最終話 絵描きと戦争
サチ、サチ、ごめん。
元気になったら、サチの話をたくさん聞くから。サチの好きな絵を描くから。だからどうか……!
祈る気持ちでフェリコは走った。背中におぶわれたサチは、かろうじて息を繋いでいる。
大通りが見えてきた。あの角を曲がれば、病院は目と鼻の先だ。
こんな夜に押しかけて、ちゃんと診てもらえるだろうか。
いや、きっと夜勤の医師やナースがいるはずだ。仮にいなくても叩き起こそう。お金なら、受け取ったばかりの報酬がポケットの中にある。
あと少し。フェリコは最後の力をふりしぼって大通りへ飛び出し、病院の前に躍り出た。
「!」
しかし、そこには想像もしていなかった光景が広がっていた。
病院の前には軍用車が停まり、そこから傷ついた兵士たちが続々と運び込まれていく。ある者は担架で運ばれ、ある者は他の兵士の肩を借りて。地面の雪には、血の跡が点々とにじんでいる。
ここはまだ戦場から遠いはずなのに、こんなに戦争の影響を受けていたなんて……。予想外の光景に、足がすくんだ。
いや、だからなんだ。サチの命がかかってるんだ。
フェリコはサチを胸に抱くと、兵士たちの間をすり抜けるように病院内に入り込む。
中はもっとひどかった。
真っ先に感じたのは、鼻をえぐる悪臭だ。血やよく分からない体液が入り混じった強烈な臭いが、呼吸さえもためらわせる。
床には兵士たちが横たわり、治療を待っていた。うめき声をあげる者、両足を失った者、生きているのか死んでいるのか分からない者。その間をナースたちがせわしなく駆け回る。
フェリコはそのうちの一人を呼び止めた。
「すみません! 妹を診てください!」
ナースは怪訝そうな目でフェリコを見ると、何も言わずに走り去った。
フェリコは唇をかむと、辺りを見回す。すぐそばに、床にかがんで兵士の手当てをしている他のナースがいた。フェリコは彼女に駆け寄ると、その肩をつかんだ。
「お願いします! 妹を診てください!」
「ちょっと、なによあんた!」
彼女はフェリコの手を振りほどこうとしたが、フェリコはひかなかった。
「妹が今にも死にそうなんです!」
「今、それどころじゃないの! あっちへ行って!」
彼女はそう返すと、フェリコの身体をぐいと突き放した。フェリコはよろめくと、力なくその場にへたり込む。
そんな。やっとここまで来たっていうのに。
すると、フェリコの視界に、白衣を着てゆっくりと歩いてくる男性の姿が映った。
「ドクター!」
フェリコは立ち上がり、彼へと駆け寄った。
「お願いです、どうか妹を診てください!! 今にも死にそうなんです! お金ならあります! だから……」
「見てわからんか!!」
医師はフェリコの言葉をさえぎり言い放った。
「ここには国のために闘っている多くの兵士どのがいるのだ! 子どもを診ている暇など、われわれにはない!!」
「でも……っ!」
フェリコはなおも彼にすがりつこうとした。そんなフェリコを、彼はサチもろとも脇に抱え込むと、病院の入り口まで連れていく。
「いいか、これ以上われわれの邪魔をするな!」
そう言って彼は、フェリコたちを扉の外へ放り出した。ふたりの身体は、冷たい雪の上に打ちつけられる。
「運ばれてきた兵士はこれで全員か! 邪魔が入らぬよう、扉を閉めておけ!」
医師は玄関付近で兵士を診ていたナースにそう言いつけると、病院の奥へと去っていく。
「待っ……」
待ってくれ。フェリコは身を起こし、宙をもがくように手を伸ばす。
そのときフェリコは気がついた。
扉の向こうに飾られた一枚の絵の存在に。
悪魔のような形相の敵軍。
それに勇ましく立ち向かう、傷ひとつない兵士たち。
フェリコは、大きく大きく見開いた目でそれを見た。
見間違うわけない。それは、フェリコの手で、フェリコの意志で、フェリコ自身が描いたものだったのだから。
「あ……ああ…………」
唇がわなわなと震える。言葉にならない声が漏れ出る。
扉を閉めようとするナースが目に入ったが、フェリコは立ち上がることもできないまま、
ゆっくりと、扉は閉まった。
