俳諧の極意(三)
総一朗と真吾の前に、豪勢な膳が用意された。だが、酒はない。ただ
それは武芸者の心得のようなものであったろうか。酒はひとの関係になごみをもたらすが、度を過ぎると
実はこの連也斎は、生涯妻を
「お主……いや、
突然、連也斎は、総一朗を“貴公”と呼んだ。それは武芸者として認定したのか、それとも、米寿侍の
ちなみに、俳諧の歴史は古いが、〈俳句〉の二字は新しく、明治二十年代、
「いえ、なにぶん、
「ほ……そら、その言いようこそ、まさに、俳諧なり。
このとき、連也斎は六十歳。死去するのは約十年の
余談ながら、もともとは和歌の余興であった
“
「貴公は……」
連也斎が続ける。
「……
「は……? いえ、恥ずかしながら、存じませぬ」
総一朗が答えると、連也斎は、先ほどの若い俳諧師に筆と
滑の字を書いたあとで、『稽』と書いた。
「……『滑』は乱を表す。『稽』は、弁舌巧みに是非を論ずることだ。あ、『稽』は、もともとは酒器の名だという説もある、つまりだ、酒がとめどなく流れ出るように、弁舌によどみがない、という意味だ。ほら、まさしく、米寿侍にこそ、ふさわしいではないか」
「は……なるほど」
素直に総一朗は答えた。
「どうだ、一度、尾張に来てみぬか……是非とも貴公と手合わせを願いたいものじゃ」
「いえ、滅相もございませぬ。こちらこそ、お太刀筋なりとも拝見させていただきとうございます。いつか、必ず、再びお目にかかりとうございます」
「うん、そうか、そうか……」
そのとき、するりと
「や……!」
と、総一朗は声を
あの、箸を投げつけてきた女人にまちがいなかった。顔ははっきりとは覚えていなくても、体つきと身の丈、そしてなによりも
すると、うなづいた連也斎がおもむろに腹に差していた鍔なしの短刀を抜いて総一朗に差し出した。
「……貴公の脇差は、もはや、使い物にはならぬようだ。代わりにこれを持っていくがいい」
何気に受け取った総一朗は、鞘に装飾された三つ葉葵紋をみて驚いた。
「……藩公に頂戴した。尾張中納言葵だ。これがあれば、道中手形の代わりになろう。尾張までは、それを見せれば事足りよう」
「・・・・・・・」
「それと、このわしの娘を、貴公に預けおく。娘と申しても、養女じゃよ」
「え……?」
「口約束だけでは心もとなかろうて。わしの娘を尾張へ送り届ける……となれば、口実ができよう。なんなら、このまま貴公の妻としてもなんらさしつかえはない」
突然の申し出に、さすがの総一朗も即答はできなかった。
「……やっと舟の用意ができたようじゃ。これで貴公とは、しばしの別れじゃ……の、滑稽の二字、ゆめゆめ忘れるなかれ。あ、娘の名は、
それだけ言い終わると連也斎は音もそぶりもなく立ち上がると、そのまま奥へ消えていった。
そんな総一朗の様子をみて、最初に真吾が微笑み、続いて節がくすんと笑った。総一朗は、いままさに滑稽な姿をさらけ出してしまったおのれを想像していた。それでも、節の顔を正面からまともにみて、総一朗はぽっと頬を赤らめながら、節に向かって辞儀正しく目礼した。
節は笑みを納めて、ほんの少し緊張した表情で総一朗の視線を受け止めた。
( 了 )
【滑稽嬉々怪々雨太夫】米寿侍・田原総一朗series(3) 嵯峨嶋 掌 @yume2aliens
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