嘘の果て
それは突然のことだった。
2週間ぶりにシュウから電話がかかってきたと思ったら、明らかに様子がおかしい。
「カンナ、突然電話してごめん。」
今までだってシュウが空いている時間に突然電話してきた。何を今さら謝る必要があるのか、と思った。
「ううん、ちょうど寝る準備してたところだから大丈夫。」
「あのさ……」
「うん?」
「別れようか。」
「……え?」
「急にこんな話してごめん。」
「急も何も……どうしたの?何かあった?」
「3年になってから勉強がどんどん厳しくなってきてさ、何かいろいろ中途半端だなってずっと悩んでたんだよ。」
たしかに勉強は大変になってきたとは言っていたが、それが別れ話に繋がる理由がわからなかった。
「私は別にシュウが会える時に電話したり会ったりするだけで十分だよ。今までもそうしてきたじゃん。」
「……うん。でも、ごめん。もう無理そう。」
無理?何それ?シュウがどんな顔でこの話をしているのかわからない。ただ、これ以上は何を言ってもダメなようだ。これまでも小さなケンカはあったが、別れ話が出たことは一度もなかった。
幼なじみだった時から長い間、私たちは一緒にいた。物理的な距離は離れても、心の距離は離れないと思っていた。
それをシュウは手放すというのだ。
少し時間が必要なのだろう。まずはシュウの気持ちを大切にするために、私は別れることに同意した。
「わかった。」
「本当にごめん。じゃあ。」
そう言ってシュウは電話を切った。
大学3年生の秋。私とシュウは別れた。シュウに出会ってから15年以上経っていたが、シュウと離れたのはこれが初めてだった。
2年後。新社会人になって半年が過ぎようとしていた。
私は地元の町役場に就職し、毎日いろいろな問い合わせの対応で、てんやわんやだった。
「カンナ、こっちこっち~。」
「アリサ、お待たせ。」
今日は高2のクラス会。近況報告という名目だが、社会の荒波に揉まれるお互いを励まそうという集まりだった。
地元に就職した約20人ほどが来ていた。
お酒が良い感じに入ってきた頃、アリサが小声で話しかけてきた。
「あれからシュウとは?」
「一度も会ってない。連絡もないし。」
アリサにはシュウと別れたことを話していた。誰にも言う気はなかったが、シュウと別れたことが想像以上にストレスとして降りかかっていた私は体調を崩してしまい、アリサはずっと面倒を見てくれていたのだ。
「そっか。シュウ、ひどいよー。」
アリサの声が大きくなった。それに気づいた男子がやってきた。
「そういえばカンナはシュウと連絡取れてる?今回誘おうと思ったんだけど、連絡通じなくなってたんだよ。家に行っても誰も出ないしさ。」
「私も2年前に別れてからずっと連絡取れていないの。」
「二人ずっと仲良しだったのに、そんなことってある?」
アリサはわずかに残っていたお酒を飲み干して、グラスをテーブルにドンと置いた。かなりヒートアップしてきている。
「もう終わったことだから仕方ないよ。」
私は自分に言い聞かせるように言った。頭の中で何度も繰り返したフレーズ。そうでもしないと前に進めなかったから。
別れた直後の私は自分でもびっくりするくらいひどい状態だった。食事が億劫になり、布団に入ってもなかなか眠れなかった。シュウは私にとって恋人という域を超えて、自分の一部のような存在だったのだ。それが欠けて、体が思うように動かなくなってしまっていたのである。
アリサがご飯を作ってくれたり、夜遅くまで話を聞いてくれたりしたおかげで私は少しずつ日常を取り戻してきた。
シュウと連絡が取れないことだけが気掛かりだったが。
家に行ってもシュウのお母さんもお父さんも留守がちで会えなかった。そのうち、もしかしたら意図的に会わないようにしているのでは?と思い、家を尋ねることもなくなってしまった。
