最後の晩餐

犬腹 高下

さいごのばんさん

 ぼくは、ランドセルを背負ったことが一度もない。親が買い与えてくれなかったからだ。

 毎朝、ゴミだらけの部屋で腹をすかせながら、こっそり窓から顔を出して、登校する同級生らの赤とか黒とかのランドセルを観察していた。背の小さい子達のランドセルは、朝日を反射させてぴかぴか光って綺麗だけど、背が大きくなるにつれてその真新しさは失われていくようだった。高学年であろう子達のランドセルはほとんどが輝きをなくし、なんだかくたびれて見えて、ぼくにはそれが生き物みたいに思えて面白かった。特に、黒いランドセルは赤いランドセルよりも痛んでいることが多くて、赤い方が強いのかな、なんて考えたりした。

 ぼくは、ぼくらは、ランドセルを持っていなくて小学校に行く権利がなかったから、毎朝毎朝賑やかに通過していくランドセルの群れを見ては、羨ましいなあと思っていた。


 遠くで鐘が鳴っている気がして、深く沈んでいた意識が浮上した。でも耳をすませてみても鐘の音なんてしていなくて、代わりにボソボソと途切れがちな低い声が耳に入ってくる。僕は重たいまぶたをゆっくりと持ち上げた。

 ここはどこだったっけ。首を捻り、焦点の合わない目で辺りを見回す。暗い。聞こえてくる男の声に、ノイズが混じっている。ラジオだ。僕はごわごわした感触の地面に手をついて、のそりと身体を起こした。

 顔を上げると、窓が見えた。その透明なガラスの向こうで、街灯がびゅんびゅんとすっ飛んでいく。そうだ、僕は車の中で眠ってしまったのだ。後部座席で寝ていたはずだが、いつの間にか落ちていたらしく足元の狭いスペースに身体を丸めて転がっていた。頬や腕に砂埃がぺったりくっついていて気持ちが悪い。薄っぺらいクッションを乗せたシートに手をついて、座席部分に這い上がる。そこで、僕はやっと運転席に目を向けた。

「お父さん、どこに行くの」

 この車の所有者は僕の父親で、普段この車を運転しているのも当然父親だった。だから、今運転席に座っているのも父のはずだ。

 しかし、驚いた顔でこちらを振り返ったそいつは、僕の父よりずっと若くて痩せている見知らぬ男だった。彼は目を大きく開いて僕を見る。

「は。え? 誰、何。幽霊?」

「人間です」

 男は、何度もこっちを振り返る。その度に車がぐわんぐわんと揺れて、事故でも起こしそうで気が気でない。

「前、ちゃんと見てよ」

 僕がそう言っても、彼はちらちらと僕の方を見るのを止めなかった。「前、前」と必死に喚いても、全く言うことを聞いてくれない。

「何だ、お前。どっから現れた?」

「僕、ずっとここで寝てたよ」

「嘘だろ、気づかなかったよ俺。全然」

 やられた、とわざとらしく頭を抱えて片手でハンドルを支える男。しかし彼の声は、心なしか楽しそうに弾んで聞こえた。

「おじさん、誰」

 父の友達とか、車の業者の人だろうかと僕は考えた。僕が忍び込んでいることを知らずに車を借りてしまったのかもしれない。

 窓の外の景色を見るに、まだそんなに遠くへは来ていないようだった。今引き返せばすぐに家に着くはずだから、父にバレずに済むかもしれない。でももう僕の不在に気づいていて、カンカンになって僕の帰りを待ち構えているかもしれない。

 僕がそんなことを考えていると、

「強盗だよ」

 男がひどくあっさり言ってのけた。

 男の髪は、肩につくほどの長さでやけにぼさぼさしていた。強盗。人の物を盗む人のことだ。つまり、この人は父の車を盗んだ犯罪者といことになる。こんな、全然怖くない、能天気そうな人が? 趣味の悪いイタズラではないかという考えが浮かんだ時

