第4話

 ひぐらしのなんだか切ない声が暑さを和らげていく夕暮れ。時折揺れる風鈴と、私の心。


 叔母は私を縁側へと誘った。


「千穂の最後の言葉…… 今でも忘れないわ……」


 私へラムネを渡したあと、縁側に腰を下ろした叔母は力なくぶら下がる風鈴を見つめながら呟いた。


 私は叔母と少し距離をおき、同じように腰を下ろした。この距離が、私と叔母の最適なものだと思っていたから。


「ねぇ、千夏。好きな人できた?」


 唐突に、まったくもって関係のない話を口にした叔母に、私は不快感を抱く。堪らずに顔に出してしまった。


「そんな顔をしないで。からかってるわけじゃないのよ。そんなところそっくりね千穂と」


「わ、私、母さんに似ているの?顔が?性格?」


 その一言に飛び付いてしまった安易な私は、直ぐ様自己嫌悪に陥った。叔母は私で遊んでいるようにさえ思えた。


「全部よ、全部。姿、形に性格まで。生き写しみたいで気味が悪いくらいにね。しかも会うたびにあなたはどんどん千穂になってく。私ね、たまに千夏は千穂なんじゃないかって……。ふふ、冗談よ」


 私は両頬をさすり、首を傾げた。


「『智恵子ちゃん、このお腹のなかの子ね、女の子なんだって。ずっと夢だったの、智恵子ちゃんが私にしてくれたみたいに、自分の娘に素敵なお洋服を着させてあげるの』病室に行く度にそんなこと言ってたのよ、千穂は……」


 私は黙って頷いた。


 ちらりと伺った叔母の瞳には既に涙が蓄えられつつあった。いつ溢れだしてもおかしくはない程に。


 私の知る叔母はこんなにも涙もろい人だったろうか。

 そういえば昨晩もそうだった。


 母の話を持ち出すと、急に少女にでもなったかの様になってしまう。


 二人の間に一体何があったのだろう。私は叔母の口から直接それを聞きたかった。


「多分もう聞いたんでしょ? お母さんから。千穂との秘密の約束事のこと」


 叔母は視線を落とし、萎びた雑草を見つめながら言った。


 乾いた土に叔母の涙が落ちた。染み込んだか蒸発したのか、こぼれ落ちたそれは、直ぐに消えてなくなった。


「うん……」


「本当はね、千夏が成人するまでは言わないでおこうとしたのよ。それも一つの約束だったから。でも、あなたは自ら知りたいと言ってきた。ああ、千夏は知らない間にこんなにも大人になったんだなって思ったわ。隠していたわけではないし、話してもいいかなって」