「リホが早々に彼氏と別れたから、シュウ本人からじゃないと学校での様子もわかんなかったもんね。その本人と連絡が取れないんだから本当に心配……。」
そう言いながら、アリサはテーブルに頭をガンっと打ち付けた。相当酔っている様子だ。
「アリサが酔ったみたいだから、今日は帰るね。」
私は二人分の会費を幹事に渡し、お店を後にした。
それからさらに6年半が過ぎ、私は30を迎える年になっていた。
周りは結婚、出産ラッシュ。
アリサも一昨年結婚し、昨年女の子を出産していた。
独身時代は私のことを気にかけて何度も合コンや男性の紹介をしてくれた。しかし、どんなに素敵な人でも付き合う気になれなかった。
また別れることになる?シュウのことが気掛かりなのに相手に失礼なのでは?そんなことが頭の中でグルグルし、前に進めずにいたのだ。
仕事のほうは順調だった。今年度から念願の観光振興課に配属されたのだ。
地元で長年愛されているお店や絶景スポットなどを取材し、ホームページにアップするなどしていた。
ゴールデンウィークに久しぶりに高2の時のクラス会が開かれた。
しかし、もう誰もシュウの話をしなくなっていた。
気にならないわけではないが、何となくタブーのような扱いになっているのだろう。
梅雨が明け、季節は夏。私は小学校に来ていた。
町の観光スポットについて小学生に記事を書いてもらうことになり、その講師として参加していたのだ。
小学生を引き連れて、田んぼ道を歩いていると、一人の男の子が何かを見つけた。
「あれ?あの猫ちゃんケガしてるよ。」
その男の子が指差すほうを見ると、あちこちひっかき傷のようなものがある猫がゆっくりとこちらに向かって歩いてきていた。
「よく見つけたね。でも、野良猫みたいだし、私たちはどうすることもできないの。」
担任の先生が男の子を諭した。
「どうして出来ないの?痛そうだよ!」
「一度人間に助けてもらうと、自分たちで生きていくことが難しくなっちゃう子もいるのよ。だから、飼えないのであれば手を出すべきではないわ。」
「でも……。」
その男の子はまだ何か言いたげだったが、それ以上は言わなかった。
学校での授業が終わり、役場に戻った私はその猫のことを上司に報告した。
「うーん、事情はわかったけど、俺も先生と同じ意見だな。俺たちは治療も出来ないし、仮に治療出来たとしてもすぐに外に放り出すわけにもいかないだろう。だから、やっぱり飼えないのであれば無暗に手を出すべきではないと思う。」
その後、私は頭の中からあの傷だらけの猫のことが消えなかった。
帰り道、様子を見に行くことにした。
午後6時を過ぎて辺りは暗くなりつつあったが、大体の場所を覚えていたので、近くに車を停めて田んぼ道へ向かった。
すると、田んぼ道の真ん中に大人が座り込んでいた。
具合でも悪いのか、私は急いで駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「はい、僕は大丈夫です。」
その大人の顔を見て、私は驚いた。しかし、相手はもっと驚いたようである。
「……カンナ?」
「そうだよ。」
「本当にカンナ?」
「そうだってば。」
そこにいたのは、以前より大部細身になっていたが、声も顔も昔のままのシュウだった。
シュウは大きめのタオルで何かを包んでいた。
「ここで猫がケガをしてるって、子どもの声で電話があったんだ。」
私は昼間の男の子を思い出した。彼が電話をかけたのだろうか。
「私も昼にこの猫を見て、気になったから様子を見に来たの。」
「そっか。」
シュウは立ち上がった。
「どこ行くの?」
「俺が勤めている動物病院。……カンナも来る?」
「うん。」
私はシュウの車に乗った。
車は出発してから10分ほど走り、国道沿いの小さな建物の前に止まった。
そこには「ヒマワリ動物病院」と書かれていた。