「この車、お前の父親のか」

 男がため息をつき、片手で頭を掻いた。その動作を見た瞬間、僕は、彼は本当に強盗なのだと何の抵抗もなく納得した。

「うん。お父さんの車」

「そうか。面倒なことになったな」

「殺す? 僕のこと」

 運転席のヘッドドレスから彼の顔を覗き込み「殺すの?」ともう一度問いかける。男は僕を一瞥し「殺すより、身代金でも要求した方が良いかもな」と笑った。

「僕が人質になるってこと?」

「そうだよ」

 ありえない、と思った。僕は、後部座席のシートに背を預けて笑い声を漏らす。

「何だよ、怖くっておかしくなったか?」

「違うよ。おじさん、ここら辺の人じゃないの? お父さんが僕のためにお金なんか出す訳ないじゃん」

「出すだろ、普通。自分のガキだぞ」

「僕のお父さん、普通じゃないから」

 僕は身を乗り出して、運転席の方に左手をぐっと突き出した。カーナビの画面の明かりが、僕のひょろひょろした腕を照らす。青白い光の元に晒された腕には、アザや打撲痕、煙草を押し付けられた痕が点々と散らかっている。

「僕に人質の価値なんてないよ」

 残念だったねと笑いながらおじさんの顔を覗き込むと、彼は虚な目で僕を見つめ、それから視線をフロントウィンドウの方へ戻し、ハンドルの上に腕を組んであごを乗せた。

「まいったなぁ。金にもならないガキか」

「やっぱり、殺す? 僕のこと」

「何だよ、随分と殺されたいようだな」

「そういうわけじゃないけど、別に殺されてもいいんだ。多分このままでも、そのうち死んじゃうし」

 頭と背中を殴られて、数日間激しい頭痛と嘔吐が止まらない時があった。太い足でお腹を蹴り上げられて、呼吸ができなくなって、トイレの便器を真っ赤にしたこともある。今日だって、酔っ払ってわけもなく殴りかかってきた父から逃れるために、勝手に鍵を持ち出して車に逃げ込んだのだ。これで車を盗まれてのこのこ帰ったりしたら、奇跡でも起こらない限り僕の命は助からないだろう。

「そこらへんで下ろすから、勝手に帰れよ」

 僕の事情なんて露知らず、男は平坦な田舎道を走りながら興味もなさそうに言う。

「僕も一緒に連れてってよ」

「は?」

 僕は、発光するディスプレイを眺めながらお願いする。ここではない所に行きたかった。行ってみたかった。そうしたら、父も追いかけて来れないだろう。その後どうするのかなんて考えていなかったけど、とにかく父の存在しない世界に逃げることばかり考えていた。

 だから、これはチャンスなのだ。

「おじさん、どこか遠くへ行くんでしょ? 僕も一緒に連れてって」

「絶対嫌だよ、めんどくせえ」

「どうして。迷惑なんかかけないよ」

「あのな。俺は今こう見えて、結構ヤバイ状況なんだよ。厄介な奴らに追われちゃってんの。だからわざわざこんな田舎道通ったりしてんだよ。ガキのお守りしてる暇はねえの」

「この街からは出ていくんでしょ? 街を出たらすぐ下ろしてくれればいいし、いいじゃない。ついでだよ」

 男の左目がじろりとこちらを見た。僕も負けじと睨み返す。このまま帰ったとして、僕の命はないに等しい。何としてもこのわがままを突き通さなければならないのだ。シャツの袖を握る手に、じっとりと汗が滲む。

 折れたのは、男の方だった。

「わかったよ。途中で捨ててくからな」

「本当に?」

「ただ捨ててくだけだ。他には何もしねぇ」

「いいよ、それで。ありがとうおじさん」

 喜びを噛み締めている僕を尻目に、男はため息をつきながらサイドウィンドウに凭れかかる。フロントガラスの向こうには、ひと気のない真っ暗な田舎道がどこまでも続いていて、僕は目をつむりたくなる。


 暫く走った所に自動販売機が見えたため、僕らは休憩を挟むことにした。男がコーヒーを買ったのが見えたから、僕は続けざまに「紅茶がいい」とねだったが、「勝手に買えよ」と却下される。

「お金を一銭も持ってないんだ」

「迷惑かけないんじゃなかったのか?」

「うん、かけない。ずっと何も飲んでなくて、その上夏場の車で寝てたからすごく喉が渇いてるけど、買うのはやめにする」

 缶コーヒーをゴクゴクと飲み下していく男を見上げながら言うと、彼はものすごく嫌そうな顔を僕に向けた。

「ヤなガキだな」

 そう言ってポケットの中の小銭をいくらか手に取り、自動販売機のコイン投入口に入れていく。やがて、ゴトンと音がしたのでそれを取りに行くと、取り出し口にあったのはスポーツドリンクだった。

