初恋の味

 今どきらしく環境に配慮したとかいう紙ストローで、もうすっかり中身のなくなったグラスの底に残る細かい氷を突つく。ほんのりとメロンソーダの色素が残ったそれは、カシャカシャと小気味の良い音を発てた。その行動に意味なんてひとつもなくて、ただひたすらに手持ち無沙汰で。そういうところが子供なんだよ、と先生は言うけれど、じゃあこんな所にアタシを呼び出したきり何も言わずに黙り込んでしまったアンタはちゃんとした大人なのだろうか。

「ねぇ先生、飲み物取ってきて」

「……ここで先生と呼ぶのはよさないかい?」

「はーやーくー!」

「……うん」

 二回りも年下の子供に命令されて、空のグラスを片手に肩を落としてドリンクバーへと向かう、情けない背中。教育者としては一つも尊敬出来ない、それでも確かにアタシが恋した男の背中だ。

 先生は、アタシの通う中学校で数学を教えている。数学教師なのに何故かいつも白衣を着ていて、なんでかと問うたのが最初の会話だったと思う。

『チョークの粉が、付くから……』

『あーね。服汚すと奥さんに怒られちゃうんだ?』

『おっ、奥さんなんて、居ないよ……』

 なるほど確かに、先生の指に指輪はなかった。じっと見つめられると居心地が悪いのか新入生相手にオドオドとして、うだつが上がらない人だなぁと言うのが第一印象。好きになったのも多分、そういうところだ。

「お待たせ」

 差し出されたアイスコーヒーを受け取る。溶けた氷はそのままで、ふやけた紙ストローが交換されてるなんてこともない。こういう気の利かないところが、アタシが先生の初めての恋人になれた所以でもある。

「ありがと」

 先生は多分、アタシのことを窘める権利のないダメな大人だ。アタシの方からアプローチをしたからとはいえ生徒に手を出しちゃうし、靴下は引っくり返したまま洗濯するし、口も足も臭いし、気も効かない。大人の癖に、お洒落なデートスポットの一つにだって連れて行ってくれたこともなかったのに。それでも。

「好きだったのに、なぁ」

 言葉にしてしまうと、もうダメだった。目頭が熱くなって、堰を切ったように涙が溢れてくる。アタシが泣き出してしまったことに慌てる先生が差し出してくるハンカチを、受け取れるわけがなかった。それが、先生としての優しさか、恋人としての優しさか分からなかったからではない。そのハンカチを、プレゼントとして選んでいるときの乙女のような顔をしていた母の顔を思い出してしまうからだ。

「……なんで、先生なの。なんでよりによってママなのよ……!」

 カラカラに乾いて、張り付いた喉をそれでも震わせる。先生はまた俯いて何も言わなくなった。

 狡い。ずるい大人だ。アタシが居るのにお見合いをしたのも。アタシに全部を隠したまま、結婚しようとしていたのも。

『会わせたい人がいるの』

 そう言って笑うママが幸せそうで、アタシの父親に手酷く捨てられたママがやっと幸せになれるんだって、アタシ、嬉しかったのに。なのに、現れたのは私の恋人であるはずの先生で。ママに、そんなこと言える筈もなくて。

『よろしくね』

 なんて、一体どの口が言うのか。

「先生は知ってたんでしょ、アタシがママの娘だって」

「……職場を聞かれたときに、聞いたよ」

「娘に会ってって言われたとき、アタシが全部バラして先生の人生むちゃくちゃになるって思わなかったの」

「キミは頭の良い子だ。母親を大事にしていたのも知っているし、そんなことはしないって分かってた」

「……ホント、最低」

 よくあるドラマの修羅場だったら、冷や水のひとつでもお見舞いしてやるべきなんだろうけれど、アタシは深くふかく呼吸をして、先生の目を見据えた。

「全部、アタシに言わせる気?」 

「……本当に、申し訳ないことをしたと思っている。キミを愛していたのは本当で、キミのお母さんを愛してしまったのも本当のことだ。だから、ボクと別れてほしい。そして、キミのお母さんとの結婚を認めてほしい」

「……アタシさ、先生は仕事出来なそうだし出世も見込めないだろうけど、底抜けに良い人だなって思ってたの。仕事人間で優秀だけど人間味の欠けたアタシの父親と違って。それなのに、先生もやっぱりクズだったね」

「……ごめん」

「私、高校は寮あるとこに入るから。その後なら結婚でもなんでも好きにすれば」

「……ありがとう」

「ママのこと、幸せにして」

 涙はもうすっかり乾いていた。アイスコーヒーは氷が溶け切って、表面に透明の層が出来ている。その境界線をめちゃくちゃにして、薄くなったコーヒーをひと口。ミルクもガムシロもないブラックコーヒーなんて、多少薄くなっていても苦くて仕方ない。

「同じの持ってきてくれれば良かったのに」

「……君はいつも、コーヒーを飲んでいたから」

 早く大人になりたかったアタシのことなんて、結局先生は何一つとして汲んじゃくれないんだ。


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文字数:1981字

時間:1h

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