再びSide:A

Episode 07:雪融け

 シンシア・ハッセの帰還を見届け、ユーリィの捨て台詞に煽られた後のこと。ホテルへ戻ったアレクセイは、フロントでジョシュがぱっと表情を明るくさせるのを見ても取り合わず、そのままホールの階段を上った。彼が何を言おうとしているのかはわかる。彼女の安否を、嬉しげに伝えたことだろうが、その話題を避けたいのが本音だった。

 明日の朝からはまた、通常業務へ戻るのだ。残る半日足らずの時間で平静を取り戻さなければ。そう、考えながらに自室へ籠った。

 怠惰に寝台へ身体を投げ打っても、まるで休まらない。頭の中を駆ける思考が止められず、苛立ちながら何度も寝返りを打った。眠ってしまえればよかったが、それも望めそうにない。

 平日の午後、オフシーズンともなれば夕方まで広場を通る人影も少ない。身体を起こして窓の外を見るや、アレクセイは受話器を手に取っていた。

 気怠い気持ちでコール音を待ち、ため息を吐き出す。


「はい、グッズマーケット」


「俺だ、イリス。……ちょっといいか」


「この間から珍しいことが続くね。お前から掛けてくるなんて、いつ振りだろう」


 受話器向こうの声は嬉しげだったが、その言葉に輪を掛けて心を乱されてアレクセイは声を詰まらせた。己の深刻さが露わになったようだった。

 イリスの言う通り、わざわざ電話を使うぐらいの用であるなら直接店へ顔を出す方が手っ取り早いと考える性格のため、こうして自分の些細な用事のために電話を手段に取ることはほとんどない。ましてや、己の感情のために受話器を取るなんてことは本来あり得ないことだった。緊張に、乾く唇を舌で湿らせてから口を開いた。


「ご馳走様、ってどういう意味だ?」


 己の中の理解が正しいのかを確かめるべく、訊ねる。受話器を肩に挟みつつ、電話台の側の収納棚の硝子戸を開け、陳列した硝子瓶のうちの一本を手に取って腕に抱えた。酒でも喰らわずにはいられない、そんな気分だった。


「どう、って………。もう少し状況を説明しろよ、憶測で物を語るのは好きじゃない」


 ポン。親指で押し上げたコルク栓が小気味良い音をさせる。

 イリスが返事を待って沈黙を守る中、ロックグラスへ酒を注いだアレクセイはひと口、含んで嚥下した。


「昨晩、件の娘があのユーリィとかいう男と一緒に居たみたいなんだ。さっき、二人で歩いている姿を見た。それで……」


「会ったんだな、ユーリィに」


「予想通り虫の好かない男だった。あの男、言いたい放題言って去って行きやがった。……あれは、捨て台詞だ」


 本当はあの言葉の指すところの意味は理解していた。ただひとりで事実を抱えることができなかった、それだけだった。感情を共有する相手として、イリスが適しているのかどうかは分からなかったが、事情を話している相手だというだけで随分と打ち明け易くはある。

 受話器向こう、ハー、と長いため息が聴こえた。


「話してた矢先の事態だな、そうなると。言いたかないけど、オレの知ってるユーリィなら彼女に手を出してたっておかしくない。マーケットで先に顔合わせてるって言ったよな、だとしたら尚更。人のものにちょっかい出すのが好きだし、……ああ、だけどどうだろう、ただの揶揄ってこともある」


「うちの財閥を相当嫌ってるような口振りだった。親父とお袋が関わるなって言うのにも関係するのかも知れん。つくづく、気に食わん男だ」


「彼女に訊く訳には……繊細すぎるか」


「既に随分、嫌われているからな、俺は。出て行ったのも、あの男と一緒に居たのも、俺の忠告の後すぐの話なんだ。そんな状態でむざむざ訊けるか。……合意だったと考える方が自然だ」


 口にして、思わずぶるりと背が震えた。胸のもやつきが急速に深まるのを感じて、グラスの酒を思い切って飲み干した。喉が焼ける。

 けれど、そんなことはもう気にならない。


「ねえ、話が逸れちまうけど、……お前がそんなに誰かのことを気に掛けるのって本当、珍しいね。いや、オレの知る限りはそんなことなかった気がするよ」


「何が言いたい」


 イリスが笑みの呼気を漏らすのが分かって、アレクセイはにわかに苛立った。

 

