ある朝、代わり映えのない質素な食事を終えたあと、シエナが二人ぶんの食器を洗って台所から出てくると、普段であれば寝台へと歩いていくサルーズが、何故かダイニングの椅子に腰掛けたままでいた。その大きな瞳はただ静かに空間のどことも定まらないところを見つめ、輪郭の整った横顔から、呆けたような様子が窺える。シエナは当然ながらそれを気にかけていたが、しかし、彼を家へと連れ帰ってからしばらく続いていた言語の断絶による静寂を思い出すと、言葉をかけることへの戸惑いが拭えなかった。

 束の間の思案ののち、シエナはサルーズにどうしたのかと問いかけてみたが、やはり物言わぬ幼子はその呆けた顔をシエナのほうに向けるばかりで、何某かの意思も示そうとはしてみない。仕方なく、シエナはサルーズの頭に軽く手を触れるだけにとどめ、まもなくその小さく椅子に座りこんだ子供のそばで、自分の仕事にかかりはじめた。

 その日は外で雨が降っており、どことなく肌寒い風が朽ちかけた窓枠の隙間から入りこんでくるような、埃のにおいが鼻につく一日であった。シエナは時折視線を上げてはサルーズの横顔の輪郭を眺めて、しばらくしてから机上の資料へとその視線を戻すというのを何度か繰り返したほかは、殆ど仕事にかかりきりであったが、子供はどこからか微かに聞こえてくる家の軋む音に顔を上げたり、窓にぶつかる水滴を目で追ったりと、しきりに周囲への意識を向けている様子だった。

 そのまましばらく経って、シエナがもう一度サルーズのほうに視線を上げたとき、それまで見ていた横顔はシエナの方を向いていた。普段と異なる様子を見せる子供に、ただでさえシエナはわずかな戸惑いを覚えていたが、その視線がぶつかった瞬間にはそれがはっきりと動揺に変わった。一方のサルーズは、まったく一切の揺らぎもない、無感動に景色を眺めるような様子に見えた。

 これは一方的な理解であったかもしれないが、シエナはこのときの子供の様子を見ているうちに、彼が何か意思のようなものをとうとう示そうとしているように思えていた。それを補強するものは何らなかったし、シエナ自身にも確信があったわけではなかったが、しかしこれまでのことを鑑みれば、自己意識すら不鮮明な子供との意思疎通の機会などないに等しいものであり、もしこれがわずかな兆候であるとするなら、シエナにとってはただ見過ごすには惜しい異変であった。とはいえ、彼も何をすべきなのかについてはあまりにも無知であったし、子供の視線と自身の目を合わせたり逸らしたりしながら思案していたが、結局彼の考えでは、不器用に手を差し出したりするほかのことは思い浮かびもしなかった。差し出された手の方へ顔の向きを合わせて動かし、子供はしばらくそうしてシエナの不器用さに付き合っていたが、やがてその大きな瞳を真っ直ぐシエナの手元の資料に落とした。

 サルーズが言葉を覚えていたとしても、それはもはや彼がこの廃屋のような家に来たときから既に失われて久しいものとなっていたことは紛れもない事実である。そのゆえに、彼が見つめている資料の文字は、規則性のある単純な羅列以上に意味を示すものにはなり得ない。しかし、彼は子供らしい聡明さまで失ってはいなかったし、だからこそ彼に向かって忙しなく視線を向けている疲れた顔の中年が見ているものへ、かろうじて興味と呼べる意識を向けていたと言えるだろう。

 シエナはその目を見て、彼の意思を汲み取れるのではないかという希望がいよいよ明確になり、またそれが彼を焦らせているらしく、気づけば小刻みにその手を震わせていた。

「サルーズ、サルーズ——わかるかい。これは文字だ……これは紙だよ」

 サルーズの小さい手をとって、それらに手を触れさせながら、シエナはうわずる声でそう言って聞かせた。サルーズの表情に変化はなかったが、シエナの震える指に動かされる自分の手や、聞こえる声の響きは、慎重に受け取ろうとしているように見えた。

「あ……」

「そう、紙——これだ。いや、触っていい、大丈夫だよ」

「あ……い」

 いつもより騒々しい雨音が、二人をその空間に取り残すように、寄り添った中年と子供の弱々しい繋がりを包んでいた。

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