ハッピーエンドはもうまもなく
どんなに強い生き物でも、いずれは淘汰される運命なんだよ。いつかの魔王のように。そしていずれかのボクのように。
そう言って笑ったのは、かつて魔王を倒すために選ばれた勇者で、アタシの無二の相棒であった。
「アンタが弱気になるなんて珍しいさね」
「うーん。寄る年波には勝てないってやつかな」
「そりゃあアンタ、嫌味かい?」
肩を竦めながら返してやれば、男はただでさえ大きな瞳を溢れんばかりに見開いて見せる。まるでそんなこと考えていなかったように。
「嫌味なんて、そんな。キミは何年、何十年経ったって、ずっと魅力的だよ」
その表情はまるで、迷子の子供が母親に手を離されてしまったときのように無防備で。こんな男がもう数十年も魔王として君臨しているだなんてちゃんちゃらおかしいことのように思えた。
「百点満点の回答だけどね、歳を取らないアンタと違って、あたしゃもうしわくちゃのお婆ちゃんだよ。もう充分すぎるほどに生きた。このままいつ死んじまったっておかしくはないし、死んじまっても良いと思ってる」
「どうして、そんなことを言うの」
「アンタだって自分が淘汰されるだなんて言ってたじゃないか。おあいこだよ」
大きな瞳がぐらりと揺れる。じわりじわりと溜まっていく涙は、この世で一番美しいもののようにさえ見える。
「善良なキミと、悪辣なボクが、おあいこなわけないじゃないか」
「……アンタは相変わらずバカだねぇ」
ただそこに在るだけで魔王として祀り上げられてしまっただけの存在の、何が悪辣だというのか。
今から八十年余り昔の話だ。男は、どこにでも居るような平凡な少年だった。そしてアタシは、彼の幼馴染であった。
アタシの父は剣の名手で、彼は父の元に剣術を習いに来ていた。彼の剣の腕は強いとも弱いとも言えない、やっぱり平凡なものだった。それでも何より不屈の精神のような者が彼にはあって、何度負けても立ち上がって見せる根性のようなものだけは立派なものだった。
『王様が魔王討伐の令を出したんだって』
『知ってるわよ。父さんにお声がかかっているんだもの』
『せんせいはお強いからね。……いいなぁ、ボクもいつか、勇者になってみたい』
『バカね、父さんたちが倒しちゃうから、アンタなんてお呼びじゃないわ』
その丸い額を指で弾いたときの感触を、わたしは未だに覚えている。遠くの国で噂になっている魔王の存在なんて、吹けば消えるものだと、自らの父が何よりも強いのだと信じていた頃の、幼く愚かなわたしを、何よりも象徴しているからだ。
『残念ながら……』
父は、呆気なく死んでしまった。私と母の元に帰ってきたのは、両の手に収まる程度の骨の欠片と気持ちばかりの慰労金。そして何の意味もなさない勲章一つだった。
確かに悲しかったのに、涙さえ出なかった。その頃にはもう、魔王の悪虐非道の行いは近くの街までその手を伸ばしていて、父の魔王討伐が失敗したということを、聞くまでもなくわかっていたからかもしれない。
隣に居た彼は何も言わなかった。慰めの言葉一つ寄越さなかったけれど、それでも考えることは手にとるように分かった。
『やっぱり行くんだね』
『うん』
夜半、わたしたちは村を抜け出した。幼い子供の冒険ごっこではない。それは確かな憎悪を持った復讐劇の始まりだった。
結果を言えば、アタシたちは魔王を討ち取った。旅の途中で研鑽を重ね、仲間を増やし、装備を整えて。口で言うほど簡単な旅でも、綺麗事ばかりでどうにかなったわけでもなかった。それでも、アタシたちは確かに父の仇を取ったのだ。それなのに。
『貴様の目、気に入った。その自らのことしか考えていない爛々とした瞳、この俺と何が違うと言うのか。可愛い悪辣の子。貴様に祝福を与えよう』
ニィ、と薄気味悪く笑った魔王は、その内に霧となって消えていった。その時、アタシたちは凡そ魔王が何を言っているのかが分からなかった。体にこれといった変化はなかったし、暗闇に覆われていた世界は晴れて太陽を取り戻し、輝かしいばかりの光がアタシたちを照らしていたのだから。
