香りの便り 追憶の檻

もちもち

香りの便り 追憶の檻


「では、こちらで」


 と、細く綺麗な指先をプレゼントボックスに添え、軽く私の方へ傾け確認する。

 微笑みの女性店員へ「よろしくお願いします」と頷くと、彼女は香水瓶の入った箱を持って再びバックヤードへ下がった。

 届け先は遠方だ。相手に届くのは週明けになるだろう。



 休日、渋谷駅に直結したショッピングビル。朝の雨のせいか人の出足は遅く、身動きのできない人ごみを想像していた私は、思ったよりもずっと閑散とした街に驚きと明確な安堵を覚えていた。

 人ごみは好かない。自分の速さで歩けないことにストレスを感じるし、単純に音が入り混じるのを好まない。

 それでもここまでやってきたのは、旧友への贈り物を求めて…… だけではないのだが、まあ主たる目的はそれで間違いではないだろう。


 香りを贈るというのは、どういう意味だろう。


 ずらりと並べられたテスターの瓶の列を前に、ウロウロと香りを確認している私に声を掛けてくれた女性店員へ尋ねた。


「男性向けの香りはどれでしょうか」


 彼女は(ほんのコンマ数秒だけ)意外そうに私を見た。

 同性へ香水を贈ることが、ましてや男同士というのは早々無いケースなのだろうか。彼女のほんの少しの反応に、私は贈るものの選択を誤ったかと思った。

 だが、相手の顔を思い浮かべ─── 別に構いやしないだろう、と結論づける。

 女性店員はすぐに元の笑顔を取り戻し、すらすらといくつかの香りの説明を始めてくれた。


 最初に取り出してくれたのは「男性客人気ナンバーワン」らしい香りだ。意外だったのだが、ベリー系の甘い香りなのだ。個人的には女性が付けていそうなイメージであったが、店員が言うのだから「男性客人気ナンバーワン」なのだろう。

 贈る相手にはそぐわないな、と思いながらムエットを返す。

 次に渡してくれたのは、香りの名前を忘れてしまったが「シー」の文字が入っていた。そのせいか、香りを嗅いだ瞬間に光に照らされたターコイズの色が脳裏に閃いた。柑橘系だが甘すぎない。清涼感のある香りだ。

 海辺に住む彼には相応しいかもしれないが…… 少し爽やかすぎる。それほど性根のまっすぐな人間ではないな、と相手には言えない評価と共に店員へムエットを戻した。

 彼女の手元には最後にもう一つ香りがあった。それは偶然にも、私自身が最初に選んで持っていたカードに書かれた名前の香りだ。

 テスターでは少し香りが薄れてしまっていた。幸い、彼女が手にしたムエットに新たに噴霧してくれたのを差し出される。


 曖昧だった香りの輪郭がぴたりと枠に嵌った感覚があった。


 さっと通り過ぎるのは足取りも優美に爽やかなカルダモン。だがその中に隠しきれない妖しさがある。説明を聞くところによると、ブラックオーキッドがハートノートに置かれているとのこと…… と聞いてもピンと来ない私に、女性店員は更に「女性的なフローラルを含みながらもスパイシーな男性らしさがあります」と補足してくれた。

 なるほど、それだと私も納得する。少し女性的な印象があったのだ。たとえて言うならば、絹のような滑らかな質感。だが、同時にかすかに攻撃的な印象も持ち合わせる。不思議な印象を齎される香りなのだ。