シュウは急いで車を降り、猫を抱えて病院の中に入っていった。
私もそれに付いていく。
応急処置を済ませたシュウが戻ってきて、私の横に腰かけた。
「傷は幸い浅かったけど、今晩は病院で様子を見るよ。」
「そっか。ひどくないなら良かった。」
私はカバンを持って立ち上がった。
「送ってくよ。」
シュウも立ち上がった。
車内は無言だった。何かを話したら、涙が出てきそうだったから私は何も話せなかったのだ。
運転席のシュウは前だけを見て走っている。横顔からは表情が読み取れなかった。
田んぼ道近くまで戻ってきた。
「車そこに停めてるから、ここで大丈夫。」
私がシートベルトを外し、車を降りようとするとシュウも車のエンジンを切った。
そして、こちらを見て言った。
「少し話せない?」
その瞬間、私の目からは涙が溢れてきた。そのせいで視界がぼやけているが、シュウも目元を拭っていることだけはわかった。
「カンナ、元気だった?」
「元気だったよ、ずっとね。」
私は出来るだけ明るい声で嘘をついた。
「なら良かった。」
シュウはそう言うと、ハンドルに顔を伏せた。
肩が小刻みに揺れている。きっと泣いている。
その様子を見て、私はまた涙が出てきた。
シュウには元気だったか、聞き返すことが出来ない。
元気ではなかったことを知っているから。
昨年、住民課に所属していた時、シュウのお母さんが役場にシュウの転入届を出しにきた。
受付をしたのは私ではなかったが、会話の内容が偶然聞こえてきた。
私は手続きを済ませたシュウのお母さんを追った。
「おばさん!」
パワフルだったシュウのお母さんはすっかり瘦せていた。
「カンちゃん?」
「はい。」
私だとわかると、シュウのお母さんは手で顔を覆ってワンワン泣き出した。
「今晩ちょっと家で話せるかしら?」
シュウのお母さんは涙をハンカチで拭いながら言った。
「はい、6時過ぎくらいには行けると思います。」
退勤後にシュウの家に向かった。
そして急な別れ話の後、何があったのかを聞いた。
大学3年生の健康診断で引っかかったシュウは夏休み中にこちらに戻ってきて再検査を受け、その時に小さな悪性腫瘍が見つかったのだという。
そして、秋から休学し、専門の先生がいる大きな病院に入院した。
当初はすぐに手術をする予定だったが、シュウの体力が急激に落ちてしまい、手術までに時間がかかったのだという。
それからリハビリを追えて退院したが、シュウはすっかり気力が衰えて休学は長く続き、何とか大学を卒業し、就職して地元に戻ってきたのがこのタイミングだったのだ。
シュウは病気のことを周囲に口止めしており、このことを知っているのはシュウのお父さんとお母さん、そして大学の一部関係者のみ。特に私には絶対に知られたくないと言っていたそうだ。
「理由を聞いてもなかなか教えてくれなかったんだけどね、手術の前日に一回だけ言ってたのよ。『俺がいなくなったら、カンナが悲しむだろうな。だから、元気なうちに別れておいて良かった。万が一のことがあってもカンナには言わないでよ。』って。」
それまで堪えていた涙が堰を切ったように止まらなくなった。
そんな私をシュウのお母さんは優しく抱きしめてくれた。
「だから、家に来てくれているのは知っていたんだけど、ずっと連絡が出来なくてごめんね。」
「良いんです。事情がわかって納得しました。シュウから連絡をくれるまでは私もこの話は聞かなかったことにします。」
それから1年ちょっと。シュウから連絡が来る、という当初思っていたものとは違うが、私はシュウに話すことにした。
「シュウ。私、本当は知ってるの。どうしてシュウが別れようとしたのかも、その後シュウに何があったのかも。」
シュウは顔を上げてこちら見た。相当強くハンドルに顔を押し当てていたのか、顔が真っ赤になっていた。
「昨年ね、偶然シュウのお母さんに会って……。」