『終わったね』
『……うん。終わったのね』
アタシたちは抱き合って、何年にも亘った旅路を思い返していた。どんなに苦しい時でもずっと隣に居たのに、こうして抱き合ったのはこの時が最初で、最後だった。
それから幾年が経った頃か。彼は煙のように消えてしまった。前日まで住んでいた筈の家にも、馴染みの店にも、友人の家にも、どこにも彼の姿はなく、そしてその消息を知る者は一人としていなかった。それは、そうだろう。だって彼が誰かに言付けを遺すとしたら、その相手はアタシに他ならないのだ。アタシが何も知らないということは、彼は誰にも何も伝えることなく、その姿を眩ませたのだ。
その日から、アタシは彼を忘れたことなんて一度もなかった。世界中を旅して周ったし、彼を待って一生を独りきりで生きてやろうという覚悟すらした。そうして何年、何十年と待ったところで彼が再び現れることはなく、仲間の一人が『もしかしたらあの時言っていた魔王の祝福のせいかもしれない』と言ったせいで、彼はもう当たり前に帰ってこない人ということになってしまったのだ。
何もかもの気力を失った頃、仲間の一人がずっと好きだった。君を支えて生きたいと思っていると告げられた。アタシは、もう本当に全てがどうでも良くなってしまっていて、心の一つも明け渡せない、こんな女でいいのならばあげると答えれば、酷く寂しそうにありがとうと微笑まれた。
家族を成すのは存外楽しかった。彼を失った穴はぽっかりと空いたままだったけれど、子供たちは愛しいし、孫なんてもう目に入れたって痛くないほどに可愛くて堪らない。それでも、隣に居たのが彼だったならばと思ってしまうことが、ないわけではなかった。
そんなある日のことだった。魔王が再び現れたのだという噂を耳にしたのは。八十年前と同じ、誰も住み着かないような水も緑も枯れ果てた古城に魔王が住んでいると。最近魔物が活発に動いているのはそのせいだと。そして、魔王の姿は先代の勇者そのものだと。
居ても立っても居られなくなったアタシに主人は、いつかのように困ったように微笑んだ。
『ぼくの我儘を聞いて、この数十年間を共にしてくれてありがとう。君を彼の元に、返さなければならないみたいだね』
『っ……! ごめんなさい……! それでもアタシ、あなたと、家族と過ごした数十年、確かに幸せだったわ』
『……それが聞けただけでぼくは充分だよ』
主人だった人は最後に優しくアタシを抱きしめて、まるで荘厳な儀式のように薬指に嵌まっていた指輪を引き抜いた。
『どうか君が幸せになれますように。愛しいひと』
夜半、アタシは村を抜け出した。まるでいつかの出立のように。
「ボクと一緒に、死んでくれるの?」
「アタシの夢は、孫たちに囲まれての大往生だって、決めてたんだけどねぇ。最期のさいごで未練の方から尻尾振ってきたんじゃ、捕まえるほかないじゃないか」
「……ごめん。ごめんね」
記憶にあった青年の姿のまま、彼は跪いて、赦しを乞うように指を組む。ここには誰も、彼を責める人は居ないというのに。
「泣くなって、勇者さま」
瞳が、揺れる。もう何十年も呼ばれていない名だ。そしてきっと、もう二度と呼ばれることはない。彼は魔王と名付けられてしまったのだから。
「お願い。ボクの為に、不幸になって」
「勿論さね。その為に老体に鞭打ってここまで来てやったんだ。地獄だろうと何だろうと、一緒に落ちてやろうじゃないか」
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文字数:3062字
時間:1.5h
短編 飴野ちはれ @skygrapher
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