「紅茶って言ったのに」

「文句言うな。早く飲んで、早く車に戻れ」

 僕はキャップを捻って飲み口に口をつけ、ごくごくと喉を鳴らして飲み込んだ。夢中で飲んだ。冷たさと少しの甘みが身体中に染み渡っていくようで、すごく気持ちがいい。

「生き返るって、こういうことを言うんだね。おじさん、ありがとう」

 既に車に乗り込んで煙草をふかしている男に言うと、彼は意外だとでも言いたげな顔をしていた。

「お礼とか、言えんだ。お前」

「僕のことなんだと思ってるの。普通言うでしょ」

「ふーん。偉いねえ」

 今度は助手席に座った僕の頭を、男は大きい手で乱暴に撫でた。近所の爺さんがペットの大型犬を撫で回していた光景が蘇る。

「ちょっと、やめて」

「じゃ、出るぞ」

 制止の声をかけると同時に、男はまるで僕への興味を一切失ったかのように、さっさとハンドルを握ってシフトレバーを下げ、運転を再開した。

 この男は、何を考えているのかわからない。まぁ、強盗の考えなんかわからない方がいいのかもしれないが。

「おじさんはさぁ」

 僕がそう切り出そうとすると、男は「ちょっと待て」とそれを止める。

「何?」

「俺はまだ二十七歳で、おじさんじゃねえ」

「だから?」

「おじさんじゃなくて、お兄さんって言え」

 どっちでもいいじゃないかと思ったけど、彼にとっては重要だったらしい。仕方なく「お兄さんさぁ」と仕切り直してから続ける。

「悪い人なの?」

 男は答えなかった。僕は濡れたペットボトルを両手に挟みながら彼の横顔を見つめる。煙草を吸い込んだ彼は、それからゆっくりと煙を吐き出して、父の吸殻でいっぱいになっている灰皿に無理矢理短くなった煙草をねじ込む。父がいつも吸っているのとは違う匂いが車内に充満していた。

「すごい悪い人かもな」

「ふぅん。あんまりそうは見えないのにね。僕のことをちゃんと乗せていってくれるし」

「それはお前がわがままだから仕方なくだろ」

 それもそうだ。でも、邪魔だからと僕を車から突き落としたり、そこら辺に置き去りにしたっていいはずなのに、それをしないのだからやっぱりいい人な気がした。それに、車を盗むのは悪いことだけど、車の持ち主である父はすぐ怒って暴力を振るうからこの男よりもよっぽど悪い人間だ。だから、悪い人間から物を盗んだって、別にいいんじゃないかとも思った。

 でも、この男も、本当は僕の父のように暴力を振るったり怒鳴ったりする人なのかもしれない。僕は、男が今までにどんな悪事を働いてきたのか興味が湧いてきた。

「どんな悪いことをしたの、今まで」

「何でそんなことを聞いてくんだよ」

「後学のためだよ」

 めんどくさそうに僕の質問を受け流していた男が、僕の言葉を聞いて、ちょっと笑う。

「俺の悪行を聞いて、何に活かすんだよ」

「おんなじ道を辿らないように、とかね。僕、ほとんど外に出させてもらえないんだ。学校にもあんまり行かせてもらなくて、大人の人と喋ることなんて滅多にないからさ」

 だからお兄さんの話をいっぱい聞いておきたくて。なんて、実際はただの好奇心からだけれど、人と喋ることが滅多にないというのは本当だった。それゆえ僕は少し、いや、かなり積極的になっていたのだと思う。

 男は何も言わずに目の前の夜道を見つめていた。

「お兄さんは、人を殺したことはある?」

「あるよ」

 僕の問いに、彼は短く答えた。低くも高くもない、気の抜けたような調子で。車内だというのに、少しだけ声を顰めて。

 僕は口を開けたまま、ハンドルを握っている男の手を見、それからまっすぐ先を見つめている横顔に視線を移した。

 タイヤが砂利や枝を踏みつける音と、カーナビから漏れるラジオパーソナリティの進行の声だけが、この車内を取り巻いている。それは、くだらない嘘をついたというボロを出さないためなのか、これ以上踏み込んでくるなという意の沈黙なのか、僕にはわからなかった。


 男が黙り込み、なんだか話しかけづらくなってしまったので、僕はサイドウィンドウのガラスに鼻がくっつくくらい近づいて、びゅんびゅん遠のいていく電柱、民家、塀、空き地を見送っていた。