フェリコは、伸ばしていた手をしずかに降ろすと、がっくりとうなだれた。
涙がしずくとなって、雪にいくつもの跡を残す。
そうか。僕がしたことは、こういうことだったんだね。
◆
そしてサチは息を引き取った。
フェリコは今後の国からの仕事をすべて破棄にすると、元の町へ戻った。
それからまもなくして、戦争は終わった。オセアノの敗北だった。
フェリコは隣国が先にこちらを攻撃してきたと聞かされてきたが、それは真っ赤な嘘だった。
いつか誰かから聞いた話が本当で、オセアノの方が一方的に隣国を侵略したのだ。
そしてそれは勝ち目のない戦いで、政府はそれらの事実を国民に伏せようと躍起になっていたのだ。
フェリコはその事実を知っても、たいして驚かなかった。
心のどこかでは分かっていたのだ。分かっていて、加担したのだ。
平和な暮らしを望む人として当然の感情も、絵描きとしてのプライドも、家族を想う気持ちさえも捨てて、
そんな自分に、何が残ったというのだろう――
◇
「ラーキー先生! 個展開催、おめでとうございます!」
青年となったフェリコ・ラーキーの元に、花束が差し出される。フェリコはそれを、感慨深そうに受け取った。
「ありがとうございます。私がここまで来られたのも、ひとえにみなさまのお陰です。本当に感謝いたします」
「何をおっしゃいますか。先生の平和を希求する作品の数々に、みな感銘を受けているのです」
「そうだ。君のおかげで、平和のために芸術に何ができるか考えさせられた。どうかこの花束も受け取ってくれたまえ」
「僕のも」
「これも」
「あっ私も」
「ついでに握手も」
フェリコはあっという間に、抱えきれないほどの絢爛豪華な花束たちの中に埋もれる。
「ああっ、お花は受付で預かりますから」
フェリコの弟子の少女が、あわててフェリコのもとに駆け寄った。
「どうぞ、順番にお進みになってください」
同じく弟子の少年が来場者たちを誘導する。
「ありがとう、2人とも……」
花束の山から解放されたフェリコは、鼻の頭についた花粉をふき取りながら2人に礼を言う。そして会場内に目を向けた。
あれから約十年。筆をとることもできなかった時期や、批判や好奇の目にさらされた日々を経て、なんとか個展開催までたどりついた。
自分は過去の行いもすべて包み隠さず公表している。それでもなお、自分についてきてくれる人たちがいる。その期待に対する責任に、フェリコは身の引き締まる思いになる。
「ラーキー先生、やっとお目にかかれました!」
突然そんな風に声を掛けられ、フェリコは振り返る。そこにいたのは見覚えのない一人の青年だった。
「君は……?」
「申し遅れました。私はヘレード・メモロと申します。ああ、まるで十年来の友人に再会したかのような心持ちになってしまいました。なにしろ幼い頃から私は、あなたの絵とともにあったのですから」
「というと……?」
ヘレードと名乗る青年は、目を輝かせて語り始めた。
「はい、あれはまだ戦時中のことでございます。ある日、パンを買いにマーケットに出かけた祖父が、パンではなくあなたの絵を手にして帰ってきたのです。そのときの祖母の怒りようは、今でも覚えております。このような国じゅうが非常事態で、我が家もなんとかやり繰りをしているというときに、絵を買っている場合ですかと」
ヘレードは、彼の祖母の口調を再現するかのような語り口になった後、こう続けた。
「すると祖父は言ったのです。こんなときだからこそ、この絵が必要なのだ、と。それはあたたかくて優しい、春の花を描いたものでした。正直に申しますと、私もそのときはまだほんの子どもで、祖父の意図を理解できていませんでした。でも」
彼は両手を胸にあてた。
「そのとき私たちには、それが必要だったのです」
「…………」
「私はいま美術雑誌の記者として、芸術の大切さを広めるべく活動しております。ぜひお話を聞かせてください」
「……いいでしょう。中をご案内します」
フェリコがほほ笑むと、ヘレードは両手を上げた。
「ジェーミーさん」フェリコは弟子の少女に呼びかけた。「私は記者さんの対応をしていますから、あとはよろしく頼みます」