 そうして。

 そうしてどこか、どうにも、あまりに懐かしい感覚が湧き上がる香りがある。

 私はきっとこの香りを知っている。

 たなびく雲の端を掴むような気持ちで何度も香りを確かめる私へ、店員はラストノートの説明を加えた。


「貴重な沈香を使っています。

 ベースは一番香りの時間が長く、その人の元々の匂いと混じりあって香りが構成され、その人の香りを決定づけるような香りになります」


 彼女の声に乗った言葉が、私の中で記憶の蕾を開かせた。

 伽藍の静謐な紫金が私の認識を塗り変えていく。そうだ。私は彼とともに、何度も記憶をこの香りに浸してきた。

 学生の頃、たびたび私たちはあちこちの寺院を訪れていた。専攻する分野にまつわる場所であったこともあるが、おそらくただ単純に静かなその場所が好きだったのだ。

 その場所を思い出すたび、透き通った香りを一緒に思い出していた。早朝の聡明さと、深夜の静寂を兼ね備えた空間だった。

 言葉さえ飲まれるようなそこで、私はただあいつの気配が隣にあることに満足をしていた。


 思わず笑ってしまった。誰がこの香りを作ったのだろう。まるで私が、今日ここで出会うのを知っていたかのようだ。

 ご時勢柄、口元を覆うマスクが無ければもう一度店員を驚かせてしまっただろう。


「これでお願いできますか」


 私が最後のムエットを返すと、かしこまりましたと女性店員は丁寧な所作で受け取った。




『ありがとう、届いたぞ』


 スマートフォンから聞こえるのは久しぶりの声だった。

 無事、懐かしい記憶を持つ香りは遠方の相手に届いたらしい。


「わざわざ連絡ありがとう。良かった。

 誕生日おめでとう。結構過ぎているが」

『お前が覚えててくれたことがそもそも奇跡だと思っている』


 やはり性根が歪んでいる。二番目の香りでなくて正解だったなとしみじみと納得した。


『誕生日プレゼントを贈るとは聞いていたが、まさか中身が香水とは思わなかった』


 通話越しに懐かしい笑い声が聞こえた。

 俺も相槌を返しながら、しかし聞いてみた。


「香水を贈るのは、どういう意味だろう」

『うん?』


 首を傾げたような気配がした。無理もない、贈られた側ではなく贈った側が聞いているのである。

 それでも、相手は何か調べてくれたようで(マウスやキーボードらしき音が聞こえたので、おそらくウェブ検索で)、『そうだな……』と呟いた後、吹き出すように笑った声が聞こえた。


『”マーキングの心理と似ていますが、香りで相手を独占したいという意味があります”、だとよ』

「へえ…… ぇぇえ……」

『嫌そうにするなよ。俺に聞いてきたってことは、選んだこと自体はそんなに意味は無かったんだろ』

「まあ…… 最初は文房具もいいなと思ってた。万年筆とか。

 ただ文房具は、お前のことならもう自分に一番合っているものを使っていると思ったから。

 …… 何か、ほかに面白そうなもの、と。思って」

『じゃあ無意識に思ってた、深層心理ってやつか。なかなか的を得ているのでは?』

「しっくりこない」

『なんだよ、それ』


 はは、と軽い笑い声。かつては一日中笑い合っていた時間があった。

 最近よく思い出すのだ、一日に夢中で「また明日」と言える時間のことを。

 限られた自由の中で選べるものをとりあえず手に取り、好きなものを組み立てていた頃のこと。

 彼は私を揶揄うような口調で続けた。


『やっとお前が俺に興味を持ってくれたと思うと嬉しいのだがなあ』

「お前とはいつも一緒にいれたらと思ってるよ」

『おっと……』


 間髪入れずに返すと、彼はやや真面目に驚いたようだった。


「だが、香水の意味はじゃない」

『……』

「郷愁のようなものだ。学び舎の時間に戻れたらいいなと思っている」

『お前がデレるときは、いつもある局面で裏切られるのだと知っているんだ俺は』


 人聞きの悪いことを言う。

 思わず、今もすぐに会いに行けたらいいのにと言いそびれてしまった。



 あの日、あの時、あの場所で、あの言葉を。

 香りを付けて独占したいというならば、それは私自身ではなく、きっとその記憶に囚われていて欲しいのだ。

 お前もそこにいただろう。幻ではなかっただろう。

 すでに香りは概念となり、私の中にしか存在しない、そんな不確かなものにすがりつく。

 いまだ私が脱出かなわぬ追憶の檻に、彼も一緒に閉じ込められて欲しかったのだ。


 記憶の光景と匂いが、遠く遠く、真っ白な光へ果てるまで。

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