Episode 08:アイロニィ

 最小限の食器が触れ合う音と、ピヤノの生演奏、近隣のテーブルの密やかな会話だけが聴こえていた。

 メイン料理が届いた頃合いでアレクセイは耐えかね、給仕へ耳打ちをした。


「悪いが料理を止めてくれるか。味が悪いんじゃないが、調子が思わしくないんだ。代金はそのままでいい」


 このまま無理に食事を続ける理由が見当たらなかった。給仕は一瞬狼狽えてみせたが客の意向を汲んで深く一礼をして下がる。

 言葉通り、出される料理に文句はない。質のいい素材も腕のいい料理人も揃っているだろう。それでも料理の味を決めるのは気持ちだ、とアレクセイは考えた。

  

 遡ること一刻前。

 約束の時間の十分ほど前に階段を下りたアレクセイは、館内の電話ボックスの傍に立つシンシアと合流して、彼女の勧めるままに店へと向かった。

 パッセオ広場を北へ抜け、テルミヤ河を渡る橋を渡ろうとする。アレクセイは足を留めた。

 河川向かいを境界、ダウンタウン。先日振り、まさか二度もそこを訪れることになるとは想像もしなかった。行く理由も、行く価値も、アレクセイには見出せない。

 反してシンシアはどんな抵抗も見せないでいる。眉を寄せるアレクセイの眉間に優しく触れて微笑い、指を滑らせて頬を撫でた。彼女は他人との距離感がやや近すぎる。

 腕を引くようにして歩き出す彼女に、半ば引き摺られるようにして歩くしかなかった。

 彼女の厚意を無碍にすることは、何より気が引けた。

 シンシアはこの街の紅眼を同胞と考えているのだろう。アレクセイの貸し与えた遮光眼鏡を、今夜も身に着けていなかった。

 ダウンタウンに住まう紅眼と彼女は似て非なるものだと説いたところで、この好奇心の塊のような娘はきっと納得しないだろう。喉元まで出掛かる言葉を苦々しく飲み込んだ。

 テルミヤの河沿いをミルキィウェイとは反対の方角へシンシアは先導する。煉瓦ビルと白樺並木の下、人影はまばらながらにある。アレクセイは不躾とわかりつつも、すれ違う人の様子をちらり、ちらりと窺って歩いた。

 煙突掃除の道具を抱えて歩く男、ボールを抱えて走る子どもたち、いっぱいの紙袋を手に小走りのマダムは夕飯前の買い出しの遅れを急いているのか、……どれも平凡でアレクセイの思う下町のイメージからはかけ離れている。

 ひとつ路地を曲がったらきっとそうはいかないはずだ、等と考える間に彼女が足を留め、目的の店へ辿り着いた。

 河沿いとはいえダウンタウンには凡そ似つかわしくない、豪壮な建物の造り。大きく身の丈分ある窓硝子の向こう、白絹のカーテンの後ろにシャンデリアが見えている。

 店の扉を潜る彼女の様子は、やけに緊張していた。その理由も、何故わざわざダウンタウンまで出向いたのかも、それから程なくして明らかになった。

 

「本当に、意地が悪いわ。あなたを誘うのにいい場所は、ってわざわざ相談したのに」


 席に着くテーブルの向かい、うつむいたシンシアはひどく狼狽して視線を泳がせ続けていた。


「ジョシュにでも任せたのか」

 

 訊ねると彼女は無言で首を横に振る。


「あの人に」


 続く言葉に瞳孔が開く。予想できないこともなかったが、だからといって平静でいられるわけでもない。違えることなくユーリィ、あの男のことだろう。名前を口にするのを躊躇う理由があるのは彼だけだ。

 音にならない程静かに息を吐き出したアレクセイは、それ以上生産性のない下らない思考を止めるため、押し黙った。

 その言葉一つでこの場は食事だけに集中して楽しむに留めた方がいいと判断したのだった。

 余計な追及は、料理を不味くするだけでは収まりそうにない。

 そして冒頭の通り、気まずい時間を過ごすことに耐えられなくなったアレクセイはそれとなく食事を中断することを伝えたのだ。

 他に会話を交えるべきだったが、たどたどしく料理を口に運ぶシンシアの、糸が張り詰めるような緊張を前には遂に言葉を発せなかった。下流でこそないとは考えていたが、かしこまった場は経験になかったか。彼女のそんな様子は僅かにアレクセイの気を和ませたが、それも束の間でしかない。

