短編

飴野ちはれ

真夏の夜の夢

「いーけないんだ」

 細い声だった。ややもすれば風の音に、死にかけの蝉の鳴き声にすら負けてしまいそうなその声は、それでも存外私の下へと届いた。面倒な奴に見られたなと、思わないでもない。けれど隠れることをしていなかったのは私なのだから。大した感動も抱かないまま、紫の煙を返事の代わりに吐き出した。

 怒号やら罵声を背負って、少女はうっそりと笑った。後ろ手に扉が閉められたお陰で、耳障りな争い声が少しばかりマシになる。薄っぺらいワンピースを引き摺りながらペタペタと鉄の階段を一段ずつ降りてきた彼女は然も当たり前のように私の隣へと座った。

「寝る時間でしょう、妹よ」

「自分だって寝られないからここに居るんでしょう、姉よ」

 それもそうだ。自分の半分しか生きていないような少女の真っ当な意見に、私は小さく頷くことしか出来なかった。

 家の中に転がっていた、クシャクシャのセブンスターは最後の一本で。タバコが切れたことによって父親っぽい人か母親っぽい人のどちらかか、或いは両方にキレられるかもしれないなぁと思ったけれど、ズボラなあの人たちはいつも中途半端に残ったタバコをそこら辺に放ってはまた新しいものを買ってきてしまうのだから、まぁ大丈夫かとフィルターを噛む。

「姉よ姉」

「なんだね妹よ」

「美味しいの、それ」

「不味い、けど。気持ち、腹が膨れる」

「それは、良いねぇ」

「やらんよ」

「いらんよ」

 妹の裸足の足が詰まらなさそうに階段を叩く。病的なまでに青白くて、細い足首。そして甲には引きつったような丸い痕。ジッと見つめていた私に気付いたらしい妹は、私の手元と自らの足へ交互に視線を動かして、ほれ、と足を差し出してみせた。

「舐めろって?」

「へんたい」

 生温い風が、私と妹の間を通り抜ける。爽快感なんて一つもなくって、じっとりと絡みつくそれは、私たちによく向けられる感情にも似ていた。

 短くなってきたタバコを階段に押し付ける。それと同時に差し出されていた足をぺしり、と叩く。足は素直に引っ込められた反面、また詰まらなさそうに階段を叩く。なんてことのない連鎖に、なんとも言えない気持ちになってしまうのは過敏になりすぎているということなのだろうか。

 手持ち無沙汰で、タバコの空き箱をくしゃりと潰す。いつの間にか静かになっていた部屋に帰ろうかと思ったところで、怒声の代わりとばかりに聞こえてくる悲鳴じみた嬌声に吐きそうになった。

「明日、晴れるかな」

「なんでだね妹」

「雨だと、パパ、ずっとお家に居るから」

 どこか遠くを見る妹とは、姉妹になってからというもの、一度だって目が合ったことがない。

 可哀想な子だと思う。口にすることすら憚られる仕打ちを幾つも受けていて。話し相手といえば私くらいなものだからトンチキな喋り方がそうとは知らないままに移って。なんの盾にもなれず、何も与えてやることすらできない私にすら媚びて、生を繋ごうとする。

 可哀想な子だと、思う。けれど、それだけだ。

「あーした天気になーれ」

 引っ掛けていただけのぶかぶかでボロボロのサンダルを思いっきり放る。パタ、みたいな情けない音を発てて着地したそれが、上を向いているか下を向いているか、私には分からなかった。

「何、それ」

「お天気占い」

「明日、晴れる?」

「晴れるんじゃん。多分」

「テキトーだ」

「そーよ」

「姉よ」

「なーに」

「お揃い」

 無邪気に寄せられた足に、自分のそれをくっ付ける。小さな足。歪な爪。ポツポツとある小さな火傷。

「姉妹だからね」

 立ち上がって、片足跳びで階段を降りる。思いの外遠くまで飛んでいたサンダルは裏っ返っていた。


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文字数:1477字

時間:1h

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