第5話 絵描きと後悔
フェリコは迷った。怒って外へと飛び出して行った妹を追うべきか、締め切りが迫る仕事をどうにかするべきか。そしてフェリコは後者を選んだ。
サチはこの間すねて出て行ったときも案外すぐに戻ってきたし、そう心配することはないだろう。しかし仕事の約束が守れないとなると、今後の信用に関わってくる。もし仕事を失うようなことがあれば、2人して寒空の下だ。それだけはなんとしても避けなければならない。
はじめ、フェリコはサチが線を引いた絵を修復しようと試みた。しかし、サチが使ったのは父が作った特殊な絵の具で、その線は父が言った通りどんなに他の絵の具を重ねても消すことができなかった。
「ちくしょう! 父さん、なんでこんなもん作ったんだよっ」
フェリコは修復をあきらめると、絶望的な気持ちで新たなキャンバスに手を伸ばす。今から同じ質のものを描き上げるのは無理だ。ある程度簡略化して、最低限人前に出せるものを目指すしかない。
フェリコは、ランプの明かりを頼りに、夜を徹して作業を続けた。
それからフェリコは、エストラの部下が絵を取りにくるぎりぎりまで粘った。そして、まったく納得のいっていない絵をなんとか引き渡して、しっかりと報酬を受け取った。
「それでは、またお願いします」
そう言って部下の男が帰っていった途端、今までの疲労が一気にのしかかり、フェリコは倒れるように眠りこんだ。
◆
どのくらい眠っただろう。フェリコはぼんやりと目を覚ました。辺りは暗くなっていた。
体は重く、頭はぼうっとしている。喉はカラカラだった。フェリコはキッチンに向かうと、すっかり冷たくなったカップに口をつけた。
しずかだ。
なにか大事なことを忘れている気がする。とてつもなく大事なことを。
キッチンにはもうひとつ、小さなカップが置かれていた。
フェリコはじわじわと血の気が引くのを感じた。まさか。フェリコはおそるおそる部屋へと戻る。
「サチ…………?」
その声は、誰もいない空間にただ響き渡った。
フェリコは記憶をたどった。どうせすぐ戻ってくるはずだった妹は、果たしてあの後戻ってきただろうか。無心でキャンバスに向かっていた間、自分は一度でもサチの姿を確認しただろうか。
「サチっ…………!」
フェリコは叫ぶと、外へと飛び出した。
サチはいったい何時間、いや何十時間寒空の下にいたのだろう。
◆
日はすっかりと暮れて、雪明りだけが頼りだった。人通りはまったくない。
「サチーーーーーーっ!!」
返事はない。フェリコは雪に足を取られながら必死に走った。
サチはどこへ向かったんだ。移り住んで間もないこの土地で。
「サチーーーーーーっ!!」
走りながら、後悔の念がフェリコを襲う。
自分は仕事のことばかり考えて、サチの話も聞かず、サチの気持ちも考えず、あげくの果てにその存在すらも忘れて。もっとサチの声を聞けばよかった。もっと、前のように。
――やさしい絵を描く、やさしいおにいちゃんがすきだったのに!!!
フェリコは足を止めた。後悔と同時に、ある可能性が頭に浮かぶ。
もしかして――
元いたあの町に向かったのか? まだ“やさしかったおにいちゃん”がいたあの町に。そんな。小さな子どもの足で行ける場所じゃない。でも、それしか心当たりがない。
フェリコは踵を返すと、また走り出した。
◆
「サチーーーーーー……っ」
とうに感覚のなくなった両足をひきずるように、フェリコは歩き続ける。
「返事……してくれよおっ――――うわっ!」
突然足元の雪が崩れ、フェリコの体は斜面を転げ落ちた。
「うう…………」
どうやら足を踏み外して、道の脇の畑に落ちたようだ。フェリコは起き上がる気力もわかないまま、ぼんやりと空を眺める。
雪が、降ってきた。
ああ、きれいだなあ。フェリコは思った。
そうだ。初雪が降った日、サチが嬉しそうに教えてくれたんだっけ。
サチはこれを見せたかったんだなあ……
「サチ…………」
すると、まるでフェリコのつぶやきに応じるかのように、かすかな気配がした。フェリコは雪をかき分け、その気配の方へ近づく。
「サチ!!!」
そこには、探し続けた妹が横たわっていた。
フェリコが抱き上げると、その身体は雪のように冷え切っていた。フェリコは青ざめる。
「サチ!! おいサチ!!!」
呼びかけには応じなかったが、かろうじて僅かな息はあった。
フェリコは泣きそうになるのをこらえ、キッと唇を固く結んだ。そしてサチを背負うと力強く立ち上がる。
「大丈夫だぞサチ!! いま兄ちゃんが病院に連れてってやるからな!!!」
<続>
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