 沈黙が続くにつれ、アレクセイの思考はもやもやと先程の衝撃の事実を手繰り寄せてしまう。

 要らぬ情報のお陰で、また一つ複雑な感情が増えてしまった。あの男は、アレクセイがウリンソンの息子であることを知っていたからこそ、この店を選んだに違いない。ダウンタウンへの偏見すら見越していただろう。まるで両頬打たれて額へ頭突きを喰らったような気にさせられる。あの日の一打分にしては釣りが多すぎる。

 無花果と胡桃のソースを添えた鹿肉のローストへナイフを入れる。柔らかな手応え。口に運べば舌先に蕩ける、絶妙な味わい。

 アレクセイは人知れず何度目かの溜息を零した。美味さが感情を助長させる。

 皮肉に感じることすらも、手中にはまったようで気に食わない。


「……本当にごめんなさい」

 

 間を読んだようなシンシアの声に、肩が跳ねた。


「こんなはずじゃあ、なかったのに」


 ぽつりとごちてはにかむと、彼女はそっとフォークを置いた。

 口直しに水を含むのを見守ったアレクセイは、そっと席を立ち予め会計を済ませた。

 払わせるつもりなど元よりなかったが、この態では彼女へ詫びの印に土産を付けても足りないぐらいだと感じていた。ショーケースに並ぶ洋菓子を一瞥して一考するそこへ、プティ・フールの箱が用意される。

 コースを中断して席を立つ客への心遣いはさすがといったところだったが、一層後ろめたい気持ちで受け取ることになった。

 店に責はない。あるのは己と、あの男にだ。心で毒づいた。

 シンシアは支払いの途中で追い付き、所在なさげに二人分の外套を受け取っていた。店を出てまず、外套と菓子箱を交換する。


「言っておくが、あんたに怒っているわけじゃないからな」

 

 口にしたところできっと温度差は生まれてしまう。わかっていても言わずにはおられない。

 菓子箱を両手に受け取ったシンシアは、小さく笑んで肯定して見せる。

 店外へ出て、明らかに彼女の表情は安堵していた。顔色も心なしか持ち直している。緊張の糸がようやく解けたらしい。


「あなたに、もう一つ謝らなくちゃいけないことがあるの」


「……これ以上何を謝る?」


 謝られるようなことは何もない、極まりが悪くなるだけだと言いたかったが、本来食事を交えてフランクに打ち明けたかった何かがあるだろうと想像するのも簡単な話だ。

 血色が戻った彼女の表情を見るに、そう深刻ぶる事柄でもなさそうだった。

  

「口直しでもやるか、アンタが好ければだが」


 訊ねる視線を送ると、快く口角を上げてシンシアは微笑んでくれる。

 当然のようにアレクセイの左腕を取って横に並ぶ。この積極性には慣れそうにもない。

 アレクセイが気を紛わせようと空を仰げば、鼻先を冷たいものが濡らした。

 読み通りの花雪が、ちらり、ちらりと降り始めていた。




 壁時計の針は二十時を回ろうとしていた。馴染みの白銀堂へ足を運んだ二人はカウンターへ並んで掛け、いつものように温かい葡萄酒を頼んだ。

 雪は店に着く頃には肩へ降り積もる程強くなり、湯気の立つアルミマグが届くまでシンシアは両手に息を吹き掛けて温めながら待っていた。


「わたし、昨日水蓮市へ行ったの。あの人に頼んで」


 知ってる。


 反射的に答えようとして、アレクセイは押し黙った。

 彼女が天板へ滑らせるように置いた名刺が目に入る。紺地に白インクでミルキィウェイと記された名刺は、恐らくマーケットで出会った際にあの男・ユーリィから渡されたものだろう。