 すぐに同じような建造物が次々現れては、また消えていく。その光景は、まるでこの街はどこまでも無限に続いていて、逃げ出すことなんかできないんじゃないかと思わせた。

 ひとごろし。人殺し。僕はさっきからずっとその言葉を頭の中で繰り返していた。でも、こわいという気持ちは不思議と湧いてこない。ただ、この男が、誰をどんな理由でどんなふうに殺したのかが気になっていた。それが、その殺人の理由が、僕の納得できるものであれば嬉しいと思ったのだ。

「なぁ」

 後頭部に声をかけられ、僕は窓から鼻を剥がして振り向いた。

「あのデカい建物、何?」

 男が指さしたのは、小さな丘の上にぽつんと建っている鐘の鳴る塔だった。

「鐘だよ」

「へえ。気味の悪い鐘塔だな」

 もう何十年も前から放置されているらしいその塔の壁は、元々は白かったのかもしれないが、今はすっかり黒ずんでしまっている。昔は屋根もあったらしいが、すっぽりと抜けたようになくなっていた。そんな朽ち果てた塔だが、夜になると時々明かりが灯ることがある。今日もそうだった。闇の中にぼんやりと浮かび上がる塔は、不気味でもあり、どこか幻想的でもある。

「あれ、鳴るのか?」

「ううん。ほとんど鳴らない」

「そうだろうなぁ。あんなにボロボロで音も出ないんなら、いっそ壊しちまえばいいのに」

 僕は「でも」と言い、なんと説明すればいいものかと考える。

「なんだ? いわくでもあるのか」

「そんな感じかな。全く鳴らないわけじゃなくて、時々鳴るんだよ。その、人が死んだ時だけ」

「人が死んだ時?」

 男は興味を惹かれているのか、ちらりと横目で僕を見た。僕は助手席から腰を浮かせて、森の奥に身を潜めている見慣れた塔をじっくりと眺める。

「まぁ、じいさんばあさんが勝手に言ってるだけなんだけどね。昔から、人が死ぬとそれを教えるように、ゴーンって一回だけ鳴るんだって。こじつけだと思うけど」

 なんだか恥ずかしいような気持ちでそう説明すると、やっぱり男は笑い出した。

「便利な鐘じゃないか。大地震なんて起きたら、うるさくて仕方ないだろうな。いやぁ、田舎の人間の想像力は逞しくていいや」

 僕だって、こんなくだらない迷信を真に受けているわけではない。でも、あんな不気味な塔だったらもしかして、と思う部分もあって、それがバレないように素っ気なく「信じてる奴なんて、年寄りだけだよ」と言った。

「お前は、聞いたことあるの? 鐘の音」

「あるよ。でも、どうせ誰かがいたずらで鳴らしたんだ」

それか、風のせいだよ。僕がそう言った瞬間、ぐぅ、と大きな音が車内に響き渡った。僕は視線を鐘に向けたまま、耳がかーっと熱くなっていくのを感じていた。音を発したのは、僕のお腹だったのだ。

「お前の父ちゃんは、ろくに飯も食わせてくれないのか」

 無性に恥ずかしくなって、ふてくされたみたいに俯いて「うん」と答え、膝を抱える。この男のことだ、さぞ馬鹿にしてくるだろう。そう思ったが、

「何が食べたい?」

 男は意外にも、僕に食べ物を与えてくれるつもりのようだった。

「いいの? 僕、お金ないけど」

「俺もちょうど腹が減ってたしな。サイゴノバンサンってことで、奢ってやるよ」

 サイゴノバンサンという怪獣の名前みたいな響きの言葉が出てきたので「どういう意味?」と聞くと、男は少しだけ考えて、「人生最後のご馳走のことだよ」と教えてくれた。

「縁起悪いこといわないでよ」

 僕は膝を抱えたまま、文句を言った。


 僕たちは看板をピカピカ光らせている焼肉屋に入ることにした。そこはまだお母さんが居た時に何度か来たことのある店だった。

 店内の時計を見るともう夜の十一時を回っていて、客は二組ほどしかいない。怪我をしている僕を見てか柄の悪い男を見てか、その両方かはわからないが、僕たちを迎えにきた店員さんは少しギョッとしたように見えた。

 僕は肉の部位だとか種類だとかは全くわからないから、注文は全部男がしてくれた。他の席から漂ってくる肉の焼ける匂いに空腹感を刺激されて、それをなんとか誤魔化そうと水をたくさん飲む。やがて大きなお皿に乗った赤い肉がたくさん運ばれてくると、僕たちはかたっぱしからそれらを網に乗せて焼いていく。

