ある日、朝食を終えてサルーズの身体を洗ってやったあと、彼が疲れて再び眠りについたところで、シエナは数日ぶりに自分の時間というものを思い出し、仕事に手をつけはじめた。

 ソロキドスにおける一般的な仕事といえば、大きな都市を除けば殆どは農業や建設業であるが、シエナは東西内戦が起こる前、前政権下の国営大学で学者として勤めていた。内戦勃発以降、隣国テムナボをはじめとする他国の外交官や大使、学者たち全員に連絡をとり、避難民などの国外逃亡を手助けしていたが、本人はソロキドスで起きていることを伝える現地の情報提供者として、国内にとどまり続けた。シエナはそうした他国との結節点になることを自ら望んだというよりも、ただ毎日必死になって目の前の問題に取り組もうとし、そのために自分の使えるものを使っていたらそうなっていた、というほうが正確である。このような経緯があって、政権崩壊と同時にシエナは職を失っていたのだが、幸いにして仕事には困っていなかった。

 しかし、そうした仕事が、強固なソロキドス民族主義を掲げる現政権のもとで、認められたものでないのは想像されるとおりである。何の秘匿の試みもなしにそれを続けることは、東西内戦の戦況が悪化するにつれて困難になっていき、まして中央政府機関の存在する首都アールスに自宅を持っていたシエナには、武装した戦闘員が突如として家へ乗り込んでくることすら、明日にも現実となりうる問題であった。

 そうして、シエナは東西内戦の終結、つまり前政権の総裁長(※ソロキドスの国家元首)をはじめとする政府高官の殆どが殺害された、政権崩壊の日の前夜になって、とうとう戦闘の少ない地域への移動を決めたのだった。その行く先が、地方都市クレーゼンという場所の外れで、雑木林のなかにある荒屋になるまでには、多少の経緯があったにせよ、シエナはここを隠れ家としたことで、情報提供者としての仕事を続けるに至った。

 無論、それでも危険が隣り合わせである事実は変わりようがなく、そうした状況のなかでサルーズという新しい危険を呼びこむ火種ですら抱えてしまったのである。シエナがそれでも自身の行動を過ちと思わないのは、ひとえに、自分が抱えてきた小さな子供がいくらか安心した顔つきで、布団に入って眠っている光景があるからにすぎなかった。

 シエナは、ずいぶん久しく仕事への集中を取り戻し、それでも何度となくサルーズの様子を気にしていたが、いずれにせよここ数日で殆ど失っていた時間を使って、他国の報道機関に渡す情報資料をまとめていた。

 薄く開けた窓から、冬の寒気とともに木々のさざめく音が流れこみ、あたりを包んでいるのがそれ以外には一切の静寂であることを知らせていた。シエナはその静けさのなかで、それまでの当たり前だった孤独をふと思い出し、それが余計に彼の落ち着きを取り戻させているようだった。彼にとって本来、自身の愛すべき自由とは孤独に他ならなかったし、それが本当の意味で彼のもとに戻ってくることは、内戦以降には最早叶わなくなっていた。

 そうしてしばらく経ち、じき太陽が南を回るという頃になって、シエナに与えられた束の間の静寂は、家のほうへ向かって歩いてくる一人の足音によって、やはり失われることとなった。徐々に近づいてくるその足音を聞けば、シエナにはそれが誰なのか、思い当たる人間は一人しかいなかったが、しかしその見立てが確かならば、彼にとっては、そのとき最も顔を合わせたくない人物であった。彼は自身の見当違いを願ったが、その足音が止まって扉を叩く音がすると、間もなく諦めたように深くため息をついた。

 玄関に出て、扉を開けると、シエナの想像したとおりの、見慣れた軍服姿がそこにあった。ふてぶてしい表情が軍帽のつばの影からシエナのほうを見つめ、シエナもその顔を険しい目つきで睨みかえした。