 水を差すのは、彼女が黙ってからでも遅くはないだろうと、己を抑える。あまり気乗りのする話題じゃあないのも確かだったが、今必要なのは彼女の話を誘う相槌に限る。


「あなたが忠告しに来た一昨日の晩、あの後、連絡先をもらっていたことを思い出して。あなたがダメならあの人を頼ってみようって、そう思ったの。何かあったら頼ってくれていいって、言ってもらってたから」

 

「無事に戻って来られたのは、よかったな」


 あの男の去り際の言葉が脳裏を過る。思い出すだけで腹が立つだけの話を彼女にするのは八つ当たりにしかならない。

 シンシアはマグの中身を少しだけ含んで、肩を竦めてみせる。


「結果論ね。彼、水蓮市の出身だって言ってた。ついでの野暮用に付き合ってくれるなら、って条件で協力してもらったけど……叱られたわ、『どうして頼ろうと思った』って。今なら自分のしたことがどれだけ軽率だったのかわかるわ。少し、自棄になっていたのかも知れない」


 シンシアは思い出を振り返るように薄く笑みを浮かべるまま、ゆっくりと言葉を並べて行く。

 水蓮市までは馬を走らせて数時間ほどの距離だった。夜のうちに出て行った彼女が、朝まで何処で過ごしたのかは語られない。いつ発ったのかは分からなかったが、葉書を頼りに水蓮貴族の屋敷を訪ねたという。


「おばあちゃんが亡くなって、部屋の整理をしていたら葉書が出てきたの。いくつも、いくつも。おばあちゃんは一度も教えてくれなかったけれど、それが母からのものだってことはどうしてかしら、わかった」


「単身、ここに来た理由はそれだったわけか。周りに話したら、止められていた?」


「……多分きっと。結果的には会えなかった。ううん、会えたのかな。土の下だとしても」


 シンシアの母は水蓮貴族の下で雇われていた使用人だった、と彼女は語る。

 紅眼を好んで雇い、囲う水蓮貴族は多い。アレクセイは自分の父親もかつて紅眼の女を離れに住まわせていたことを思い出した。若い頃の話ではあったが、母の口から憎々しげに語られる言葉は今尚続いていた。ウリンソン家が紅眼と、それに纏わるものを忌む理由はそこにある。

 

「屋敷のご主人がね、わたしが母にそっくりだってびっくりしてた。母のお墓に手を合わせて、帰ろうと思ったらなかなか帰してくれなくて。相手の血相が変わるのを見て、やっとあなたの言っていたことがわかった気がした」


 マドラー代わりの肉桂を手慰みに回して、シンシアが眉根を寄せた。

 紅眼を好んで側へ置く水蓮貴族の目的は基本的に容貌に価値を見出していることが殆どだ。何がどうなったのかを想像するのはアレクセイには容易い。

 そして、表情を変えた彼女が次の瞬間表情を綻ばせたことで、続く言葉にも嫌な予想が先走ってしまう。

 反射的にアレクセイは視線を窓の外へ投げた。


「ねえ、何て言ったと思う、あの人」


「…………」


「『ウリンソンの息の掛かった女に手出しするなら先に筋を通せ』、って」

 

「…………」


 半ば想像に近い言葉にアレクセイは両手に顔を覆って隠す。誰も居なければ、叫び出したい気分だった。誰も居なければ。

 怒りとも恥とも知れない感情に、顔の体温が熱くなるのは間違いなくアルコオルのせいではない。

 

「……そっか、だからあんな高価なお店を選んでくれたのね。わたしにはあの言葉の意味があまり分からなかったけど、そっか、そういうことだったのね。……アレク?」


 一人ようやく理解したシンシアの指先が肩に触れる。今顔を覗かれたら、そこにはきっと誰にも見せたことのない己がいることがアレクセイにはわかる。だから顔を上げられずにいたが、いつまでもそうしていられるわけでもない。がばりと上体を起こして、マグの酒を一気に煽ってしまえばそこにある赤ら顔はアルコオルのせいにしてしまえるだろう。

 苦しい言い訳だとしても。

 

「……お代わりだ」

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