深大寺坂の守人
北溜
深大寺坂の守人
☆
土曜、15時、植物公園の深大寺口。
今日もユウヤはその前のベンチに座って、おぼろげなまなざしを行き交う人たちに向けて、待つ。12年前からずっとそうやって、ニナを待ってる。
5年前までは木陰に隠れて、高校に入学した5年前からは、バイトを始めた深大寺の境内脇の坂を登ったところにある蕎麦屋から、そんなユウヤを、私はずっと見てきた。
見るだけ。私にはそれしかできない。
「声かけないと、何も始まらないよ」
蕎麦屋の女将の野村さんは、今日もいつものように、私を冷やかす。
「そういうんじゃ、ないんです」
私もいつものように、苦笑を返す。
そんな日々が、ずっと続いている。
★
小学生の頃、校舎の裏の、深大寺の周りに広がる木陰のトンネルは、私とニナとユウヤの聖域だった。
放課後、校門を出ると、誰ともなくその木陰の中を走り出し、鬼ごっこみたいに追いかけ合う。植物公園の深大寺口前のベンチがゴールで、最後にそこで三人並んで語らうのが、私たちの日課だった。
夕方になって、私とユウヤが帰ろうと言うと、決まってニナは、もう少し、もう少しと、私たちを引き留めた。
ママに怒られちゃうからって、私が無理矢理帰ろうとすると、ニナは渋々、うんそうだねって、頷いた。
家路につく私とユウヤを、ニナはいつも、いつまでも、深大寺の坂の上から見送っていた。
☆
「客足も落ち着いたから、カホちゃんもう上がって」
テーブルに残された食器を下げながら、野村さんが言う。よくあることだ。坂上のこの店は、参道に店を構える坂下の店より、客足が途絶えるのが早い。
遠くに座るユウヤに一瞥を投げてから、私はぺこりと野村さんにお辞儀をすると、エプロンを外し、店舗裏に置いておいたリュックを背負いこんで、店を出ようとした。その時だった。
出入り口すぐの席に腰掛けた、長髪の男に気づいた。
少し波打った、真っ黒い長い髪。色白の肌。すっと引き締まった顎先。見知った顔ではない。けどどこか、何故か、既視感があった。
いつの間にいたんだろう。全然気づかなかった。水も出されていないから、きっと誰も注文もとってないだろうと思い、踵を返そうとした時だった。
「いいよ、水は」
まるで私の心を見透かしたように男が言った。背筋が少しぞくりとした。
「解き放たれたい?」
黙りこんでしまったあたしに、男が問いかけてくる。
「解き放つ?」
聞き返すと男は、視線をユウヤの方に向けた。
「彼と君と」そこで一度言葉を切って、あたしに視線を戻してから、続ける。「ニナとの間にある、鎖みたいなものから」
男の口から発せられたニナの名に、身体が硬直した。
この男は何故、ニナを知ってる?
動けなかった。
ふと背後から肩を叩かれ、思わずびくりとして、慌てて振り向いた。野村さんだった。
「どうしたの? カホちゃん。そんなとこで立ち止まって」
「え? えっと、あの」
もう一度、男の方を向き直す。
が、そこには誰もいなかった。
★
たった一度だけ私たちはニナの、もう少し、につきあったことがある。
「お願い。今日だけは、一緒にいて」
小さく絞り出すような声に、弱々しいけど、確固たる勇気と覚悟みたいなものを感じて、私たちはそれに気圧されて、頷いた。ニナは続けた。
「お父さんが、怖い」
もう少し、の理由を、私とユウヤはその時、初めて知った。
ニナは服の下に、点々と刻まれたどす黒い青や澱んだ赤の、“印”を隠していた。
ニナを家に返しちゃダメだ。
直感して、ユウヤを見た。ユウヤも私を見返して、強く頷いた。
私たちは家に帰らず、夜の深大寺の片隅のいつものベンチに座り、三人で寄り添うことでほんのりと湧いてくる微熱に、身を寄せた。
ユウヤと私で、ニナを守る。
私の胸を満たしていたのは、そんなちっぽけで無力な使命感だった。
☆
消えてしまった男を不思議に思いながら店を出て、境内脇の坂を降ろうとした時、坂下にどこか馴染みのある人影を見つけた。
坂を登ってくるその人を見て、私は身動きがとれなくなった。
ニナ。
小学生の頃とは見違えるほど、綺麗になったニナ。でも、面影は変わらない。間違いなくニナだ。私と同じだけ大人になった、ニナだ。
「久しぶり、カホ」
私の目の前まで来ると、ニナはそう言って笑った。眩しくて、清々しい笑みだった。私たちを捉えて離さない過去の何もかもを精算したみたいに、その笑みには澱みがなかった。
そしてその時、背後から、すごい勢いで人影が私を通りすぎた。
ユウヤだった。
ユウヤはニナを抱き締めた。
「苦しいよ、ユウヤ」
言って、やっぱりニナは笑う。
あの夜と同じ笑みだ。
ニナを守れなかったあの夜、ニナが浮かべた笑みと。
★
あの夜、家に戻らない私たちを按じて、通報したのは私のママだった。
日付が変わる頃、沢山の大人たちが深大寺の片隅にいた私たちを見つけ、囲んだ。人混みの中で私たちは引き離され、ママに叱られながらも、私はニナを探した。
人と人の隙間の向こうで、ニナは男の人に手を引かれ、どこかへ連れていかれようとしていた。そして私を振り向き、小さく笑んだ。小さかったけど透き通った、やけにきらきらした笑みだった。そして、ニナは言った。
ありがとう。
周りの喧騒で、言葉は届かない。けど、確かにそう言ったとわかった。
ありがとうなんて言われる資格、私にはない。
私はニナを守れなかったんだよ?