「ご挨拶だな」

「そちらこそ、ですよ」

 軍人はふっと息だけで笑うと、シエナのことわりを待たずに家へとあがった。

「今日はなんの用事ですか、グラウさん。仕事なら、預けてすぐ帰ってください」

 シエナは、軍人が奥の部屋まで進んでしまうのを引き留めるように、すかさずそう声を張った。グラウはシエナのほうを振り返り、帽子を外す。

「そう言うな。いつもの仕事も持ってきたが、俺にはお前を見張る役目もある」

「……わかっていますよ。どちらにせよ、満足したらすぐに帰ってください」

 グラウは、聞いているのかいないのか定かでない様子で、先ほどまでシエナが向かっていた机上の書類をいくつか拾いあげて物色しはじめる。シエナは内心、サルーズがグラウに見つかってしまうことを恐れていたが、そのグラウの態度を見たときには、最早自分の焦りも彼に伝わっているだろうし、何の隠匿の試みもなく言葉だけで彼を止めることもできないと諦めをつけて、ため息をつきながら紅茶のための湯を沸かしに台所へ向かった。

 そしてシエナの考えるとおり、グラウは、シエナがいつもよりいくらか彼を歓迎しておらず、それも何かを隠したいような苛立ちを滲ませた態度であることを察していた。とはいえ、シエナとの付き合いが長いグラウにとって、その隠し事が反政府デモの計画であるとか、そういった大がかりな反抗のようには想像できなかったために、グラウは悠然と書類をめくり、もっともらしく検閲するそぶりを見せるだけであった。

 そうしていると、グラウが立っていた場所の奥にある部屋から、木の軋むようなかすかな物音が聞こえ、軍人は表情のない顔をそちらに向けた。彼はすぐに、その先にあるものがシエナの隠そうとしていた何かであろうと予感したが、それを暴かなければならないという切迫はなく、彼がそのとき物音のした方へと歩きはじめたのは、単に好奇心がまさったからに過ぎない。

 シエナは台所に立ちながらも、時折顔をだして軍人の動向を見張っていたが、彼が奥の小部屋で眠るサルーズをその場にただ佇んで見すえているらしいとわかると、静かに目を細めた。このときに彼が確信していたのは、そうして何をするでもなく佇む姿からしても、グラウは、彼の目の前で横たわっているのが数日前に自身が見捨てた孤児だと覚えているだろう、ということだった。そして、覚えているのなら多少の自責があるかもしれないとの期待も、朧げながら確かに存在していただろう。

 シエナが紅茶を淹れ終わって、広間までグラウのぶんも運んでくると、グラウは言葉も表情もないまま、そちらへ戻った。グラウが話すまで、シエナは自ら彼に何かを言うつもりはなかった。そうして二人はしばらく完全な沈黙のなかで、ただ紅茶を口に運んでいたが、ようやくグラウが「それで」と、閉ざしていた口を開く。

「いくらだ」

 シエナはその言葉を聞くと、自分がいかにこの軍人の道徳に期待しすぎていたかということについて、否が応でも認めなければならなくなった。何も言えず、唖然とし、眉一つ動かさずに紅茶のカップを傾けるグラウの顔を凝視していた。

「なにが……」

「あれはメルカ人だろう。お前がそれを知らずにここへ入れるとは思えないが」

「いや……あなたも覚えているでしょう、近所の道端にいた子供ですよ。何故値段の話になるんです」

 伏せていた視線をあげ、シエナと目をあわせてグラウは肩をすくめる。

「口止め料だよ」

 最早、シエナはこの軍人に対して、返す言葉を持ちあわせていなかった。自分を落ち着かせられるまでの時間、顔を俯かせ、その場で立ち尽くしたあと、グラウのほうへ歩いていって彼の目の前に紙幣を叩きつけると、すぐに背を向けた。

「お願いです。もう帰ってください」

 グラウはその様子にほんの一瞬だけ戸惑ったらしかったが、結局打ち捨てるように渡された紙幣を受けとって外套の懐にしまうと、それにかわるように書類を包んだ封筒を置いた。

「今回の仕事は三週後に回収に来る」

 軍帽を被りなおし、静かに玄関へ向かって歩きはじめてから、俯いた顔を覆って、なんとしても自分の冷静さを取り戻そうと必死になっているシエナのほうを一瞥した。

「地下室の鍵は台所の隠し戸にある。必要になったら使うといい」

 グラウはそう言い残すと、扉を閉めて出ていった。

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