花冠の弔い

故水小辰

一.

 清らな魂は水に触れれば花と咲き、四十九の弁を散らして天へ昇るという。

 天の神々がその清さを認め、あるいは憐れんで誉としてくださるからだ、たとえば幼くして死んだ魂や、穢れとは無縁の生を全うした魂は、格別美しい花を咲かせるのだと、老婆は周囲に広がる湖を指して教えてくれた。たしかに、淡い青緑色の水面にはぽつり、ぽつりと白い花が咲いている。そよ風に乗って漂ってくる淡く優しい香りは花の香りなのだろうかと、頭に浮かんだそのままを老婆に尋ねると、彼女はしわくちゃの顔でにこやかに頷いた。

「あの香りがないと、天からのお迎えが来ないのですよ。つぼみが開いて香りはじめ、一片一片、花びらが順調に水に落ちていけば、その魂は天に迎えられて平安を得ます。でも、花は開いても香りがなく、花弁が散ることもないまま枯れてしまうと、その魂は清らかではなかったということになります。そういう花は即刻抜いて、土に還してやらないと、その子はどこにも行けません」

「皆が皆水葬されるというわけではないのですね」

 私がそう問うと、老婆はその通りですと頷いた。

「その、魂の清らかさというのは、誰がどのようにして決めているのですか?」

「それは私には分かりかねます。ここに来るまでの暮らしぶり、ここに来てからの暮らしぶり、知り合った殿方の有無、産んだ子の有無、病の有無、その全てが穢れとも清さともなりますので。私どもがそれを知るのは、骸をこの水に浸け、花が咲いたときです」

 私はそうですかと答えて、もう一度碧水を見回した。湖底の砂、桟橋の杭が見えるほどに澄んだ水がどこまでも続き、穏やかで心地の良い静寂が水面を揺らすばかりの広大な湖。その静かな流れに乗って、一枚の白い花弁が流れてきた。

「ああ、ほら。道姑様、これがその花弁です」

 老婆が花弁を指さして言う。私は橋杭にひっかかったそれを取ろうと、しゃがんで手を伸ばした。

「なりません!」

 老婆が唐突に鋭い声を出す。驚いて手を止めた私の前を、花弁はまた静かに流れていく。

「この水に触れてはなりません。未だ清さの定まらぬ魂が水に触れては災厄が起きますゆえ」

 老婆は厳しい口調で言うと、私の後ろを通って桟橋を引き返しはじめた。私も立ちあがってそのあとを追った。ここに来た日の、穏やかな午後のことだった。




***




 この集落には、女子ばかりが集まって暮らしている。聞けば、夫や我が子に先立たれて行く先のない者、この世を見限って天に召されることだけを生きがいにしている者、心無い男との間にできた子——実際に来てみれば、この子どもたちも皆女子だった——を抱えた者など、実に様々な女子がここに身を寄せているという。

 私がここに来た理由も、この集落でなら残りの人生を穢れを注ぐことだけに使え、しかも天界の神々に召し上げてもらえると彼女が言ったからだった。俗世を離れたいのなら他にも行く先はある、私のように道を探し求めることもできるし、仏に救いを求めることもできると私は言ったが、彼女は首を横に振るばかりだった。ただ、この地で、この碧水に包まれて眠りたい、そしてそれを私に見守っていてほしいとだけ彼女は言った。


 そして、その通りになった。彼女をここに連れてきて一か月ほどが経ったある朝、いつものように彼女の住む藁葺きの小屋を訪れたとき、彼女は寝台で冷たくなっていた。


 人が死ぬと、まずその者を集落の中央で祀るのだと老婆は言った。こうした祭事は老婆の仕事なのだそうだが、今回は私がすることになった——厳密に言うと、私が申し出てその役目を引き受けたのだ。彼女は私が連れてきたのだから、行先がどこであろうと最後まで見送るのが私の務めだと言うと、老婆は存外あっさりと引き下がった。私は、そのしわの奥に漂う不満げな気配を見て見ぬふりをしてやり過ごした。集落の皆は、それまで一切彼女に関わろうとしなかったのに、この時になるとぱらぱらとやってきては彼女の祭壇に線香をあげていった。どういうわけかここの線香は、鼻がおかしくなりそうなほど甘ったるい香りがした。老婆に聞けば、この匂いが魂に移って天界に召されるときの印になるそうだ。老婆に湖を案内してもらったときにかすかに匂っていたのはこれかと私は一人納得した。

 日が傾き始めたころに、祭事はつつがなく終わった。道具も手順も祈祷の言葉も、全てが私の知らないものだったが、彼女がこうしてくれと望んだからには私は断れない。全てを終えた私は、絹の白衣に身を包んだ彼女を抱えて湖へと向かった。皆は儀式を遠巻きに眺めていたが、私と老婆が湖に向かって歩き出すとまたぱらぱらと列を作ってついてきた。

 碧水は相変わらず静かで穏やかで、午後の光を反射してキラキラと輝いていた。それにしてもよく晴れた日でよかった。彼女と出会ったあの町よりはここの方が気候も良いし、それだけで最期のひと月を心穏やかに過ごせたことは間違いない。病み、震え、やせ細った彼女の体がもとに戻ることはなかったが、最期の数日は最初に会ったときよりも顔色が少しだけ良くなっていたし、笑顔も見せてくれた。

「ねえ、道姑さん、桃源郷ってきっとこういう場所のことを言うのよ。だって思わない? いつも晴れていて、暖かくて、好きなように過ごせて。ここにいたら、生きていてよかったなって思えるの。あの町にいたときは、ああまだ生きてる、なんで早く死なせてくれないんだろうってずっと思っていたんだけど、今はそんなこと少しも思わない。きっと、仙女さまが憐れんでくださったのよ。だから夢でこの場所を教えてくれて、私に付き添ってくれる優しい人を遣わしてくれた。私、天界に行ったら、絶対神さまにあなたの話をするわ。それから神さまに頼み込んで、あなたを天界の仲間にしてもらうの。私じゃ下女にしかなれないけど、あなたならきっと素敵な仙女さまになれるわ。そうしたら私、あなたに仕えてこの恩を返すわ。きっとよ」

 こんなに楽しそうに話すひとだったのかと、私は少し驚きながら彼女の話を聞いていた。出会ったとき、あの冷たい町の雨の日で、身も心も病みきって諦観に憑りつかれた哀れな女の影はすっかり消えていた。またあの声を聞くときには、彼女は、自分は、どうなっているだろう。そんなことを思いながら、私は桟橋に膝をついて、彼女の体をそっと水に浮かべた。

 彼女は緩やかな波に乗って少しずつ遠ざかっていって、やがて音もたてずに水の中に消えていった。



 翌朝、靄のかかる桟橋を歩いていると、昨夜彼女が沈んだあたりに一本の茎が伸びていた。てっぺんにはつぼみがついていて、今にも開きそうなほど膨らんでいる。私は時間を忘れて、そのつぼみが開くところをじっと見守っていた。もやが晴れて水面が露わになり、朝日を反射して輝く頃、彼女はついに花開いた。先を桃色に染めた白い蓮のような花が一輪、白く輝く水面から伸びて咲いていた——蓮の花に似ていたが、花弁がやけにたくさん集まっていた。これはたしかに四十九枚ありそうだと思いながら私は花をじっと見つめていた。

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