「気づいていないわけじゃないでしょう、自分で。わざわざ、オレの口からなんて言って欲しくもないくせに。……落ち着いたら、また顔見せろよ。いつでも付き合うから」


 厭味のない声色はまるで優しく肩を叩かれたような心地で、それが何より欲していたものだと気付く。相槌を返したところで、静かに音は途絶えた。

 恐らく、あの幼馴染みには今こうして酒を喰らって電話を寄越したことさえも、きっと見抜かれている。そう思うと、アレクセイは却って気が楽になった。

 多くを語らなくていい相手の存在は、アレクセイにとっては重要だった。

 発破を掛けるような真似をするでもなく、ただ淡々と己と向き合うことを助けてくれる。

 アレクセイは、しばらく受話器から流れる停止音を聴いて受話器を戻し、空のグラスへ酒を注いだ。

 明日から仕事へ戻ると決めた決意は揺らがない。己の気持ちを確かめたところで、それをどうしたいと訊ねれば頑なにアレクセイの心は沈黙を守った。

 ただ一言、彼女には謝りたい。それだけを願った。




 翌朝、習慣通り時間を守ってカフェテリアへ足を運んだアレクセイは、数日振りに落ち着いてクロスワードを解く時間を持つことができた。ひと通り解き進めて、ひと息。

 珈琲を片手に何気なく見回したカフェテリアの端の席、アレクセイから顔の見える対面側へ、シンシア・ハッセが座っているのを見つける。

 まさか居ると思っていなかったアレクセイは慌てて新聞で姿を覆うように両手に広げ直した。深呼吸を、一度、二度、挟んで珈琲を飲み直す。

 大丈夫、視線が合ったわけじゃない。平静でいろ、と言い聞かせる。代わりに、普段なら読みもしないどうでもいいゴシップ記事の文字の羅列を目でなぞった。

 

「……あの、アレクセイ、さん」


 近づく靴音が聴こえなかったのは動揺のせいなのか。ならば何故、その声だけはしっかりと拾い上げてしまうのか。聴こえないふりをしたところで意味があるだろうか。アレクセイは逡巡ながら、顔を上げる。その顔は平然を装って。

 視線の先には、いつものように編んだ髪を垂らしたシンシアの姿がある。眉を下げた表情には声を掛けたものの迷いが色濃いといった様子が窺えた。


「聞きました、ジョシュさんから。今日からお仕事に戻られるって。……今晩、少しお時間戴けませんか」


「今更何も弁解しなくたっていいだろう。俺の仕事は終わった、そう思ったから戻るまでだ。アンタには、出過ぎた世話をしたと思ってる、悪かった」


 アレクセイは新聞を畳み置いて、改めて彼女へ頭を垂れる。

 するとシンシアは意外にも慌てた様子で取り成した。


「ですから……ううん、違う。あなたは納得したのかも知れないけれど、わたしが嫌なのよ。関わった以上、あなたは知る権利があるし、わたしは話す権利があるわ。……お願い、ちゃんと話をさせて」


 必死の声は予想の範疇になく、アレクセイにとっては目を丸くさせる他ない。

 ならば今ここで、と言おうとしてぐっと唇を噛み締めた。引き込まれるような真紅の瞳が、まっすぐにこちらを捉えていたからだ。


「……わかった、夕方一八時にフロントで落ち合おう」


 ひと息ごとに心拍が乱れて行くに従って早口になる。そんな自分の動揺を知られまいとして、アレクセイは彼女の返事を待たず席を立った。

 もちろん、返事は分かり切っている。待つ必要なんてなかった。

 その背中に嬉々としたような、ホッとしたような、「はい」と言う返事を受けて、アレクセイの口元も多少綻ぶ。

 にやつく顔を見られては拙いとカフェテリアを出てすぐに咳払いを零し、顔を整えた。が、フロントを一瞥していつもの顔がいないことに気づく。

 シフト表の確認をすると、それはすぐにわかった。ジョシュは休みだった。

 代わりの受付係はアレクセイに挨拶こそするものの、それ以上の接触はない。

 

「参ったな」


 確かめるようにごちて、独りアレクセイは小さく笑った。この数日の間に、ジョシュの無駄口に慣れてしまっていたらしい。日課のように訊ねられるあれこれに警戒しているようでいて、実はそれすらも心のどこかでは楽しんでいたのかも知れない。今も、胸にしまった微かな喜びを零す相手が居ないことが、ほんの少しもどかしい。そう、素直に感じていた。それは明らかな変化だった。

 ジョシュや、幼馴染みのイリスを除いては踏み込んで接してくる人間はいないに等しい。誰も彼もが、ウリンソンという家系の肩書きを恐れ、対等には接することができない。

 久々の勤務を淡々とこなしながら、無口なアレクセイの隣、倣ったように無口な仲間。ああ、そうか、と思う。

 彼女、シンシア・ハッセもまた、懐へ難なく飛び込んで来た人間の一人だったのだ、と。

 オフシーズンの客足はやはり鈍い。午後一五時を過ぎて、チェックアウトの手続きを済ませた客が二組。いずれも商談で外国からの客の荷物を積んで、広場向こうの駅まで馬車を出した。それ以外に、予定の仕事はない。戻ったのを頃合いに仕事を引き上げようと、アレクセイは決めた。

 曇り空に空風が寒く、夜は二日振り、花雪の降る予感がした。

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