俳諧の極意(三)

 総一朗と真吾の前に、豪勢な膳が用意された。だが、酒はない。ただ白湯さゆのみである。

 それは武芸者の心得のようなものであったろうか。酒はひとの関係になごみをもたらすが、度を過ぎると悶着もんちゃくもとになりかねない。

 実はこの連也斎は、生涯妻をめとらず、修行一筋の一生を送ったひとで、変人へんじんの部類に属するのだが、もとより総一朗はそんなことはつゆぞ知らない。

「お主……いや、貴公きこうは、俳諧には興味があるのかな」

 突然、連也斎は、総一朗を“貴公”と呼んだ。それは武芸者として認定したのか、それとも、米寿侍のなかに潜む、常人を超えた部分、すなわち、変人の奇才、鬼才を見抜いたのかは分からない。

 ちなみに、俳諧の歴史は古いが、〈俳句〉の二字は新しく、明治二十年代、正岡子規まさおかしきが、つくった造語である。


「いえ、なにぶん、詩趣ししゅに富みませぬゆえ」

「ほ……そら、その言いようこそ、まさに、俳諧なり。行人こうじんといい、米寿べいじゅ侍といい、貴公は、まだ若いが、できれば、俳諧のような人生を歩んでほしいものだ」


 このとき、連也斎は六十歳。死去するのは約十年ののちだが、総一朗と連也斎はこの先、幾度となく相見あいまみえる宿命的な間柄になろうとは、まだ二人は知らない……。


 余談ながら、もともとは和歌の余興であった

言捨ことすて”(その場その場で読み捨て、記録には残さないこと)の遊び事からはじまり、ここから、滑稽こっけい諧謔かいぎゃくを通じて、人間や自然の真実に迫ることが主流になっていったが、数年後、松尾芭蕉まつおばしょうが弟子の河合曾良を伴い江戸をち、東北から北陸、美濃国大垣までを巡った旅を記した紀行文を著した(『おくのほそ道』)。芭蕉の登場で、より芸術性の高い俳諧へ変わっていくが、当然、連也斎も総一朗もまだ知るよしもない。


「貴公は……」

 連也斎が続ける。

「……滑稽こっけいの字義をご存知か?」

「は……? いえ、恥ずかしながら、存じませぬ」


 総一朗が答えると、連也斎は、先ほどの若い俳諧師に筆とすずりをもってこさせた。

 滑の字を書いたあとで、『稽』と書いた。


「……『滑』は乱を表す。『稽』は、弁舌巧みに是非を論ずることだ。あ、『稽』は、もともとは酒器の名だという説もある、つまりだ、酒がとめどなく流れ出るように、弁舌によどみがない、という意味だ。ほら、まさしく、米寿侍にこそ、ふさわしいではないか」

「は……なるほど」


 素直に総一朗は答えた。


「どうだ、一度、尾張に来てみぬか……是非とも貴公と手合わせを願いたいものじゃ」

「いえ、滅相もございませぬ。こちらこそ、お太刀筋なりとも拝見させていただきとうございます。いつか、必ず、再びお目にかかりとうございます」

「うん、そうか、そうか……」


 そのとき、するりとふすまが開き、現れたうら若き女人の顔を認めて、

「や……!」

と、総一朗は声をげた。

 あの、箸を投げつけてきた女人にまちがいなかった。顔ははっきりとは覚えていなくても、体つきと身の丈、そしてなによりも挙措きょそ端々はしばしから漂うすきのなさこそが、まさしく同一人物だと物語っていた。その女は連也斎の耳ともでふた言三言みこと囁いた。

 すると、うなづいた連也斎がおもむろに腹に差していた鍔なしの短刀を抜いて総一朗に差し出した。

「……貴公の脇差は、もはや、使い物にはならぬようだ。代わりにこれを持っていくがいい」

 何気に受け取った総一朗は、鞘に装飾された三つ葉葵紋をみて驚いた。

「……藩公に頂戴した。尾張中納言葵だ。これがあれば、道中手形の代わりになろう。尾張までは、それを見せれば事足りよう」

「・・・・・・・」

「それと、このわしの娘を、貴公に預けおく。娘と申しても、養女じゃよ」

「え……?」

「口約束だけでは心もとなかろうて。わしの娘を尾張へ送り届ける……となれば、口実ができよう。なんなら、このまま貴公の妻としてもなんらさしつかえはない」


 突然の申し出に、さすがの総一朗も即答はできなかった。

「……やっと舟の用意ができたようじゃ。これで貴公とは、しばしの別れじゃ……の、滑稽の二字、ゆめゆめ忘れるなかれ。あ、娘の名は、せつという、あとはよしなに、の」


 それだけ言い終わると連也斎は立ち上がると、そのまま奥へ消えていった。

 呆気あっけに取られて総一朗は挨拶も返せないでいた。

 そんな総一朗の様子をみて、最初に真吾が微笑み、続いてがくすんと笑った。総一朗は、いままさに滑稽な姿をさらけ出してしまったおのれを想像していた。それでも、の顔を正面からまともにみて、総一朗はぽっと頬を赤らめながら、に向かって辞儀正しく目礼した。

 は笑みを納めて、ほんの少し緊張した表情で総一朗の視線を受け止めた。


               ( 了 )

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【滑稽嬉々怪々雨太夫】米寿侍・田原総一朗series(3) 嵯峨嶋 掌 @yume2aliens

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