第6話・貴方のために

 桜の季節は、同時に花粉のシーズンでもある。

 多くの花粉症患者達に混じって、水無月良平もまた憂鬱な日々を送っていた。


 頭が重い。身体がだるい。風邪のような倦怠感がいつまでもずるずると続くこの地味な苦しみ。

 加えて、止まらないくしゃみ。くしゃみは見た目よりも体力を消耗する。水のような鼻水を盛大に撒き散らしながら、疲労は確実に蓄積されていく。

 それはまだ良い。鼻への花粉はマスクで防御できるから。

 どうしようも無いのが目に入って来る花粉だ。こればかりは防ぎようが無い──というか、ゴーグルはみっともない気がしていた。何となく。


 充血した目をしぱしぱと瞬かせながら、良平は窓の外を眺めた。

 今日も雲一つ無い快晴だ。きっと元気に花粉達が飛び交っていることだろう。その様子を想像しただけで全身に痒みが走った。これは重症だ。


(外に出たくねーな……)

 思えば、年々症状が酷くなっている気がする。以前は杉だけだったが、今やヒノキもだ。しまいに桜やその他イネ化の植物なんかの花粉にも反応する気がして来て、良平はため息をついた。


(これはアレか。いよいよ植物との決別を覚悟しなくちゃならなくなった、ってことか)

 そんな彼の頭を過ぎったのは、春になるとやたらテンションが上がる某杏の精霊の笑顔だった。

 そう言えば、最近会いに行けていない。元気にやっているだろうか?

 一人ぼっちで寂しそうにしていなければ良いが──と、良平が自分のことを棚に上げて彼女の身を案じた、その時だった。


 ぴんぽーん。

 玄関から、お馴染みの電子音が聞こえて来た。

 あいにくと親は留守だ。本当は部屋の戸を開けるのも嫌なくらいなのだが……いっそ居留守を決め込もうかとも考えた。


 ぴんぽーん。

 しかし結局、良平は出ることにした。

 変なところで生真面目な自分に苦笑しつつ、彼は階段を下り、玄関の戸を開け──。


「……あれ?」

 そこに誰も立っていないことに気づき、ぽかんと口を開いた。


「ちぇ。何だよ、悪戯かよ……」

 人がせっかく、なけなしの勇気を振り絞って出て来たというのに。

 舌打ちし、良平は部屋に戻ろうと踵を返す。

 忘れてはいけない、ここは戦場の真っ只中なのだ。マスクという防衛手段を持たずにいつまでもここに居るのはあまりにも危険過ぎる。一刻も早く離脱しなければ──。


「ちょ、ちょっと! 私はここに居ますよっ」

「んー? 何やら幻聴が聞こえるな。とうとう耳までおかしくなっちまったのか? アイツの声が聞こえるなんて」

「だーかーらー。貴方に会いに来たんですってば」

「まあいいや。だるいから寝よ」

 ぱたん。戸を閉めると、それだけで花粉と離別できた気がした。

 良平は肺に溜めていた息を吐き、部屋への階段を上り始める。


 ぺたん、ぺたん。規則正しく聞こえるスリッパの音。……当たり前だが、自分の足音だ。

 それに遅れて、かさかさかさと何か小さなモノが駆けて来る音がしたような気がしたが、特に問題とはせず、良平は自分の部屋へと戻った。


 ごろんと、ベッドに横になる。

 目を閉じると、ほのかに甘い匂いが鼻をくすぐった。


 ああ、これは懐かしい──あの花の香りだ。


 鼻腔の奥まで、清らかな気が満ちていくのを感じた。

 久方ぶりに、気持ちの良い眠りに就くことができそうだ。


(明日辺り、出かけてみるかな)

 そう言えば、杏の花でも花粉症になったりするのだろうか。

 マスクの携帯は必須だなと胸中で苦笑しつつ、良平は緩やかな眠りの渦の中に身を委ねた。



 ◇◆◇◆◇



「やれやれ。全くもう、良平さんったら」

 寝息を立て始めた良平の胸の上で蠢く、小さな一つの影が在った。

 ハツカネズミ程の大きさのそれはしかし、人の形をしていた。

 春色の袴をまとい、背中に杏の小枝を差したその人形はため息混じりに呟く。


「人が危険を冒してわざわざ会いに来てあげたというのに、気づかずに寝ちゃうんだもん。まあ、それが貴方らしいといえばそうですけどね」

 そう言って、良平の鼻を小枝の先でつついてみると。

 くすぐったかったのか、彼は小さくくしゃみをした。

 ……全身鼻水だらけになって、少女(小女?)は深々と嘆息する。


「おまけにこんな扱いですか。

 ふんだ、いいですよもう。貴方がそうやって呑気に寝ている間に帰っちゃいますからね、私。分身霊(わけみたま)で居られる時間はそう長くないんです。

 もう二度と、会いに来てなんてあげませんからねー?」

 わざと意地悪く言ってみるも、良平の反応は無かった。

 どうやら寝たフリなどではなく、本気で熟睡しているらしかった。人の苦労など、露とも知らずに。


 そのことがほんの少しだけ寂しくて。

 ほんの少しだけ苛々して。

 少し、安心した。


(まあ。貴方が無事で良かったですよ)

 老木の下でまだ見ぬ主人を待つ日々は、いつしか一人の青年の来訪を待ち侘びる日常へと変わっていった。


 彼は毎日来てくれた。

 それだけで退屈な日々に花が咲いた。

 何か特別な儀式をする訳でもない、ただとりとめのない会話を交わすだけだったが。

 彼女には、それで十分だった。


 そんな彼が、ある日を境に来なくなった。

 まず、彼の身に何かあったのではと思った。次に、もう飽きてしまったのかとも考えた。それで、しばらく動けなかった。

 彼を心配する気持ちと、迷惑を掛けたくない気持ちが交錯した。何日も何日も迷い続けた。


 気づけば、桜が咲いていた。

 なのに、花開くことのできない杏(じぶん)が居た。

 迷いが開花を遅らせているのだと気づくと、いてもたってもいられなくなった。

 本来精霊は長時間宿木の傍を離れることはできない。だから小枝を分身霊とし、一時的に人里へ下りられるようにした。


 分身は精霊本体より遥かに脆い存在だ。『障り』などに目を付けられ易い。それでいて本体と繋がっているから、分身に憑依されることは精霊自身への『感染』を意味していた。


 そこまでのリスクを覚悟し、決死の思いで良平の家を訪ねた結果がこの有様だ。一級精霊ともあろう者が、愛しい人間の鼻水で全身濡れネズミ状態。

 しかも彼は重い病を患っている訳ではないらしく、ただの出不精だったことが分かった。心配して損したと、彼女はため息をつき。


 何日かぶりに見た彼の横顔に、深い安らぎを感じていた。



 ◇◆◇◆◇



「で、カフンショウって結局何なんですか?」

「いやだから、花粉を吸い込んでだな。それがアレルギー反応を示してだな。くしゃみとか色々出る訳だ」

「か、花粉を……吸い込む!? な、何ていやらしいっ」

「え? お、おい、何でだよ!? 俺、そんな意味で言った訳じゃ──」

「受精なんて良平さんには百年早いです! 吸い込んだ分の花粉、全部追い出して差し上げますわ!」

「お、俺は男だあああああああっ! 受精なんてする訳な──」

「問答無用! 大・蒸・散っ!!!」


 空気の弾丸が、良平と一緒に花びらを舞い上げる。


 桜の季節は花粉の季節。

 そして、他の花々にとってもまた。


 春はまだまだ始まったばかりなのだ。

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あんず通信 すだチ @sudachi1120

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