 私は寂しげに微笑む叔母の横顔を見続けた。


「さっきね、お墓で千穂に話してきたわ。少し前倒しになってしまったけれど、ごめんねって」


 ゆっくりとまばたきをした叔母は、信じられない一言を私に放った。


「千夏、あなたね、三歳まで私と二人で暮らしていたの。覚えてないだろうけど……」


 あっけにとられたと言うか、なんと言うか。


 私はただただ、叔母の横顔を見る他に、なにもできないままだった。




 □



「雅之は脱け殻のようになってしまっていた。


 虚ろな視線に正気はなく、まるで魂を落っことしてしまった人みたい。


 乳飲み子のあなたを抱え、立ち尽くす後ろ姿に誰も声を掛けられなかったの。


 そんなある日ね、ふらりと雅之があなたを抱えて私の家にやってきたの。


 そして、あなたを必ず迎えにくると言い残して去っていった。


 そりゃあ私も旦那も引き留めて必死に説得したわよ。


 だけれど……。


 ほら、千夏も知ってるでしょ?私が子供を産めない体だって。


 私ね、無邪気に笑うあなたの顔が千穂と重なってしまって……。


 千穂と再会出来たような不思議な感覚を覚えたわ。そして、私が育てようと。私の子供として、育てていこうと。


 千夏、あなたは私に沢山の喜びを教えてくれたわ。出産の痛みこそ分からず仕舞いだったけれど、育児の悩みも、夜泣きの煩わしさも、日々の成長する姿を見られることも。


 全部…… 全部…… あなたが私のところに来てくれたから…… 私達夫婦は……」



 涙を流し、息を詰まらせながら話す叔母につられ、私もいつの間にか目頭を熱くしていた。


 ただ、私のそれは叔母の涙とは同じようでいて、実は少しだけ色が違っていた。


 綺麗な水の入ったコップに、墨汁が一滴垂れた様な感覚だった。


 父が一度、私を置いて行ってしまったという事実が織り込まれていたから……。



 □



「千穂の描いていた夢が、いつしか私の夢になっていた。そして、それを重ね合わせることが私の生き甲斐になったようで……」


 振り絞るように、震えた声でそう吐き出したあと、叔母は口を閉じた。


 秘められた思い、当時の叔母の揺れた感情を断片的に汲み取った私は、胸をきつく締め付けられた。


 が、逆に妙な冷静さを生み出してしまっていた。


 叔母は私を実の娘として育て上げたかったのだろう。私の母が生前叔母に話した、成し遂げられなかった夢の続きを、一つ一つ果たそうとしていたのだろう。


 祖母の言う、叔母が私に抱く特別な感情の正体を掴んだ気がした。


 それは、叔母が女性として本来"普通"に持ち合わせるはずだった、子供に対する母性愛なんじゃないかって。


 可愛さ転じて~なんて言うけれど、私にきつく当たっていた原因は、まさしくそれだったのかもしれない。


 父に対してじわりと黒い感情が芽生える中、私の中にあった叔母に対する氷の様に冷たかったものは、少しずつ溶けだしていった。



 わずかに揺れた風鈴、ひぐらしの声、頬を伝う汗。


 暫くの沈黙を挟んでから、叔母は再び口を開いた。


「あなたがね、よく笑い、よく喋りだした頃、なんの音沙汰もなかった雅之が、突然姿を現したの。あなたを迎えにね」


 私の知らない私自身の物語は、心をゆっくり掻き乱す。


「正直、驚いたわ。もう二度と私の前に現れるとは思っていなかったから。それに輪をかけて驚いたのは、雅之の風貌ね。なんていったらいいのかしら、うまく例えられないわ。見たままを言うとね、髪と髭は伸ばしっぱなしだし、肌は真っ黒に焼けていて服はボロボロ。まるで物乞いね。そう、物乞い」


 堪らずに私は驚きの声をあげた。


「潔癖な父さんが? そんな姿想像できないよ」


 叔母は含んだ笑みを溢し、私の言葉に同意するように頷いた。


「えぇそうね。だから尚更驚いたのよ。そして、驚きの裏で感じたの。千夏とのお別れを。だって雅之の目がね、生き生きとしているんですもの。ああ、あの頃の雅之だ。これじゃ仕方ないなって」


「叔母さん、それだけの理由で私を父さんに渡したの? だって一度は私をす…… 捨てて行ったんでしょ? そんな身勝手な人にっ!」


 私はつい感情を露にし、『捨てる』と言う表現で叔母に噛みついた。話の中の身勝手な父さんに納得がいかなかったのと、そんな父さんに私をホイホイと渡してしまう叔母がなんだか許せなかった。


「そんな目を吊り上げないで。私もそりゃ腹を立てたし納得出来なかったわよ。でもね、父親の顔を知らないはずのあなたが、雅之に抱えられた時ね、泣き出すかと思えばまるで逆で、今までに見たことのない笑顔をするんですもの。敵わないなって」


 私は……私は自ら父さんを選んだということなのか。なんだか整理するのも面倒なくらいに感情が散らかってしまっていた。


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こはく 黒猫屋 @kuronecoyasan

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