「よく焼いてから食えよ、腹下すからな」

「こんなにたくさん、食べていいの」

「なくなったら、また頼めばいい」

 男が当たり前のようにそう言うので、僕は次から次へと肉を口に入れては飲み込んだ。久しぶりに口にした肉は、菓子パンとかカップラーメンとかには無い旨さがあって、本当にこれがサイゴノバンサンになってもかまわないような気さえした。

 夢中で食べる僕とは反対に、男はゆっくりと肉を口に運んでいく。ふと窓ガラスに目をやると、僕たちが向かい合って食事をしている姿が映っていて、なんだか変な感じがした。

「僕たち、親子に見えてるのかな」

 肉を口に詰め込んだまま僕が聞くと、男は飲んでいたビールのジョッキを置いてこちらに視線を向ける。

「息子にしちゃデカすぎるな。そういえばお前、いくつだ」

「九歳。小三」

 僕が歳を教えると、男は「まぁ、無くはないのか」と呟く。

「学校、行きたいとか思うか?」

 何もなくなった網の上に、男がトングで赤い肉を並べていく。肉の油が落ちて、網の下の火がジュウっと鳴いた。僕は、何度か行ったことのある学校での時間を思い返してみる。

「どうかな。僕は学校の子たちとは違うから、教室に居ると少し苦しいんだ」

 僕が学校に行くと、クラスの子も先生も、僕を珍しそうに遠くから見たり、こそこそと何か耳打ちしたりする。でも、誰も僕に話しかけてはこない。周りの子達は皆他の子と話しているし、綺麗な服を着て綺麗な靴を履いて、綺麗なランドセルを背負っている。そうすると、綺麗じゃない僕はここに居てはいけない気がしてきて、どうしたらいいのかわからなくなってくる。

「でもね、勉強はしてみたいんだ。本が家に何冊かあって、たまにそれを読むんだけど」

「へぇ、本を読むのか。どうりで難しい言葉をよく知ってるわけだ」

 男が関心したように言うので僕は嬉しくなったが、それがバレないようにすぐに首を振って「全然だよ」と否定する。

「難しい漢字とか知らない言葉がいっぱい出てきて、話がわからないんだ。でもそういうの、学校に行けば教えてもらえるんでしょ」

 僕のお母さんが置いて行ったらしい本を、僕は父親の目を盗んでたまに読んでみる。でも、知らない言葉が次々と出てくるから、虫に喰われた本を読んでいるようで話が繋がらないのだ。

 僕の家に辞書はないし、父親は僕がその本を読んでいることを知ると叩くから、本はずっと虫に喰われたままだ。でも、学校に行けば僕の知らない言葉も先生が教えてくれるのだろう。そうしたら、僕はやっと穴を埋めることができて、本を読むことができる。

「勉強したいのか。偉いねぇ」

 男は焼けた肉を僕の皿に移しながら、「夢は?」と言った。

「将来の夢。大人んなったら何になりたい」

 将来。大人。そんなこと、考えたこともなかった。僕は皿に盛られた肉に箸を伸ばし、タレにじゃぶじゃぶと浸す。僕が大きくなったら。今よりもっと背が伸びて、力も強くなったら。

「父さんを殺したい」

 言うと、男は目を丸くして僕を見た。それからすぐに、可笑しそうに笑い出す。

「文学少年のくせに、物騒だなお前」

 男はニヤニヤしながらジョッキを傾けた。

「だって、それしか出てこないんだもん」

「そんな細っこい腕じゃ、無理だよ」

 にやけている男の頬は、ビールのせいか少し赤くなっている。その顔を見て、酒を飲んで車を運転するのはダメなんじゃないかという疑問が浮かんだが、そもそもこの男は強盗なのだし、人も殺しているのだから、今更どうでもいいかと思った。


 肉もご飯も平らげ、男はジョッキを、僕はグラスを空にしても、僕たちはしばらく手持ち無沙汰に座っていた。が、男が「そろそろ行くか」と切り出したので、僕は頷いた。彼はレシートを手に取って眺めている。その骨張った長い指を見ていたら、僕はなんだか気持ちがむずむずしてきて、思わず「お兄さん」と声を出していた。

