第4話 絵描きと焦り
その日、フェリコは焦っていた。
この仕事が始まった当初、制作のペースはほぼフェリコに任せられており、厳密な締め切りというのも設けられていなかった。しかし、仕事が軌道に乗り始めると、エストラからの依頼のペースも上がり、フェリコは常に締め切りに追われる生活となった。
ただ、エストラからの要求は決して無謀なものではなく、フェリコも、このくらいなら仕上げることができるだろうという見通しを立てた状態で仕事を受けるようにしていた。だが見通し通りには行かなかった。その主たる原因は――
「ねえおにいちゃ……」
「うるさいな、邪魔するなって言ったろ!」
おそらくこれだろう。
「でもおにいちゃん、きょうずっとなにも食べてな……」
「それどころじゃないんだよ。仕事が忙しくて……。見れば分かるだろう?」
「おにいちゃん、ずっとそんなことばっかり言って。おにいちゃんのおしごとは、いつおわるの?」
「さあな、戦争が終わったら、かな」
「じゃあ、せんそーはいつおわるの?」
「知らないよ、僕に聞くな」
「はやくせんそーがおわればいいのに。そうしたら……」
「そうしたら、僕たちはここを追い出されるんだぞ」
フェリコは、サチの言葉を遮るように返した。
「さあ、もうさっさと寝るんだ。僕はこの絵を早く仕上げないといけない」
◆
サチが眠った後も、先程のやり取りがフェリコの中に留まっていた。
さっきサチの質問には適当に答えたが、実際は、戦争が終わるより先にこの仕事が終わってしまう可能性もある。だがその逆はない。“平和を願う仕事”は、戦争があるからこそ求められる。戦争が終わってしまったら、自分は必要とされなくなるということだ。
ならば自分は、戦争が続くのを願っているということか?
いや、そんなことを考えている場合じゃない。とにかく今は描かなければいけない。
締め切りは3日後だ。大丈夫、それには間に合うだろう。だが、その後には次の仕事が控えている。本当なら今日にもこの絵を終わらせて、それに取り掛かるつもりだったのに。
かといって作品の質は落としたくない。フェリコは、ランプの明かりを頼りに、遅くまで作業を続けた。
◆
あくる日の夕方――
「――――よし!」
フェリコは満足げに、筆を持つ手を止めた。明後日締め切りの仕事が、やっと満足いく形になった。これで納品することにしよう。
次の仕事があるとはいえ、これでようやく一息つける。フェリコは立ち上がると、キッチンに向かった。今はあたたかいものが飲みたい。
しかし、父さんはよくやっていたなあ。
お湯が沸くのを待つ間、フェリコの脳裏にふと、父の記憶が浮かんだ。思えば父は、仕事をしながらでも自分たちの相手をしてくれたし、絵の技術も自分に教え込んでくれた。
父は画家として優れた才能を持ち、芸術への探求心に満ち溢れた人物だった。世界の芸術を学ぶために外国を旅していたこともあったし、様々な材料を集めては新しい絵の具を創作していたこともあった。
そう、サチがこの間引っ張り出してきたあの絵の具だ。あれを作っていたときの父の姿が、ありありと思い出される。
――父さん、またやってるの?
――またとはなんだ。日々創意工夫を重ねているんじゃないか。
――絵の具なんて、売ってるやつでいいじゃない。
――芸術家とはな、常に新しい手段を模索するものなのさ。この色合いは既製品じゃ出せないぞ。ほら、見てごらん。
そう言って、父は制作中の絵の具を見せてくれた。それは、通り雨の後の夕焼けのような、もも色にもだいだい色にも輝くあたたかな色だった。
――すごい……!
――きれいだろう。この絵の具は、世界に一つしかない特別なものだ。しかもそれだけじゃない。これは、どんなに他の絵の具を塗り重ねても消すことのできない特殊な素材でできているんだ。
――え? 他のみたいに上書きできないの?
――ああ。だから、使うには絶対に描き直さないという覚悟がいるぞ。まあ、今のところ、俺にはまだその覚悟はないんだがな。その覚悟ができたときが、この絵の具の完成の日かな。
そう言って父は笑ったのだった。
しかし、結局その絵の具が使われることはなかった。父はその後すぐ流行り病に罹り、母とともにこの世を去った。
「――――……」
そういえば昨日の夜から、サチとろくに口をきいていない。適当にあしらったまま、きちんと話をしていなかった。
サチとちゃんと向き合わないとな。あんなにかわいい妹なんだ。
フェリコは、キッチンを出ると、明るい声で呼びかけた。
「サチ、昨日はごめんな。お湯が沸いたから食事に……」
そして、フェリコは絶句した。
フェリコがつい先ほど描き上げた絵が――明後日には納品しなければいけない絵が――先ほどとはまったく変わり果てた姿になっていたのだ。緑色と茶色を主とした戦場の情景を掻き消すように、明るい暖色の線が大きく乱暴に塗り重ねられている。
そして、その絵の前には、筆を持ったサチが立っていた。足元には絵の具の入った小瓶が置かれている。そう、父さんが作っていたあの絵の具だ。
フェリコは頭にカッと血がのぼるのを感じた。
「サチっっっ!!!」
フェリコはサチに飛びつくと、その胸ぐらを思いきりつかんだ。
「おまえっ! なんてことしてくれたんだ!! 僕が、僕がこの絵を描くのにどれだけ苦労してっ! なんでこんなこと!! なんでこんなことっ!!!」
サチは何も答えない。フェリコはサチの服をつかむ手を緩めた。そしてしずかに手を離すと、サチの顔を覗き込む。サチは唇をかむと、ぼろぼろと泣き出した。
「だって…………だって!!!」
サチは筆を床に投げつける。
「おにいちゃんずっとこわいかおして、こわいかおした絵を描いて! サチは、やさしい絵を描く、やさしいおにいちゃんがすきだったのに!!!」
「サチ……」
「おにいちゃんなんか、おにいちゃんなんか……!」
サチはそれだけ言うと、くるりと背を向け外へ飛び出した。
「サチ……!」
ドアがばたりと閉まる音だけが、その場に響き渡った。
フェリコは呆然と、もう一度絵を振り返った。そして気がついた。ただ乱暴に引かれただけの線だと思っていたそれは、両端が下がった2つの小さな曲線と、両端が上向いた1つの大きな曲線から成っていた。
「笑顔…………?」
フェリコは頭を抱える。
「――僕が……誰のために…………」
ひとりになった部屋で、フェリコは声を震わせた。
<続>
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