Episode 09:花雪に別れを
シンシア・ハッセ滞在最終日。アレクセイは昨晩の失態を上塗りすべく泥のように酒を煽ったおかげで酷い宿酔いに悩まされていた。ジョシュは顔を見るなり苦笑って揶揄したものの、軽口に返すだけの気力を持ち合わせず仏頂面を通して黙殺した。
これにはジョシュも肩を竦めるだけに留まる。
昨晩は辛うじて自分の足で自分の部屋まで戻った。プティ・フールを肴に飲む酒の合間にどんな会話をしたのかは、あまり思い出せない。鮮明に覚えているのは、あの男・ユーリィがいけ好かないとんだ道化だということだけだ。
人を食ったような態度も、言動も。アレクセイにとってはそれだけでうんざりだったが、その言動のすべての裏付けが彼自身の欲とまさか無関係であろうとは。
「……馬鹿にされているとしか思えん」
憎々しい呟き。どうしてこんなに腹が立つのか、自身では想像ができずにいた。苛立ちは手元に顕著に表れ、無意識ペンの尾をコツコツと台帳へ叩く。
シンシアが昼過ぎの列車で発つことはチェックインの時点での決定事項である。予定通り乗車チケを手配してあることを確認して、後は彼女を待つだけだった。
夜通し降り続けた花雪は朝には一度その勢いを緩めたものの路面を白く染め、恐らくは彼女が滞在中で一番の降雪量だろう。そんな、普段なら考えもしない様な思案を織り交ぜながらカウンターへ立つ。
「帰っちゃいますね、彼女。……結局、電話ナンバーぐらいは聞き出せたんですか? その気がないならオレが貰ってきてもいいですか?」
付き合いのあるジョシュにとってはアレクセイの挙動に対して臆せずそんな言葉を掛けるのも容易い。ここ数日の件でその度合いは強まり、面白がっている節すら見せている。
眉を顰めたままじろりと睨みを利かせても、今度はジョシュも引き下がる素振りを見せない。アレクセイには彼が何処まで本気で、何処まで揶揄いの範疇であるのかを測るのは難しかった。
「オレは割と本気ですけど」
「冗談でも上司に口にすることじゃないだろう。弁えろ、それ以上の言葉は返せん」
「……仕事ばっかりっすね、アンタ」
――当然だろう?
呆れたようなため息を吐かれても、アレクセイにとってそこは譲る場所ではなかったように思う。まさか彼が発破を嗾けているなどとは、つゆほども思わないのがこの男だった。
昼までの仕事をこれまでと変わらず淡々とこなす姿には私情を挟む隙のなさしかない。
そんな仏頂面の男の表情が、フロントへ階段を下りて来る彼女の姿ひとつに変化を見せる。
アレクセイ自身は気づきもしない、隣で彼を見ているジョシュにしかわからないほどの機微な変化。
剣呑だった眼差しが、その姿を捉えた時だけはほんの少し和らぐのだ。
一方、シンシア・ハッセもこの場所へ着いた時よりも数段落ち着いた物腰で、アレクセイを見てふわりと柔らかく微笑う。
「――チェックを」
「ハイハイ、ただいま」
「……ジョシュ、勤務中だ」
アンタもな、と毒づきたい気持ちでジョシュがふたりを交互に恨めしそうにみたが、当事者たちが互いに都合がよく鈍すぎるせいでただジョシュがひとり割を食う形に終わる。
近く、シュウシュウと音共に煙る機関車が炉を温めている。行きと同じように人の姿は少なく、その凡そは商業の荷下ろしでホームを埋めていた。
花雪ははらはらと舞い、止む兆しはない。
目の前に立つシンシアの肩へ、アレクセイの肩へうっすらと積もって行く。
「本当に、お世話になりました。……また何処かでお会いできたら」
頭を深く下げる彼女に、ああ、と答えたはずのアレクセイだったが、唇からは白い息が漏れただけだった。
出発は間もなく。駅員が声を掛けている中、彼女は後ろ髪を引かれるように何度も振り返りながらやがて車内へと消えた。
アレクセイは列車の姿が見えなくなるまで見送りたいと考えていた。そのぐらいの猶予はあるはずだと考えて。
がしかし、出発を報せる汽笛の音を受けた瞬間、弾けたように身体が動いた。走り出した足は止まらず、そのまま列車へ飛び乗る。
シークレストとヘリオトロオプを結ぶこの鉄道は今も昔も変わらずシークレストの新生技術が使われていない。扉に鍵を掛けるでもないため、乗り込むだけなら易々と可能ではあった。
無論、こんな例はおいそれと起こらなかっただろうが。
――俺は、何をしようとしているんだ?
今にも身体の外へ飛び出しそうに煩く跳ねる心臓を落ち着けるように車内の壁へ手を付いて荒い息を吐き出す。
程なく、タタンと繰り返す轍の音と振動が始まる。
切符もなければ荷物ひとつ持たないで、何をしようというのか。自問自答はそう長く掛からなかった。
深呼吸を今一度。二度。自身を奮い立たせるようにしたアレクセイは、意を決して客席の方へと足を進めた。
まばらの客席で彼女を見つけるのは容易い。彼女の方もまた、すぐにアレクセイの姿を見つけて紅眼を瞬かせる。
「ご一緒させてもらえんだろうか。……出来ればあんたの国まで」
朴念仁と呼ばれていた男の精一杯の言葉だった。スマートとまでは行かなかったが、唇の端に浮かべた笑みがこの数日での変化の賜物であった。
「……もちろん、喜んで」
シンシアは潤んだ真紅を細めて微笑み応えた。
じき、車掌がやって来て乗車チケを確認に来るはずだったが、料金を支払えばつまみ出されることもないだろう。彼女のトランクを足元から頭上の荷物棚へ移し、隣へとアレクセイが腰を下ろすと、シンシアがそっとその頭を肩口へ凭れさせてくる。
彼女の積極性にも少しは慣れたような気がした。驚きはしたものの、不快さを覚えるどころか何処か離れ難さがそこにはあるのを感じる。
シークレストに着いたら改めてホテルと父親へ一報を入れ、彼女を無事送り届けたその後はシークレストを少し観光でもしようか。
アレクセイは窓の外の花雪へ視線を投げながら、その重みと伝わって来る体温の温かさへとしばしの間意識を融かすのだった。
窓に吹き付ける花雪が融けるように、心が融けるような心地が何故だか心地がいい。たった数日の出来事ではあるが、アレクセイにとりそれは世界のはじまりとなるだろう。
花雪 -Huaxhue- 紺野しぐれ @pipopapo
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