 男がレシートから僕に視線を移す。

「お兄さんが殺した人って、どんな人?」

 離れた席の笑い声がやけに大きく聞こえた。男は僕の目をじっと見つめたまま、口を開く。

「弟」

 お前よりも小さかったな、と無表情に呟いた。僕は呆然とその低い声を聞いている。

「見殺しにしたんだ。母親に殴られてたのに、俺は助けなかった」

 彼はそう言うと立ち上がり、レジカウンターへ歩いて行った。僕は暫くぼんやりとその姿を眺めていたが、会計を済ませた男がこちらを振り返ったので、慌てて腰を上げた。


 男の後を追って、重たいガラスのドアを押して店の外へ出る。駐車場はがらんとしていて、店の明かりがすぐそこに見えているのに、全く別の世界のように暗くて寂しい感じがした。僕は男と離れないように、距離を詰めて歩く。

 彼が振り返って飴を差し出してきたから、受け取って包みを破く。鼻がつんとする匂いの飴玉を口に入れると、彼も飴を口の中でコロコロ言わせながら、「俺も欲しかったんだよな、ランドセル」と呟いた。それからガリガリと音を立てて飴を噛み砕き、

「お前、苗字なんだっけ」と僕の顔に視線を落とした。

「みやけ」

「みやけね。数字の三に、住宅の宅?」

「多分そう」

「じゃあ三宅、ここでお別れとしよう」

 僕はびっくりして、転がしていた辛い味の飴玉を思わず飲み込んでしまった。

「待ってよ、もう少しだけ連れて行ってよ」

「ダメだ。邪魔になるんだよ」

 どうして、急にそんなことを。ポケットから車の鍵を取り出した男の服を引っ張って止めようとするが、彼は僕の手を振り払って車に乗り込んだ。助手席のドアを開けようとしたが、鍵をかけられてしまって開かない。窓を叩いても、彼は運転席でガチャガチャやっていてこちらを見もしない。

 ひどい、なんて奴だ。こんな時間に飲食店がぽつぽつと建っているだけの田舎道で一人下されたって、どうしようもないじゃないか。それに、まだ家からいくらも離れていない。彼はまだ車を走らせるつもりのようだし、それならばもう少し乗せて行ってくれたっていいのに。

 僕は、ものすごく腹が立ってきた。と同時に、どうしようもなく悲しくなった。それなのに彼は全然平気な顔をしていて、僕は、学校で一人ぼっちでいる時よりも家に一人きりの時よりも、よっぽど寂しい気持ちになる。

 どうすることもできない僕は、飴の包みを握ったままの掌にぎゅっと力を込めて窓ガラスを睨みつける。やがてエンジンのかかる音がして、固まっていた車が小さく振動し始めた。

 僕の視界がじわりと滲み始めた時、低い機械音が聞こえて助手席の窓が開いた。僕は咄嗟に目元を拭う。すると、

「今から警察に行け。そのあとは、上手くやれよ」

 男の声がそう言った。

 何を言っているのか、全くわからなかった。明瞭になった視界が捉えたのはハンドルを握っている彼の横顔で、僕が言葉を発する前に車はものすごい勢いで動き出した。

 見慣れたナンバープレートが小さくなっていく様子を呆然と眺める。それは、ギュルギュルと激しい音を立てながら右折して、元来た道へと引き返して行った。

 彼は、僕の家に戻るつもりなのだ。

 その意味を理解した瞬間、心臓がどくんと大きく跳ねた。全身の毛穴からどわっと冷たい汗が吹き出し、目の前がチカチカと光る。

「待って!」

 無意味な叫びを真っ暗な夜道に吐き出して、僕は駆け出した。車はもう見えなくなっていて、街灯の青白い灯りが点々と続いているだけだった。僕は震える足を必死に動かして来た道を辿る。でも、追いつかない。追いつけるわけがない。混乱する頭で辺りを見回していると、遠くの方で明滅する灯りが目に入った。弱々しく付いたり消えたりを繰り返す小さな灯りに照らされる、古びた塔。

 僕は、突き動かされるみたいに、再び走り出した。


 心臓の音と、自分の荒い息遣いだけが聞こえていた。肺が壊れてしまったみたいに呼吸が苦しくて、心臓はバクバクとうるさく今にも爆発しそうだった。

 身体にうまく力が入らない。足がもつれて、僕は派手な音を立てて地面に転がった。膝を擦り剥いたようで、鈍い痛みがゆっくりと迫り上がってくる。

 呻き声を噛み殺して立ち上がろうとした時、真っ暗な街に、ごおん、と腹の奥に響くような一つの重い鐘の音が響き渡った。僕は冷たい地面に這いつくばりながら、どこか他人事みたいにその音を聞いていた。頭の中では、男の「サイゴノバンサン」という声が、ぐるぐると回っていた。

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