悔しくて、目が潤んだ。
自分の弱さを、私は憎んだ。
その日を境に、ニナとニナの家族を、この街で見ることはなくなった。
ニナの両親には借金があった。
でもニナの父親には、仕事がなかった。
夜逃げ、という、当時の私には聞き馴染みのない言葉が、私の周りで飛び交った。
☆
「ちょっとユウヤに話があるの」
だから、ふたりきりにして。
そんな言葉に出ないニナの真意を汲み取って、私はひとり、坂下まで降りた。
なんだか、胸騒ぎがした。
だからなのか私は、家に帰る気にはなれなくて、とは言えあてもなく、ふらふらと参道を歩いて、いつの間にか、ひとけの少ない延命観音の前に辿り着いた。
そこにあるベンチに、人影を見つけた。
さっき、蕎麦屋で見かけたあの男だ。
男は私を手招きし、私は私でどうしても男と話したくて、隣に腰掛けた。
「ニナとはどういう関係?」
さっきからそれが気になって仕方なくて、尋ねた。
「もう何年も俺のテリトリーを彷徨っていたから、いい加減出てってもらおうと思ってね。あの子を縛り付ける執着を、取り払ってやろう、と」
「どういう意味?」
訳がわからなくてそう聞くと、男は少し身体を乗り出して、私の目を覗きこんだ。
「判ってるだろ? 本当はニナが君らの前に姿を現すなんて、ありえないってこと」
その通りだ。本当はわかってる。
ニナが私たちの前に姿を現すことなんて、本当は、ありえない。
★
あの夜の数ヵ月後、クラスの誰かが新聞をわざわざ切り抜いて持ってきて、騒いでいた。
一家心中という言葉と、ニナとニナの両親の名が記された記事。
その記事でざわつく教室の中、ユウヤを探した。けど、いない。
私は教室を飛び出し、深大寺の隅っこの、あのベンチに向かった。思った通り、ユウヤはそこにいた。
「もうニナはこないよ」
じっと動かないユウヤに、私は言った。ユウヤは強く、首を振る。
「絶対来る。だってここにしか、ニナの居場所はないんだ」
「でも来ないよ。来れないよ。だって・・・」
「絶対来る」
泣きそうになってゆらゆらと歪んだ私の声と、受け入れたくない現実を遮って、ユウヤはそう言い切った。
私はそれ以上、言葉が継げなかった。
そしてその日からユウヤの、ニナを待つ習慣が始まり、私はそれを見守る事しかできなかった。
☆
「君と彼がニナを想ってここでずっと蟠っていた事で、ニナの魂をここに縛りつけた。判るか? 相手の本当の想いを汲まない嘆きなんてものは、愛とは呼ばない。それはただの、自儘な自愛だ」
男の言う通りだ。私もユウヤも、ニナを守れなかった現実を受け入れられず、ここでずっと蟠っていた。それはニナのためなんかじゃない。弱さを誤魔化すための、向き合うことから逃げるための、私たちのエゴだ。
「本当にニナを想うなら、もうそういうの、やめたほうがいい」
言って男が移した視線の先に、いつの間にかニナが立っていた。眩しいくらい満面の笑みを携えて。
涙が溢れた。
私たちのエゴでここに縛られ続けたのに、それでもニナは笑ってくれる。悔しかった。何もかもが。
「あの夜、本当に嬉しかったんだ。ありがとう」
ニナのありがとうが、胸に沁みてくる。私は言葉を返せない。
「私はカホとユウヤが思うよりも、もっとずっと、幸せ。だからふたりも、もっと自由なんだ」
言葉が返せない代わりに、私は頷いた。何度も、何度も。
そんな私を見て男は立ち上がると、すぐ奥にある深沙堂の方に歩き出し、ニナもそれに続いた。そしてどこからか降り注いできた淡い光に包まれたかと思うと、ふたりは、消えた。
「カホ」
どれくらいか、私はその残像をじっと見つめていて、不意に呼び掛けられて、振り向いた。ユウヤだった。
「これからは俺がカホを見守ってやれって、ニナがさ」
目線を合わさず、少しはにかんだふうにユウヤが言う。
「大丈夫。私はもう、大丈夫」
私は力強く返す。ユウヤと、もう消えてしまったニナに。
「あと、これ」
ユウヤは私に、小さな木造りの小物を手渡した。
私のバイトする蕎麦屋にも置いてある、筆で深沙大将が描かれた唐辛子の小箱。
それを見て、私は改めて男とニナが消えていった空間を見返した。
初めて蕎麦屋で男を見かけたときに抱いた既視感。それは多分これだと、ようやく気づいた。
俺のテリトリー。
男はそう言っていた。
確かにそうだ。
蕎麦屋の女将の野村さんに聞かされたことがある。
深沙大将。
深大寺を建てた満功上人が祀った、神さま。
私はその小箱を強く、でも優しく、握りしめた。
そして心のなかで、この社の主に向けて、呟く。
ありがとう。
その言葉は、森の緑に吸い込まれるように、溶けていった。
深大寺坂の守人 北溜 @northpoint
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