四
東西内戦が集結する間際、シエナの勤務していた国営大学が封鎖されることになったとき、彼は最早自分のすぐ隣にまで危険が迫っていることを悟っていた。内戦でエクサケプス派が優勢になるということはつまり、それまでのソロキドス政府のもとで、大国的な民主主義と個人の自由を曲がりなりにも獲得していた市民が、暴力や虐殺の恐怖によって支配されることを意味していた。事実、「新政権」となったオクトリタズは、ソロキドス内の少数民族であるクラール人などの虐殺を行い、内戦が終結してから約二ヶ月が経過した現在においても、その遺体が道外れに放置されているような状況が現れることとなった。多言語を扱えるがゆえに、戦前から人種や民族の隔てなく多くの人と関わってきたシエナが、民族主義を掲げて差別を跋扈させ、暴力で政権を奪取したエクサケプス派の軍閥を、どれほど憎んでいたかは想像に難くないだろう。何より彼の愛した祖国、このソロキドスという彼にとって唯一の故郷が、不恰好ながらどうにか自由を目指し、歩きだしていたというときに、その歩みとともにあった人々の遺体が道端に転がって、誰もが息を潜めて埋葬すら叶わないような光景を、再び現実としてみせたのは、シエナにとってまさに絶望の奈落へと突き落とされたにも等しい出来事であった。
シエナは両親ともにソロキドス人であり、迫害対象になるような民族ではなかったものの、民主化と自由化に寄与してきた経歴から考えて、まず身柄の拘束は免れなかったであろうし、彼の同僚であった他の学者の何人かがオクトリタズ軍に殺害された状況を鑑みれば、シエナが同様の運命を辿ることですら有り得た。
それが現実とならなかったのは、オクトリタズの幹部軍人であるグラウが、一人の知人としてシエナに手を貸し、地方都市クレーゼンの外れへと逃亡させたからにすぎなかった。つまり、この寂れた廃屋のような一軒家は、もともとグラウの所有していた別荘であり、グラウはそこを隠れ家としてシエナを匿うために使わせている。
こうした経緯もあって、シエナは、グラウという軍人が根底の部分で正義を持つ人間であることを信じていたし、「新政権」の要人という、彼にとっての仇敵とも言える存在であっても、グラウだけは敵対的な態度をとらずに話をすることができていた。しかし、シエナはその恩を、知らず知らずグラウに対する理想へと変換してしまっていたのである。それが、かの戦争孤児に対する態度でもろくも崩れ去り、そしてその感覚によってようやく、シエナは自らが抱いていた理想というものを自覚することとなった。
しかし、シエナが彼の信じる正義とグラウとの間にある隔絶を確かめてからも、彼の現状に鑑みれば、心理的な距離の如何にかかわらず関係は保たねばならなかった。かつての彼であれば、自らの命を顧みずこの家を出ていくこともあり得ただろうが、今のシエナには自身の命にかかる責任が、もはや彼一人だけのものではないことが明らかであった。
シエナは自身の正義に対し愚直な人間であったし、時折こちらへ訪問してくるグラウとの今後の会話を想像すれば、長い嘆息をこらえることも難しいほどである。それでも、細い寝息をたてて眠るサルーズの横顔を見れば、むしろ今は憤りを腹の底に沈めてでも、グラウとの関係をこれまでどおりに維持しなければならないと、シエナのなかで自然に覚悟が決まっていた。
軍靴の音が風音に紛れ、再び一人になったあと、シエナはほどなくして机に向かいあい、グラウの置いていった新しい仕事に着手しはじめた。窓からは西日が差していた。
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