「は、はいっ!」
元気よく返事をした後で、ジェーミーは首を傾げた。先生が記者の取材に応じるなんて、珍しい。
◇
「先生のお描きになる絵は本当に素晴らしい! 十年前と同じようにあたたかくて優しい絵が、より向上した技術で描きあげられています。たとえばこれ!」
そういってヘレードは、母親と娘がパンを焼いている絵を指し示す。
「そしてこれも!」
つづいてヘレードは、2人の少女が仲良く草原に寝転んでいる絵を指し示した。
「これを目にするだけで、焼きたてのパンの香りや、青々とした草の匂いまでもが伝わってきます。ああ、いったいどうしてこのような絵が描けるのでしょうか?」
「そうですね……過去の体験によるもの、ですかね」
「体験、ですか……」
ヘレードは言葉を詰まらせた。
◇
一人の女性がジェーミーの前に立ち止まり、花束を差し出す。
「素晴らしい作品でした。これを先生に」
「わあ、きれいなお花。ありがとうございます」
差し出された花束は、質素だがセンス良くあつらえてあった。
「それと、少しですがお受け取りください」
そう言って女性は、寄付と思わしき封筒を手渡す。このように寄付を受け取るのは、決して珍しいことではない。しかしその封筒は、少しという割にはずっしりと厚みがあるように思えた。
「まあ……どうもありがとうございます。ええと、先生からもお礼を……いま呼んでまいりま……」
立ち上がろうとしたジェーミーを、女性は制す。
「いいえ、私は、先生にお目にかかれるような者ではありませんので」
「どうして……」
女性は返事の代わりに寂しげなほほえみを浮かべると、背を向けて去って行ってしまった。
不思議な人。ジェーミーはその後ろ姿を見つめた。
背の高い、凛とした女性だった。
◇
「――なにより、先生の描かれる平和な日常は、私たちに平和の大切さを思い起こさせてくれます。そして、戦争が残した爪あとも」
ヘレードはそう言って、マーケットの風景を描いた絵を指し示した。
「にぎやかなマーケットの奥には、よく見ると傷痍軍人の姿が見て取れます」
つづけてヘレードは、笑顔で食事をとる家族の絵を指し示す。
「一見楽しげなこの食卓には、主となる父親の姿がありません。並んでいる食事も非常に粗末なものです。このような発見は、いくつもの作品に見受けられます」
ヘレードは、フェリコを真っ直ぐに見つめ、続けた。
「反戦画の多くは、戦争の悲惨さを直接的に描写しています。一方で先生の作品は、優しさにあふれる画風は守ったままで、平和とは何か、戦争とは何かを私たちに問いかけています。そのような作風を貫くのは、なにかお考えがあってのことなのでしょうか」
「そうですね。理由はいくつかあげることができます」
フェリコはゆっくりと歩きながら話す。
「第一に、私は、平和とは日々の幸せを守り、不幸を減らしたいという素朴な感情にもとづくものと考えているからです。第二に、私は戦闘を経験していないので、本物の戦場を描くことなどできないからです。でも、なによりの理由は――」
フェリコは、唇をきゅっと結んだ後、なにか大切なものをそっと抱きしめるようにこう言った。
「優しい絵が、好きなんです」
その言葉にヘレードは少し面食らった表情を見せたが、しばらく考えた後、かみしめるように言った。
「だから、先生の絵はこんなにも素晴らしいんだ……」
「ありがとうございます。それでも――」
フェリコは一枚の絵の前で立ち止まる。
「いまだに、これを越えるものが描けないんですよ」
そう言ってフェリコは、その絵を見上げた。ヘレードも見上げた。
そこには、凄惨な戦場の情景を塗りつぶすかのように、もも色にもだいだい色にも輝くあたたかな色の笑顔が描かれていた。
その絵には、こんなタイトルが記されていた。
《平和を願うキャンバス》
<完>
平和を願うキャンバス 笠原たすき @koh_nakamura
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