「そっか。母ちゃん何も言ってなかったな。」
「それは私がシュウから連絡来るまで知らないフリをするって言ったから。きっとシュウもいろいろ考えてると思って待つことにしたの。」
「本当は、手術して元気になったら連絡しようと思ってたんだ。せめて友だちでも良いからカンナと一緒にいたいから。こんなの虫がよすぎるよな。」
私は黙って首を横に振った。
「でも、瘦せこけた自分を見た時に、こんな姿をカンナに見せたくないって思って。」
「うん。」
「きっと心配するだろ?だから5年待つことにしたんだ。5年経って、再発しなければ完治したと見なされるって聞いたから。ちゃんと元気になったら会いに行こうと思った。」
シュウの瞳がまた潤みだす。
「でも、5年経ったら今度はカンナにはすでに相手がいるんじゃないかとビビッてさ。ズルズルきたのがこの様だよ。かっこ悪すぎるよな。」
私は自嘲気味に笑うシュウを抱きしめた。
「シュウはかっこ悪くないよ。私のことを考えてくれていたのを知ってるから。」
別れ話を切り出したあの夜、シュウは大きな大きな嘘に大粒の汗をかいていたのだろうか。
いや、もしかしたらあの夜は汗ではなく涙を流していたのかもしれない。
電話越しにはわからなかったが、優しいシュウのことだからきっと後者だっただろう。
シュウを抱きしめる腕にそっと力を込めた。
「ずっと待ってたよ、シュウ。」
「ごめん、カンナ。」
「謝らないでよ。でも、一つだけ約束して。」
「うん?」
「もうそんな悲しい嘘つかないでほしい。私はこれから先もシュウと楽しいことも大変なこともずっと共有していきたいよ。」
「わかった。約束する。本当にごめん。」
「だから謝らないでってば。」
私は泣きながら笑ってしまった。
シュウもそれを見て笑う。
「シュウ、私も実は一つだけ噓ついてたの。」
「え?」
「さっき、ずっと元気だったって言ったけど、あれは噓。シュウと別れてから心にぽっかり穴が空いたみたいだった。だから、その穴を埋めるために必死で働いてきたんだ。」
「この町の活性化のために役場に就職するっていう夢をちゃんと叶えたんだもんな。」
「あれ?何で知ってるの?」
その瞬間、シュウはヤバい、という顔をした。
「ねえ、何で知ってるのよー?」
「えーと、母ちゃんに聞いた。昨年役場で会ったんだろ。で、うちにも来たんだってな。俺はその時まだ引っ越してないから会わなかったけど。」
「もう!」シュウの肩をポンと叩いた。
「本当にごめんって。まだ地元にいるって聞いて、すぐに会いに行こうと思ったんだけど、なかなか勇気が出なくて。」
「こっちはそうとも知らずにあれから1年以上、ヤキモキしながら待ってたのに。」
「俺はカンナに会いたい気持ちとためらう気持ちの狭間で長いこと戦ってきた。」
「何威張ってるのよ。」
「今日、会ったのは偶然だったけど、それでも会えて良かった。話せて良かった。」
「……うん。」
「カンナは俺と別れてから心に穴が空いたって言ったけど、俺は逆だったよ。カンナにもう一度会いたいという気持ちだけをエネルギーにここまでやってきた。体がどんなに痛くても、そのエネルギーのおかげで耐えられたんだ。」
シュウが急に真剣な目をした。
「でも、やっぱり一度会うと、もっともっとカンナと一緒にいたいと欲が出てきちゃうな。」
「私も。もっとずっとシュウと一緒にいたいよ。」
涙でカピカピになった私の顔をシュウが優しく撫でる。
「うん、ずっと一緒にいような。」
15年で一度途切れた私たち二人の歴史は、9年の時を経てまた動き出した。
どうか、ずっとずっと、1日でも長く続きますように。
私はシュウの腕の中で願った。
完
キミと私の嘘 翠 @meeeee0525
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