二.

 彼女の死から二週間が経ったころ、若い娘が死んだ。仙道を修めんと数々の修行をしていた娘で、穀断ちの最中だった。娘と私は少しだけ交友があった——ここに来てすぐのころ、私が道教の尼だと知るや、この娘は私のところに飛んできて私を質問攻めにした。私は私に教えられる全てを話し、運功や武術の手ほどきも少しした。花になった彼女あの子と老婆の次にともに時間を過ごしたのがこの娘だった。

 今回は集落のしきたりに従って老婆が全てを執り行った。今回もまた、娘と関わりを持っているようには見えなかったのに、皆ぱらぱらと出てきては線香を供えていた。私も線香をあげた。広場には、彼女あの子のときとは比べものにならないほど、かすかに桃色を帯びた白い煙とともに甘い匂いが充満していた。私は匂いに耐えきれず、独りその場を離れて湖へと赴いた。


 咲いたばかりのころと比べると、彼女はかなり様変わりしていた。落ちた花弁があちこちに散らばり、流され、何枚か橋杭にも引っかかっている。もっこりしていた輪郭は今ではすっと細くなり、しかしまだみすぼらしさは感じられない。むしろ花弁が減ったことで見た目が洗練されたようにも思える。あの花の花弁がすっかり落ちたら集落を出ようと私はすでに決めていた。あと何枚残っているのだろう、そう思いながら湖面をぼんやり見つめていると、やがて娘を抱えた老婆を先頭にして葬送の列がやってきた。

 娘は水に下ろされると、しばらく湖面を漂ったのちに沈んでいった。



 娘の死から三日目の朝、異変が起きたと言って老婆が私の小屋にやってきた。彼女について湖に向かうと、集落じゅうの女子が湖に集まって、何やらひそひそとささやき合っていた。ここの皆は互いのことには興味のない者がほとんどだというのに、なんとも珍しい光景だった。

 誰かが老婆の姿を認め、その名を呼んだ。すると皆一斉に静まり返り、こちらを向いて老婆と私を交互に見つめた。

「……一体、何があったのです」

 女子たちの不穏な目つきに私が尋ねると、傍らの老婆が口を開いた。

「三日前にここに眠った娘を、道姑様は覚えていますね」

「ええ。とても熱心な子でした」

「では、この景色を見て、貴女は何と思われる?」

 訝しむ私にそう言って、老婆は湖を指し示した。すると人垣がわらわらと割れ、「景色」とやらが私の視界にも入ってきた。


 そこには、いつもと変わらぬ碧水が広がっていた。見渡す限りの青緑色に、ぽつりと浮かんで花を散らす彼女がいる。これが何なのかと眉をひそめた私に、老婆が静かに言った。

「花は弔いの翌日に咲く。朝であれ昼であれ夜であれ、水に沈めてから十二の時辰が巡るまでに必ず咲くのです。ですがあのの花は未だ見当たりません。彼女の花はどこにあるのですか?」

 そう言われて初めて、私は娘が沈んだあたりに花が見えないことに気が付いた。だが、老婆の言葉にはどうも合点がいかない。

「もう少し待てば咲くのではないですか? 何事においても絶対というものはありません。これまで弔いの翌日には咲いていたからと言って、全員がそうだということにはならないでしょう……」

 私がそう言った途端、皆が一斉にざわめいた。聞こえてくるのは不信と否定の言葉、そこに時折罵倒さえもが混ざって耳を抉る。老婆は無言で進み出ると、私をじとりと睨みつけた。

「道姑様。あなたはあの娘に一体何を言われたのです?」

「何も。あの子に聞かれたことに答えたまでです」

「あの娘は何を聞いたのです?」

「仙人たちの伝説について。それから修行の仕方について。体内の気の流れやそれを実際に動かす方法についても教えました」

「それがあの娘の魂に影響を与えるとは思わなかったのですか」

「ええ。全く」

 私はそう答えて老婆を見つめ返した。

「あの娘は、修行の末に自力で昇天したいと私に語りました。ここに来たのは志半ばで果てたとしても、己の志に応じて天に上げてもらえるからだと。私に助言を求めたのは彼女がそれが自らの役に立つと感じたからです。だから私は彼女の思いに添えるよう、答えられる全てに答えた。そのことで、この湖に葬られることについて彼女の気持ちに変化が生じていたとしても、なぜそのことで私が責任を問われるのでしょう? そもそも外人との交流は禁じられておりません。あの娘も私も咎を受ける所以はないはずです」

 私がそう言うと、老婆はくっと目を見開いた。あとの者は信じられない、なんてことをと口々に弾糾の声を上げている。

「……貴女は、この湖を貶めるのか」

 老婆が低い声で問う。私はそれを否定した。

「そうではありません。ただ、もしあなた方が私との交流であの娘の魂が穢されたと思っているのなら、それは私にとってもあの娘にとっても謂れのないことだと言っているだけです」

 私はそう言うと、老婆の背後の女子たちをちらりと見た。皆が一斉にどよめき、じりじりと後ずさる。

 そんな中、老婆だけが私に一歩近づいた。

「やはり、湖に興味のない者を居させるべきではなかった」

 独り言のような、しかしはっきりと敵意のこもった一言。私が身構えたのと、人垣がわっとこちらに向かってきたのが同時だった。

 踵を返そうとした私の腕を、そのしわくちゃの顔からは想像もできない力で老婆が掴む。女子たちは身動きの取れない私を捕え、引き倒して地面に押さえつけ、雨あられと拳を降らせた。もはや誰に殴られているのかも分からない中、私の意識は次第に薄れていった。



***



 道姑がぐったり動かなくなると、老婆が「止め」と言った。人垣が割れ、中から現れた道姑は、顔を腫れ上がらせ、頭から血を流し、すでに力尽きているように見える。老婆は道姑をじっと見つめたまま、

「彼女を湖に入れなさい」

 と呟くように言った。

「あの娘は、そうとは知らず奸賊の言葉に乗せられて魂を穢してしまった。たしかに娘に罪はないが、しかし花も咲かぬとなると、此度の事は天によって裁かれねばならぬ。湖は一度に多くの穢れを受けると自ら水を清める。我らの不手際を贖うためにも、即刻この穢れきった魂を湖に入れよ。水に異変が生じても動じるでないぞ。放っておけば水はもとに戻る。数日待って何も咲かなければそれで良し、生えてきたものがあれば根こそぎ刈り取って火にくべる」


 そして、そのようになった。

 碧水は道姑の傷口を焼き、肌を焼き、鼻や口から体内に入って内側からも道姑を焼いた。服は溶け、肉は爛れ、湖底に体が着いたときには道姑はすでに人の形をした赤肉へと姿を変えていた。それもついには細かな欠片にばらされて、漂う血肉は碧水を濁らせ、湖は一面の紅に染まった。

 その後幾日かして、もとの碧水が戻ってきた。道姑が沈められた場所からは、大輪の真っ赤な花が咲いた。

 皆は老婆に言われたとおりに、船を出して花を根こそぎ刈り取った。花は老婆によって燃やされ、赦しを乞う儀式は三日に渡り続いたという。


 それからひと月ほどが経ったころ、集落はすっかり元の落ち着きを取り戻していた。道姑の一件はすでに皆の記憶の奥底で眠りにつき、ことにつけ持ち出す者もいない。

 新たに花が咲き、咲いた花が散る。清らな女子たちの営みは、途切れることなく続いていく。

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花冠の弔い 故水小辰 @kotako

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