ、ことごとく何か世話してやろうとしてしまうんだろう。そうまでする必要はないんだ、子供といえど、危険な真似さえしないようなら放っておけばいい……」
低く落とした調子の声で、グラウが子育ての経験則について語っている間、シエナはやはりどこか気まずそうでありながらも、しかし真剣な様子でそれに耳を傾けていた。そうしてグラウが帰っていくまで、彼らは決定的な分断をその間に刻みながらも、対話という道が失われたわけではないことを確かめていた。
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